BIOGRAPHY

ザ・ローリング・ストーンズ  / The Rolling Stones

Stones -A1962年、ロンドンで結成。翌63年にシングル「カム・オン」でデビュー。

当時のメンバーはミック・ジャガー(Vo)、キース・リチャーズ(G)、ブライアン・ジョーンズ(G)、ビル・ワイマン(B)、チャーリー・ワッツ(Ds)

「サティスファクション」「黒くぬれ」「夜をぶっ飛ばせ」等、ブルース/R&Bに根差したワイルドなサウンドと不良っぽいイメージで、ビートルズに対抗する世界的なバンドとなる。
1968年の「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」以降は、よりルーツに根差した泥臭いサウンドを展開。
翌年にジョーンズが脱退、ミック・テイラーが加わると、2本のギター・アンサンブルを軸とするルーズでヒップな”ストーンズ風R&R”を確立、「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「イッツ・オンリー・ロックンロール」等、後のステージの定番となる代表曲を次々と生み出す。
1976年、ギタリストがテイラーからロン・ウッドに交代した後も、変わらぬスタイルに流行も巧みに取り入れつつ、「ミス・ユー」「スタート・ミー・アップ」等のヒット曲を連発。
1990年には初来日公演が実現、1993年にビル・ワイマンが脱退するも、大規模なワールド・ツアーをコンスタントに実施するなど、
半世紀に亘りシーンの第一線に君臨し続けるロックの代名詞的な存在である。

