年代別ストーンズLIVEの目撃者たち:完結編/寺田正典氏

2017.12.25 TOPICS

『オン・エア』発売記念企画
年代別ストーンズLIVEの目撃者たち

 
ストーンズ初のBBC音源作品『オン・エア』の発売を記念して1962年にバンドを結成して以来、2017年の現在に至るまでライヴ活動を続けているストーンズのLIVEの魅力を実際に見ている方々の言葉で語っていただく本企画。

元レコード・コレクターズ編集長であり、ストーンズ研究の第一人者である寺田正典氏が語る、世界最高のロック・バンド、ザ・ローリング・ストーンズのライヴ変遷の完結編。
お楽しみください。


寺田正典(総括編)
世界最高のロック・バンド、ザ・ローリング・ストーンズのライヴ変遷(その4)

ヴードゥー・ラウンジ・ツアー(1994~1995年)
~メンバー・チェンジを経たサウンドの変化と新たな試み~

94~95年のヴードゥー・ラウンジ・ツアーも基本的には89~90年の復活ツアーのパターンを踏襲していたと思います。ただし、オリジナル・メンバーのビル・ワイマンの脱退を受け、ダリル・ジョーンズが初めてベースを任されるようになり、非常にシンプルなラインを弾いていたのが目立ちました。個性的なメンバーのノリの組み合わせで表現されていたストーンズ的なシンコペーションを統合して、ひとつのわかりやすいビートとして表現するような役割を果たしていた曲もあります。もちろん加入したてですから、まだ手探り状態でツアーにしたような感じもあったのかもしれません。前回のツアーで活躍したマット・クリフォードはステージ上からは姿を消し(ツアーには同行して影からサポートを続けていたようです)、コーラス隊やホーン・セクション(3人組のニュー・ウェスト・ホーンズに替わりました)の人数も減らすなどシンプル化した面もあり、それによってふたりのギターが前面に出るようになったことはファンには好意的に受け入れられたと思います。
オープニング・ナンバーはアメリカでのデビュー曲でもあったバディ・ホリーの「ノット・フェイド・アウェイ」をセレクト。この曲のポイントである50年代のボ・ディドリー・ビート(一部アクセントは変えてありましたが)でコンサートが始まるというのもロックンロールの伝道者としてのストーンズの立場を鮮明にする意味がありました。セットリストにおいても長らくライヴでは取り上げていなかった「ロックス・オフ」など70年代の忘れられていた名曲を取り上げたりしてファンを喜ばせました。さらに、ケーブルテレビの中継が入った94年11月のマイアミ公演では、「悲しみのアンジー」ほか2曲をアコースティック・セットで演奏、それが翌95年3月の日本公演直前に行なわれた東芝EMIのスタジオでのアンプラグド・スタイルでのレコーディングにつながります。6月からのヨーロッパ・ツアーに先駆けて5月にアムステルダムのウォーム・アップ・ギグでもアコースティック・メインでの演奏を繰り広げ、この流れはMTVから生まれた“アンプラグド”ブームに対してストーンズらしい対応ぶりを見せた変則ライヴ・アルバム『ストリップト』のリリースへと発展していきます。アコースティック中心の演奏の中で、60年代にブルースマンのジミー・リードのスタイルに大きな影響を受けて作ったオリジナル曲「クモとハエ」をよりリード・スタイルに近づけたアレンジで再び取り上げるなど“裸”になって自己のルーツ再確認するような部分を含む、というストーンズらしい作品に仕上がっていました。また、ボブ・ディランの名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」を、まるで自分たちに向けて書かれた曲だったかのように堂々と取り上げたこども大きな話題になりました。
キースの衣裳がよりワイルドになり、古くからのファンの溜飲を下げさせることになった一方、サポート・メンバーのチャック・リーヴェルがミックやキースの承認を経てスタッフに配布したとされるセットリストには、恐らくライティングなどの演出の参考にするためだったのでしょう、曲ごとのBPMの数値が記されており、それに縛られたわけでもないんでしょうが、ベーシストの交代の影響も相まって演奏テンポがすっかり安定し、曲の途中からみんなが“走り”気味になってしまうような70年代のライヴを思い出させるワイルドさはほとんど観られなくなってきました。
参考資料:『Live Voodoo Lounge』『ヴードゥー・ラウンジ・ワールド・ツアー’94~ライヴ・フロム・ジョー・ロビー・スタジアム・イン・マイアミ』『ワールド・ツアー94〜95〈ヴードゥー・ラウンジ〉イン・ジャパン』『ストリップド』『トータリー・ストリップド』『トータリー・ストリップド~ライヴ・アット・オランピア・パリ 1995.07.03』

