第3回:マッカートニー(詳細その2)

 
連載3回目は、“マッカートニー・シリーズ”の1作目となる『マッカートニー』の内容を中心に紹介していくことにする。

 
「『マッカートニー』は、ポールが世に公表するのを目的として制作したアルバムではなく、あくまで自身のリハビリのために作った(作らざるを得なかった)アルバムだった」と前回のこの連載で書いた。本作のレコーディングに関してポールは、「機材を準備したのはクリスマスの頃だった」と言っていたので、69年12月下旬にまず、ロンドン(セント・ジョンズ・ウッド)のEMIスタジオ近くの自宅スタジオでステューダーの4トラック・レコーディング機材を使って試し録りをし、70年1月~2月にかけてロンドンのモーガン・スタジオ、そしてEMI(アビイ・ロード)スタジオでさらにレコーディングを続けていったようだ。2011年に発売された『マッカートニー』のアーカイヴ・シリーズの曲目クレジットを見ると、詳細までは記載されていないが、レコーディングは、下記の流れで進んでいったことがわかる。

 
1969年
自宅=「ラヴリー・リンダ」「きっと何かが待っている」「バレンタイン・デイ」「ジャンク」「ママ・ミス・アメリカ」(エンジニア作業はポール)
自宅&モーガン・スタジオ=「ウー・ユー」「テディ・ボーイ」「シンガロング・ジャンク」(エンジニアとミックス作業はポールとロビン・ブラック/「「ウー・ユー」はロビン・ブラックのみ)

1970年2月
モーガン・スタジオ=「燃ゆる太陽の如く/グラシズ」「クリーン・アクロア」(エンジニア作業はロビン・ブラック/「燃ゆる太陽の如く/グラシズ」のミックス作業はフィル・マクドナルド、「クリーン・アクロア」はミックス作業なし)
EMIスタジオ=「エヴリナイト」「男はとっても寂しいもの」「恋することのもどかしさ」(エンジニアとミックス作業はフィル・マクドナルド)

 
こうして並べてみると、69年にレコーディングした8曲をポールが演奏した時には、おそらくまだアルバム作りを意識していなかった可能性がある。だが、70年2月にEMIスタジオに入った時には、もうアルバムのイメージが出来上がっていたに違いない。

その理由のひとつとして、やはりここでもまたビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』の存在がある。映画『レット・イット・ビー』の公開が決まり、それに合わせて70年1月3日に「アイ・ミー・マイン」、翌4日に「レット・イット・ビー」のレコーディングが行なわれた。「アイ・ミー・マイン」は、映画に使われることになったので、ジョージ、ポール、リンゴが(おそらく)久しぶりに顔を合わせ、“ビートルズ最後の新曲”に取り掛かったものだ。「レット・イット・ビー」のほうは、録音済みのテイクに、ポール、ジョージ、リンダ、メリー・ホプキンのハーモニー・ヴォーカル、ポールのマラカスとベース、ジョージのギター・ソロ、リンゴのドラム、それにジョージ・マーティンがアレンジしたブラスやチェロを加えたオーヴァーダビング・セッションである。

ということは『マッカートニー』のレコーディングは『レット・イット・ビー』の最後の仕上げの作業の前後に行なわれたわけで、ポールは、ソロ・アルバムを作ろうと、ビートルズの最後のセッションに臨んだ時に思ったのかもしれない。また、「レット・イット・ビー」のセッションにリンダを参加させたのも、この流れで見ればなるほどとさらに思わされる。

ポールの初のソロ・アルバム『マッカートニー』は、ポールのビートルズ脱退がデイリー・ミラー紙で報じられてからわずか1週間後の70年4月17日に発売された。脱退宣言を自分のソロ・アルバムの宣伝に使ったとジョンはポールを非難したが、その影響でアルバムが売れたのは間違いない。アメリカでは発売2週間後に100万枚を売り上げ、1位を獲得した。

 
ビートルズ脱退宣言直後にポールはどんな内容のアルバムを作ったのか? 『マッカートニー』の発売当時、ビートルズ脱退宣言直後のポールに対する興味・関心の高さはどれほどのものだっただろうか? 期待しない方が無理、というものだ。ファンの声は、こんなふうに聞こえてくる――あの「イエスタデイ」や「ヘイ・ジュード」や「レット・イット・ビー」を書いたポールの最初のソロ・アルバムに、それに匹敵する名曲があるのか。「フォー・ノー・ワン」や「アイ・ウィル」のような洒落た小品もたくさん聴けるのか。