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■最初のライヴは、ロンドンのマーキー・クラブで

 ローリング・ストーンズが今年2012年で活動50周年を迎える。
 50周年と言えば半世紀、メンバーの入れ替えは少々あったとはいえ、これはとてつもないことだ。
 「活動50周年」というからには、活動のスタート地点が存在する。それは、1962年7月12日のロンドンはマーキー・ジャズ・クラブでのコンサート。この時に、それまでのリトル・ボーイ・ブルー&ザ・ブルー・ボーイズから改名した「The Rollin’ Stones」という、尊敬するブルースマン、マディ・ウォーターズの曲名からつけたグループ名で初めてライヴをやっているのだ。有名なストーンズ結成の原点となるエピソード――ミック・ジャガーとキース・リチャーズの二人が地元ダートフォードの駅で運命の再会を果す――から約2年後のことだった。ただし、メンバーはその後とはちょっと違って、ミック・ジャガー(’43年生まれ/ヴォーカル、ハーモニカ)、キース・リチャーズ(’43年生まれ/ギター)、ブライアン・ジョーンズ(’42年生まれ/ギター、ハーモニカ)、イアン・スチュワート(’38年生まれ/ピアノ)に加えて、ディック・テイラー(’43年生まれ/ベース、後にプリティ・シングス)、ミック・エイヴォリー(’44年生まれ/ドラムス、後にキンクス/トニー・チャップマン説もあり)というラインナップ。
 その後、’62年12月、よく知られるように「VOX AC30アンプやエコー・ユニットにバカでかいスピーカー等の機材をオーディション会場に持って現われた」というビル・ワイマンが、辞めたディック・テイラーの代わりに加わり、さらに翌年1月、尊敬するアレクシス・コーナー率いるR&Bバンド、ブルース・インコーポレイテッドにも長く在籍していたチャーリー・ワッツ(’41年生まれ)をバンドに引き入れることになる。
 彼らは、マーキー・クラブでブルース・インコーポレイテッドを中心としたR&Bセッションに参加して腕を磨く一方、リッチモンドのステーション・ホテルの中に、ジョルジオ・ゴメルスキーによって作られたクラブで定期的に演奏をするようになり(「その時期、彼らがクライマックスに演奏していた「Doing The Crawdaddy」という曲にちなんで、そのクラブはやがてクロウダディ・クラブと呼ばれるようになる)、そこで、彼らはロンドンの先鋭的な音楽ファンの間で次第に大きな存在となっていき、同時に、デビューに際し大きな役割を果すことになる若いマネージャー、アンドリュー・オールダムと出会う。
 彼らの前年にデビューし、すでに成功の階段をハイ・スピードで昇り始めていたビートルズに続いて、ストーンズがチャック・ベリーをカヴァーしたシングル「カモン」でデビューするのは1963年6月7日。レコード会社はデッカだった。デッカは、それ以前に、ビートルズをオーディションで落としてしまうという大失態を演じてしまっており、その代わりになるグループを探していたところに、ピタっとハマったのがローリング・ストーンズだったのだ。その存在をデッカ社長のディック・ロウに耳打ちしたのは、そのビートルズのジョージ・ハリスンだったというエピソードも最近ではかなり知られるようになってきた。
 そのデビューの際には「イメージがバンドにそぐわない」とのマネージャーのアンドリュー・オールダムの指示により、イアン・スチュワートがプレイは続けるものの表側のメンバーからは外されることになった。メンバーたちにとっては不本意だっただろうが、これがアンドリューの仕掛ける成功戦略の第一歩となった。
 音楽的には、R&Bの追求を旗印にしていたストーンズは、クリフ・リチャード&ザ・シャドウズのような一世代上の人気ロックンロール勢と一線を画すためもあったのだろう、この時期は自分たちをロックンロール・バンドとは自称せず、あくまでR&Bバンドというスタンスを保持した。ただし、R&Bだからといって、今で言うソウル・ミュージックだけを彼らは追求していたわけではなく、当然ブルースも大きな柱であったし(文献などもいろいろ検証してみると、当時のロンドンでは「R&B」と言えば、ブルースなども含む黒人音楽のかなり広い範囲のことを指していたようなニュアンスがある)、ロックンロールやフィル・スペクター・サウンドのようなポップスから多くのことを吸収していたはずである。また当時のロンドンの先進的な音楽シーンではトラディショナル・ジャズやフォーク、カントリーといった音楽要素も非常に重要な位置を占めており、ストーンズが自分たちの周辺でいつもプレイされていたそれらの音楽に対して目を瞑っていたというわけでは決してない。
 2枚目のシングル「彼氏になりたい」をジョン・レノン&ポール・マッカートニーに提供されながら、その後のストーンズは、自らをビートルズの対抗馬、それもビートルズが「明」ならストーンズが「暗」、つまり社会に対してより反抗的な存在、というイメージ操作を行なうことで、イギリスのポップ・ミュージック界の中に居場所を確保することに成功した。
 彼らの初めての英国ツアーは、アメリカからのエヴァリー・ブラザーズ、ボー・ディドリーらとのパッケージ・ショウ形式。次にはザ・ロネッツらと回ったが、そのロネッツを追っかけるようにして英国入りした、彼女たちのプロデューサー、フィル・スペクターも立ち会ってレコーディングされた彼らのファースト・アルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』が4月にリリースされると、すぐに全英チャート1位を獲得。グループ名すらも印刷されておらず、シックな出で立ちの5人を捉えた写真を前面に押し出したジャケットで成功を収めたのは快挙だった。