ブリッジ・トゥ・バビロン・ツアー(1997~1998年)/ノー・セキュリティ・ツアー(1999年)~ヴァリエーションの増加とエンターテインメント性の強化~
この97~98年ツアーの話題は演奏スタイルそのものというより、新しく設けられた、オーディエンスの真ん中に位置するBステージへの移動のために、ハシゴ車の仕組みを応用したような“ブリッジ”がメイン・ステージからBステージに向けて伸びてくる、というステージ・セットの画期的なギミック(Bステージの設置自体はU2の方が早かったと記憶していますが)、や、インターネット投票の導入、そして一新されたPAシステムであったかもしれません。それくらい、89~90年の復活ツアー以降の演奏スタイルが確立~安定してきた、ということも言えるはずで、座席によっては音質的な厳しさと直面せざるを得なかった巨大コンサートを今までよりいい音で楽しめるようになったことは多くのファンに歓迎されました。個人的には復活ツアー以降採用していた“トリガー”を使って強調していたチャーリーのバス・ドラムのヴォリュームが抑え気味になってしまったという点で寂しさも感じたのですが、低音部を整理したことでギターを中心としたバンド・サウンドはアグレッシヴさをましながらもすっきりと聴きやすくなったことは確かでした。
セットリスト的には、81年ツアーの中盤以降、ステージ終盤のクライマックスに演奏されるナンバーとして定着していた代表曲中の代表曲「サティスファクション」をオープニングでプレイするという意表をついた構成、チャック・リーヴェルの活躍もあり、キーボードの役割が大きい、たとえば「シーズ・ア・レインボー」のような60年代の曲も取り上げられるようになり、選曲の幅はさらに広がり、インターネットでのリクエストに応える余裕も出てきました。また、こうしたことが可能になったことにより、インターネット時代が本格化し、どの国で演奏していてもすぐにそのセットリストが各国のファンに伝わってしまうような状況の中、毎日毎日、刺激的な情報を世界中にほぼリアルタイムで届けることをストーンズ側が意識し始めた結果でもあったはずです。コーラス隊に新たに南アフリカ出身で元フレイム~ビーチ・ボーイズのブロンディ・チャップリンが加わったことも話題でした。このツアーからは、そうした選曲の幅の広がりも反映してレア曲も多く収録されたライヴ・アルバム『ノー・セキュリティ』が生まれました。
このツアーが続く中、99年1~4月に北米でだけ、前年暮れにリリースされたライヴ・アルバムのタイトルを冠して行なわれたノー・セキュリティ・ツアーのオープニングは、まるで開き直ったかのような「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」。裏の裏が表になったような爽快感さえ漂う潔いオープニング・ナンバーの選択でした。これ以後、ストーンズのコンサートでは、この「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」に加えて「スタート・ミー・アップ」そして「ブラウン・シュガー」といった、すでにオープニングを飾るのにも実績十分な名曲のうちのどれかが使われることが多くなります。ミックを先頭に円熟を迎えたステージングに加え、マニアをも納得させる選曲で楽しませてくれたこのノー・セキュリティ・ツアー。ファンからも高く評価され、5月からのブリッジズ・トゥ・バビロン・ツアーのヨーロッパ・ツアーでの延長戦も、「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」で始まる同様のセットリストで行なわれました。
参考資料:『ザ・ローリング・ストーンズ ブリッジズ・トゥ・バビロン・ツアー』『ノー・セキュリティ』