そんなワクワクした思いを抱きながら、LPの1曲目に針を落とす。すると聞こえてくるのは、なんだか「ディグ・イット」のような、あるいは「ハー・マジェスティ」のような中途半端な(?)短い曲である。ポールがソロ・アルバムの最初に収録した重要な曲、それが「ラヴリー・リンダ」だった。

ジョンにヨーコがいるなら、ポールにはリンダがいる。曲名に「リンダ」の名を入れたのは、ジョンとヨーコへの対抗心があったのかもしれない。だが、両者のスタンスは大きく異なる。ポールは一言で言うと“あえてゼロから始める”。“ゲット・バック・セッション”の時もそうだったし、ウイングスを結成した時もそうだ。常に、というわけではないけれど、ポールはそういう動きをすることが多い。初のソロ・アルバム『マッカートニー』の時もしかり、である。

やれば何でもできるのに、あえてやらない――ポールの美意識が、そこに垣間見えるようだ。同じことを繰り返さないのがビートルズ流だとするなら、ポールが最もビートルズっぽいとも言えるだろう。全13曲中、ヴォーカルのない曲が5曲(「グラシズ」を1曲とみなすと全14曲中6曲)もあり、散漫な演奏で、聴くべきところがあまりに少ないと、『マッカートニー』は酷評の嵐となったが、これがポールの「生きる道」である。ポールはやりたいことをやっただけで、それこそ、ビートルズ崩壊のショックを打ち破る唯一の方策だった。

他人任せの『レット・イット・ビー』よりも自分本位の『マッカートニー』。やれることはすべて自分でやるという決意を感じさせるアルバムとなったのは、ポールの意地でもあったのだろう。しかもポールは、やろうと思えばどんな楽器でもこなせるマルチ・プレイヤーとしての技量が備わっているのだから、ビートルズの「他の3人」に、(テレビ番組名になぞらえて言えば)「ひとりでできるもん!」という意思表示をみせたとも言える。リンダとの共同名義となったセカンド・アルバム『ラム』(71年)に収録されている「3本足」は、まさにポールのそんな心境を込めた内容でもあった。

 
そしてまた、今では自宅録音(宅録)は当たり前の時代となったわけだから、『マッカートニー』が元祖宅録アルバムとして高い評価を得ているのは、当然と言えば当然なのかもしれない。初めて耳にすると、ポール主導で作られた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(67年)の対極に位置するデモ・テープの寄せ集めのような演奏に聞こえるかもしれない。だが、メロディ・サウンド・ヴォーカルなどに耳を澄ますと、“音”と向き合うポールの無垢な姿勢が感じられる秀作だということに気づくはずである。そしてまた、ポールは生粋のミュージシャンである、と。

 
『マッカートニー』の代表曲は「エヴリナイト」「ジャンク」「恋することのもどかしさ」の3曲と言ってしまってもいいと思うし、「恋することのもどかしさ」はその後のウイングスのサウンドの基盤を作った曲であるとも思うが、あえて言ってしまえば、『マッカートニー』の味わいは、実はこの3曲ではない。憧れのエルヴィス・プレスリーばりのヴォーカルを披露した「きっと何かが待っている」、リンダとの初デュエット曲「男はとっても寂しいもの」、ジョンとヨーコに対抗したかのような、あるいはその後のファイアーマンなどを彷彿させる実験的な「クリーン・アクロア」の3曲である。ブルース調の「ウー・ユー」と、マルチ・プレイヤーとしての力量を見せつけた「ママ・ミス・アメリカ」も加えたいところだ。

 
ビートルズと決別し、リンダと歩んでいくことを決めたその意思を公に示したアルバム、それが『マッカートニー』だった。リンダが撮影した見開きジャケットの写真の数々には、ポールのそんな思いが込められている。

 
 
☆ 第1回:マッカートニー・シリーズとは(総論)>>
☆ 第2回:マッカートニー(詳細その1)>>
 


『マッカートニーⅢ』2020年12月18日発売