■アメリカ大陸へ進出し、ヒット曲の制作拠点を移す2

 ストーンズが次に目指したのは大西洋の向こう側で、彼らが憧れた音楽の多くを生み出したアメリカだった。’64年6月に初上陸して行なった彼らの初ツアーこそ低調に終わったが、10月の2度目の渡米時には、ビートルズと同様に人気テレビ番組「エド・サリヴァン・ショウ」に出演を果たしたのに加え、何といっても、この2度の渡米中に彼らのヒーローであったマディ・ウォーターズやチャック・ベリーも録音に使っていたシカゴのチェス・スタジオでのレコーディングが実現したことは、今後の活動に向けての大きな糧となった。レコーディングの成果自体も上々で、その主要部分はさっそく米国で2枚目のアルバムとして’64年10月に発売された『12×5』に収められることになる。またその時にレコーディングされた一曲「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」(ヴァレンティノズのカヴァー)がシングル・カットされると、英国で初のナンバー・ワン・ヒットに輝いた。
 これ以降2年ほど、ストーンズは拠点のロンドンより米国でのレコーディングを重要視するようになるが、これは彼らが当時の英国のスタジオ環境に不満を持っていたことに加えて、LAのRCAスタジオには、フィル・スペクターの下で辣腕を振るっていたアレンジャーのジャック・ニッチェが現われ、自らキーボードを弾いたりしながら彼らの次第に「クリエイティヴ」になっていく創作活動を見守ってくれたからだった。
 一方、アンドリューの勧めでミックとキースの二人は作曲により積極的に取り組むようになり、’65年3月には英国で初めてオリジナル曲「ラスト・タイム」をチャートのトップに送り込むが、これもLAで録音された曲。また、米国での成功を決定づける曲も、そんな態勢の中から生まれてくる。ファズを通したギター・リフに先導されるように若者の立場からの社会に対するハッキリした形のないフラストレイションを高らかに歌い上げたオリジナル曲「サティスファクション」は、ジャック・ニッチェがピアノを弾き、LAのRCAスタジオで完成した曲。’65年5月にリリースされるとじわじわと売れ始め、7月にはついにストーンズに初の全米1位の栄冠をもたらすことになった。この時点からストーンズの活動の場は次第に「世界」的スケールに広がっていくことになる。
 そんなLAでの創作作業が頂点に達したのが’66年6月(英国では4月)にリリースされた『アフターマス』で、当初はR&Bのカヴァーを多くアルバムに詰め込んでいた彼らが、初めてオリジナル曲だけを収録した作品を作り上げたのだった。それまで学んできたR&Bテイストをベースにしつつも、モータウン・サウンドからビーチ・ボーイズまで、米国の音楽の「新しい風」も吸収して作られたヤワではないポップ・アルバムは、英国でも米国でも高く評価された。
 ’60年代半ばから後半にかけて、ますます充実した活動が続いていくかと思われたストーンズに思わぬ難題がふりかかったのが、’67年のドラッグ裁判。2月にキースの自宅レッドランズで開かれていたパーティ会場を警察に踏み込まれたことを皮切りに、ミック、キース、そしてブライアンの3人が裁判にかけられることになったのだ。数日で保釈されたとはいえ、ミックとキースが実際に投獄もされたことで、彼らの活動を大きく制約を受けることになる。おかげで、出演の可能性もあったこの年の夏のハイライト、モンタレー・ポップ・フェスティヴァルにはバンドとして出演することはできなくなり、サイケデリックな色彩の強く出たアルバム『サタニック・マジェスティーズ』(リリースは米国が’67年11月、英国が同12月)の制作も難行、このことと裁判のケアが十分にできなかったことで、初期の彼らを支えたマネージャー兼プロデューサー、アンドリュー・オールダムとストーンズの関係は終焉を迎えることになった。以後は、’60年代半ばから主に米国でのプロモーションを担当していた会計士、アレン・クラインがマネージメントを担当するようになる。
 さらに問題化してきたのは、初期の音楽的リーダーであったブライアン・ジョーンズの精神状態だ。前マネージャー、アンドリューの戦略で、ミックとキースが作曲を任されるようになり、次第にグループ内で主導権を奪われる格好になっていた上に、彼もドラッグ裁判に巻きこまれることとなった。その上、恋人だったアニタ・パレンバーグをキースに奪われるというようなプライヴェートな問題も重なり、ブライアンの気持ちは次第にストーンズから離れがちになり、レコーディング現場で本来の担当楽器であるギターを弾くことも少なくなっていった。ただ、’66~’67年の”スウィンギン・ロンドン”の時期を彩ったストーンズのカラフルな楽曲の多くでは、ギターに興味をなくしたブライアンが取り組んだシタール、マリンバ、リコーダーやメロトロンといった楽器が大きくフィーチャーされており、そのことがブライアンの才能を広く知れ渡らせるという皮肉な結果にもつながっていた。