リックス・ツアー(2002~2003年)
~さまざまなニーズに対応する21世紀型ストーンズの誕生~

2002~2003年には初めて組まれたオールタイム・ベスト盤『フォーティ・リックス』のリリースに合わせて世界ツアーを敢行します。60年代から2002年の新曲までの代表曲を一気に楽しめるアルバムと共にストーンズの歴史を振り返るという意味合いが一層濃くなったツアーでもありました。このツアーでは中小規模の会場も積極的に使われました。それらはスタジアム(4~7万人クラス)、アリーナ(数千人から1~2万人クラス)、シアター(1000~2000人クラス)と三つのクラスに分けられ、それぞれの会場の規模に合わせたセットリスト、演出が用意されました。03年3月の日本公演では、あの武道館が一番狭いクラスのシアター公演! として行なわれたことを覚えているファンの方も多いと思います。ちなみにその時には横浜アリーナでアリーナ公演、東京ドームと大阪ドームでスタジアム公演が行なわれました。
オープニング・ナンバーとして、スタジアムでは「ブラウン・シュガー」、シアターでは「ストリート・ファイティング・マン」「スタート・ミー・アップ」、シアターでは「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「スタート・ミー・アップ」が演奏されることが多かったようです。会場のクラスを分けてそれぞれにテーマ性をもたせたことで選曲の幅はさらに広がり、『メイン・ストリートのならず者』のような名盤に焦点を当てたコーナーが設定されたり、特にシアター公演では「エヴリバディ・ニーズ・サムバディ・トゥ・ラヴ」や「ウォリード・アバウト・ユー」といったソウル/R&B色の濃いナンバーをミックが熱唱するシーンも観られました。またシアターとアリーナで用意されたBステージでは時に「マニッシュ・ボーイ」などのブルースを取り上げたり、自分たちのオリジナルの中でもシンプルめなロックンロールをプレイしたりと、かつてのライヴ・アルバム『ラヴ・ユー・ライヴ』のエル・モカンボ・サイドを目の前で実演してくれているような醍醐味を感じさせてくれました。
音響的なことを言えば、まずギター・サウンドがよりクリアになりました。パワフルなディストーション・サウンドというより、透明感が残るクランチ系の響きが印象的でした。一方、バス・ドラムのトリガー使用が復活、スネアの音も硬質に調整される一方、タムタムの鳴りがものすごく豊かになったりと、チャーリーのドラムスがかなりメリハリの効いた特徴的なトーンで届けられていたことも強く印象に残りました。ただし、Bステージでは、ギター・トーンなどももう少しワイルドに聴こえるように調整されており、ハッキリと差が感じられるような細かい演出もされていたように思います。
参考資料:『ライヴ・リックス』『フォー・フリックス』

ビガー・バン・ツアー(2005~2007年)
~自分たちの年代なりのスタイルを模索したうえでの進化(深化)~

ステージの上にオーディエンス用の特別席を設けるという前代未聞なステージ・セット
の話題で始まったア・ビガー・バン・ツアーでのストーンズは、ややスッキリとしたイメージを残した前ツアーから一転、演奏的にも音響的にも再びアグレッシヴさを感じさせてくれるようになりました。また恒例になったBステージでの演奏のあとメイン・ステージへ戻る際には、Bステージの床板ごと移動しながら演奏を続けるという荒技も見せてくれました。これはPAやモニター・システムのことを考えると、技術的に相当困難な試みだったのではないかと推測されます。
個人的には、06年4月のさいたまスーパーアリーナ公演でのアンコール、「サティスファクション」でのロン・ウッドのギター・プレイが忘れられません。アーミングも使いながら「ピー」とか「ガー」とか「ジー」とかいう軋むような音を随所で鳴らし、最後はアンプのところに下がっていってフィードバック音まで響かせるなどあまりにも自由なプレイぶりで、リアルタイムで見ている時は“遊んで”いるようにも思えました。しかし、のちにテレビ放送されたその演奏を何度か見返すうちに、それはこの名曲にノイジーなサウンドを載せることで、新しい解釈を加えようとする彼なりの挑戦だったのかもと感じられるようになってきたのです。この時期、キースもこの曲のリフを途中から、69年や78年にやっていたように不協和音も重ねたブ厚い音で弾いており、あとからよくチェックすると、ロン・ウッドもそうしたノイジーなプレイを毎回のように聴かせていたようです。ひょっとするとポスト・グランジ・バンドたちへのストーンズからの回答みたいなものだったのかもしれませんが、のちにロン・ウッドがかつてロンドンのアパートでジミ・ヘンドリックスと一緒に住んでいたというエピソードを知って妙に納得したりもしました。そこからもわかるように、プレイヤー/メンバーとしてのロン・ウッドの個性がグッとまた出てくるようになったのもこのツアーの頃だったような気がします。日本公演絡みの思い出をもうひとつだけ。初日の東京ドームで、全日のWBC日本代表チームの優勝を受けてミックが口にした「日本、優勝オメデトー! 10対6。スゴい!」は何も突飛なものではなく、前回掲載した中で触れた、ツアー先の都市のスポーツ・ファンの共感を得るためのミックの通常のふるまいの一貫として理解されるべきものだったと思います。
ダリル・ジョーンズの参加以降、演奏テンポが終始安定していたステージ上でのストーンズですが、このツアーの終盤では各曲の演奏がかなりテンポアップしていて、70年代を思い起こさせるようなところもありました。他方、声を高めに押し出すようにするミックの21世紀型歌唱法と、スポーティなアクションが目立ってきたのもこのころ。スリムさをより強調するような衣装も目立ってきました。
参考資料:『ザ・ビッゲスト・バン』『シャイン・ア・ライト』