 そうした混迷の時期から抜け出すきっかけになったのが、’68年5月にリリースされたシングル「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」だった。それまで以上にソリッドなギター・リフを持つこの曲は、リリースに合わせてプロモーション・フィルムも制作され、ギターを手にしたブライアンを含む、毒々しいイメージのストーンズの5人がプレイする姿が視聴者に鮮烈な印象を与えたこともあり、ストーンズは久々に全英チャート1位に返り咲いた。このストーンズのサウンド面での変身に手を貸したのは米国出身のプロデューサー、ジミー・ミラーで、ストーンズは彼と一緒に’70年代、ギター・バンドとしての黄金期を駆け抜けていくことになる。
 「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」に続いて12月(米国では11月)にリリースされたアルバム『ベガーズ・バンケット』は、ボブ・ディランらが先導するルーツ・ミュージック回帰の動きから刺激を受けたこともあって、アコースティック・ギター使用の比率がこれまでになく高く、英国でのブルース・ブームにも呼応した見事な「バック・トゥ・ザ・ルーツ」アルバムとなった。また、その冒頭を飾った「悪魔を憐れむ歌」は、「サタンの視点からの文明批評」というテーマにこそサイケデリックな喧騒の残り香を感じさせるが、ガーナ人のパーカッション奏者によるコンガと、もともとジャズ・ドラマーだったチャーリーによるテクニカルなリム・ショットの組み合わせで聴かせるアフロ・ビートはかなり先鋭的なもの。さらに「ストリート・ファイティング・マン」は、パリ五月革命やヴェトナム反戦運動など、この年、世界各地で吹き荒れた「政治的に過激な動き」を助長する曲として放送禁止扱いになったり、暴動騒ぎになったシカゴ民主党大会での写真を使った同シングルのジャケットが問題になって回収騒ぎになったり、アルバムに関してもジャケットをめぐってレコード会社とバンドが対立したことでリリースが遅れたりと、前年のドラッグ裁判をめぐる騒動に続いて、単に反社会「的」というだけでなく、具体性のあるトラブルメイカーとしてのストーンズのイメージはこの頃に固まったと言っていいだろう。3
 一方、日本でもこの年を頂点とするGSブームの中で「テル・ミー」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」といった初期ストーンズのレパートリーがいろんなグループに取り上げられ、日本でのストーンズ人気を大きく底上げしたということも注目すべき出来事だった。
 69年に入るとバンドはついに大きな決断を下す。バンド内の「不安定要因」となっていたブライアン・ジョーンズに代えて、元ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズの新鋭ギタリスト、ミック・テイラー(’48年生まれ)を加入させることを6月10日に発表。さらに衝撃的だったのは、そのブライアンが7月2日の深夜、自宅プールで死体となって浮いているところを発見されたことで、それを受けたストーンズは、その二日後に予定されていたハイド・パークでのフリー・コンサートを急遽ブライアンの追悼コンサートとして開催することになる。ミック・テイラーを加えた第2期ストーンズの不穏なスタートだった。
 それでも新生ストーンズは、11月に、それまでにない規模で行なわれた3年ぶりの北米ツアーを無事乗り切り、来るべき’70年代のロック大規模化の時代に見事に対応して見せた。7月に発売されたシングル「ホンキー・トンク・ウィメン」は英米で1位になり、続いて12月にリリースされたニュー・アルバム『レット・イット・ブリード』では、自分たちの’60年代の活動の集大成をするかのようなスケールの大きな音楽を作り上げた。しかし、そのツアーの最後にギリギリになって加えられたサンフランシスコ近郊オルタモントでのフリー・コンサートでつまずいてしまう。準備不足で殺伐とした雰囲気の中、一人の黒人生年が警備に雇ったヘルズ・エンジェルズにより刺殺されるという事件が起こってしまったのだ。「愛と平和」をスローガンに盛り上がった同年8月のウッドストック・フェスティヴァルの「再現」を狙ったつもりが、結果的には逆に、激動の中にも楽観主義が蔓延していた’60年代を幕引きする役を自ら演じてしまったのだった。

■「無法者」的な存在感が存分に発揮された’70年代4
  
 ’70年代に入ってストーンズは、まずビジネス上の二つの問題解決に苦心する。ひとつは、自分たちの新しいレーベルの立ち上げ。そしてもうひとつは、’60年代の後半にグダグダになってしまっていた財務状況の立て直し。前者に関連して前マネージャー、アレン・クラインとの代理人契約解消に多少モタついたが、かつて憧れていた米国のレコード会社、チェスの創業者の息子マーシャル・チェスを代表にした新レーベル「ローリング・ストーンズ」を、やはりファンだった米国のアトランティック・レコーズ傘下に設立することができた。後者に関しては、英国の高い税率から逃れるために、メンバーがいったんフランスに移住するという「税金逃れのための国外移住(tax exile)」という手段を選ばざるを得なかった。
 新レーベルからのアルバム第1弾『スティッキー・フィンガーズ』は、’71年4月にリリース。その直前に先行シングルとしても発売され、アルバムの冒頭も飾る「ブラウン・シュガー」(全米1位)は、ミック・ジャガーが作った曲ながら、’60年代末にキースが古いレコードの研究や、ゲストとして米国からやって来たライ・クーダーのプレイからヒントを得て作りだした「オープンGチューニングによる5弦ギター」ならではのリフが詰まった曲だ。このリフ作りと独特のシンコペイションを持ったビート感は、’70年代を迎えたストーンズ・サウンドの新たな魅力となっていく。また、カントリーに造詣の深かった米国人ミュージシャン、グラム・パーソンズとの交流から生まれた「ワイルド・ホース」、さらにブルース・カヴァーや、サザン・ソウルからの影響をモロに感じさせる曲も含んだこのアルバムは、ストーンズのアメリカ大衆音楽研究の成果が一段と「深化」したことを示す作品でもあった。
 続く『メイン・ストリートのならず者』(’72年5月リリース)は、原題”Exile On Main St.”が”Tax Exile”になった自分たちの存在を皮肉ったようなフレーズになっていることから想像つくように、その重要部分は移住先のフランスでレコーディングされたアルバムだった。2枚組18曲というヴォリュームの中には、「ブラウン・シュガー」が持っていたビート感覚をさらになめしたようなコクのあるグルーヴに仕立てた「ダイスをころがせ」や、キースがリード・ヴォーカルを務め、ステージでの彼の代表的なレパートリーともなる「ハッピー」のようなロックンロールもあり、またカントリーなど米国南部的なものからさらに南に下ってカリブ海方面を見据えたような音楽要素がうまく取り込まれている。といってそれらが行儀よく収まっているのではなく、視座の広さとロック的要素がミックスされた素晴らしい仕上がりとなった。リリース当初こそ充分に理解されたとは言い難かったが、’80年代以降大きく再評価され、今では、メディアの人間から新旧のファンまでが「このアルバムこそがストーンズの最高傑作!」と口を揃える一作となっている。
 傑作アルバム『メイン・ストリートのならず者』を引っ提げ’72年6月にスタートさせた北米ツアーはスキャンダラスな話題も大いにふりまいたが、3年前のツアーをさらにスケールアップした形で展開し、彼らの歴史の中でもメモリアルなものになった。その勢いを受けて行なわれた’73年初頭のパシフィック・ツアーでは、ハワイとオーストラリア/ニュージーランド公演の間、1月28日~2月1日に日本武道館で五日間連続の初来日公演が予定されていたのだが、’60年代のドラッグ裁判の件を問題視した日本政府がミック・ジャガーにビザを発行しないことがわかったために中止。この事件が逆に、以後の日本のストーンズ・ファンに「オレたちは日本では見ることができない特別なバンドのファンなのだ!」という一種独特のマニアックさ、熱さをもたらすことになった点も見逃すことができない。
 ’70年代前半の充実ぶりを受けて、やや混沌とした部分もあったが、バラード「悲しみのアンジー」が評価された『山羊の頭のスープ』(’73年)、少々屈折した同名のロックンロール讃歌が話題性抜群だった『イッツ・オンリー・ロックン・ロール』(’74年)と好調さを裏付けるようなアルバムを立て続けにリリースしていったが、後者のレコーディング中には’60年代末以来バンド・サウンドを支えてきたプロデューサーのジミー・ミラーを解任、このアルバムからストーンズのアルバムのプロデューサー・クレジット欄にグリマー・ツインズという名前が毎回書かれるようになるが、それはミックとキースの二人のことを指していた。さらにアルバム・リリース後に、今度はミック・テイラーが脱退を表明して、’60年代末以来のストーンズのギター・バンドとしての黄金期は、あっさりと終わりを告げてしまったのだった。
 ギタリストを一人失ったストーンズは、次のアルバムのレコーディングを、新ギタリスト探しを兼ねた形で敢行する一方、’75年の北米ツアーは、フェイセズのロン・ウッド(’47年生まれ)をゲストに迎えて行なう。そして’76年に入ってそのロン・ウッドのストーンズへの正式加入が発表され、ファンク的なニュアンスも加わったスリリングなプレイぶりが光るニュー・アルバム『ブラック・アンド・ブルー』のジャケットには、ロンを含む5人のふてぶてしいメンバーの顔がしっかりと写っていた!
 メンバー・チェンジにも成功、何とか危機を乗り切ったと思われたストーンズだが、今度は、’77年、カナダのトロントでキースがドラッグ不法所持で逮捕されるという事件が起こる。これは’75~’76年の世界ツアーを収録したライヴ・アルバムに一味付け加えるためのスモール・ギグを同地で開こうと訪れていた時の出来事だったが、その結果キースは一時期カナダから出国できなくなったり、また収監が予想されたりするなど、今後のストーンズの活動に暗雲が立ち込めることとなってしまった。そうしたグループの未来に対する危機感の中で、同時代のパンクからの刺激も受けて作られたのが『女たち』(’78年6月)だった。ストーンズ流ディスコ・ナンバーとして作られた先行シングル「ミス・ユー」のヒット(全米1位)の勢いもあって、続く米国ツアーでは9万人収容の巨大スタジアムから3,000人規模の小会場まで使って、最小のサポートメンでプレイ。パンキッシュなストーンズを見せつけた。
 ツアー後の10月にトロントで下された判決は条件付き執行猶予。その条件とは、6か月以内にカナダの盲人協会のために特別コンサートを開くように、というものだった。このイキな判決で、ストーンズの’「80年代」がやっと見えてきたのだった!!