2012年~現在
~いまやストーンズの“枯れ”をも楽しむべき~

久々のライヴ活動再開となった12年11月スタートの50周年記念ツアーの一番の話題は、かつて在籍メンバーをゲストに迎えたことでした。69年~74年に在籍したギタリストのミック・テイラーが久々にストーンズに同行(2014年まで)、最初のロンドンでのコンサートにはオリジナル・ベーシストのビル・ワイマンもゲストに迎えて行なわれました。各公演にも様々なゲストを迎えて行なわれ、華やかなものとなりました。その一方で、ホーン・セクションは外され、お馴染みのボビー・キーズと1999年以来、ホーン・セクションの一員として演奏してきたティム・リースというふたりのサックス奏者だけが同行するという形に縮小されました。ティムが各種サックスのほかキーボードも弾けるマルチ・アーティストだということもポイントだったようですし、R&B感覚の強いボビーとメロディアスなプレイが得意なティムというふたりのコントラストをうまく使い分けようという意図もあったはずです(かつてボビーが吹いていた「ミス・ユー」のサックス・ソロを今はティム・リースが担当していますので、聴き比べてみるのも興味深いです)。また、95年以来ずっとツアーに参加しているダリル・ジョーンズが代表曲「ミス・ユー」の途中で毎回ベース・ソロを任せられるようになったのは、バンドとして大きな意味のある変化だったと言ってもいいでしょう。
ボビーの体調悪化のため(悲しいことに彼はその年の暮れに亡くなります)、14年10月からのオセアニア・ツアーからはカール・デンソンがサックスを担当。88年のミックのソロ・ツアー以来のリサ・フィッシャーがストーンズのツアーを「卒業」することになったため16年3月のラテン・アメリカ・ツアーからはサーシャ・アレンへとサポート陣の交替は相次ぎますが、しばらく影でのサポートが続いていたマット・クリフォードは再びステージに立つようになり、公演先のクワイアをゲストとして招いて演奏される「無情の世界」では、イントロのフレンチ・ホルンとクワイアの指揮を任されたりもしているのみならず、16年のラテン・アメリカ・ツアーからは、また「ミス・ユー」のハーモニカや各種パーカッションも担当するようになるなど、ホーン・セクションの不在を感じさせない華やかなサウンドを聴かせるようになってきている昨今のストーンズではあります。
一回のツアーに含まれる公演数こそ減りはしましたが、ツアーは〈50&カウンティング…〉〈4 オン・ファイアー〉〈ジップ・コード〉〈アメリカ・ラティーナ・オレ〉などと名前を変えながら断続的に続いており、中でもアメリカとキューバの国交回復を気に行なわれたラテン・アメリカ・ツアーの最後に行なわれたストーンズ初のキューバ公演は世界的に大きなニュースになりました。
さすがにここ数年は、代表曲の演奏のテンポがだんだん落ちてきていることが話題になることも多くなってはきていますが、いざという時にテンポがゆったりになったら、なったなりの深いグルーヴを聴かせるだけの底力はまだ保っているように聞こえます。ミック、キースもすでに74歳になりました。さすがにストーンズの演奏にも“枯れ”のようなものを感じるようにもなってきました。しかし、15年5月にLAで行なった『スティッキー・フィンガーズ』全曲演奏ギグのような企画にチャレンジするだけの積極性と、21世紀になっても自分たちのルーツであるブルースを、『オン・エア』から聴きとることができるのと同じ情熱を持ってプレイするだけのルーツへの忠誠心、これらがあり続ける限り、まだまだストーンズはライヴの場でも転がり続けてくれると信じています。願わくば、来日公演をもう一度!
参考資料:『“スウィート・サマー・サン”ストーンズ・ライヴ・イン・ロンドン・ハイド・パーク 2013』『スティッキー・フィンガーズ〜ライヴ・アット・ザ・フォンダ・シアター2015』

 
インタヴュー&テキスト: 山田順一