■解散の危機を乗り越えた’80年代5

 ’80年代最初にリリースしたアルバム『エモーショナル・レスキュー』には、音響実験的な側面もあって賛否が別れたが、次の『刺青の男』(’81年)は先行シングル「スタート・ミー・アップ」が大ヒット(全米2位)、続くアルバムもストーンズらしいダイナミックなロックンロールが収められたA面と、バラード中心のB面(CDでは7曲目以降)というハッキリした構成も功を奏したかファンの間でも好評で、3年ぶりに開始した北米ツアーでは、あの『アフターマス』からのナンバー「アンダー・マイ・サム」でスタートし、「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」など、久しぶりに取り上げた’60年代のレパートリーも含む新旧取り混ぜた選曲で2時間半のステージを連日繰り広げ、’80年代のライヴ・シーンもストーンズが引っ張るという心意気を見せる一方、香料のブランド”ジョーバン”をスポンサーに付けるというロック界最初の試みに踏み込んだことは、’80年代以降、ますます巨大化していくロック・ビジネスに良くも悪くもひとつの指針を与えることになった。また、翌’82年にリリースされたライヴ・アルバム『スティル・ライフ』を聴いてもわかるように、このツアーのステージでは、自分たちの演奏が終わったところで、ジミ・ヘンドリクスによる「アメリカ国家(星条旗)」が会場に大音量で流された。前述のようにこのツアーで、古いレパートリーを引っ張り出して自分たちの歴史そのものを「売り」にし始めたストーンズだったが、その歴史解釈の中には、自分たちこそがロックの歴史を象徴する存在であるという、見方によっては少々傲慢な部分があったのかもしれない。それがまたストーンズらしいのかもしれないが…。
 しかし、好調なツアーの影で、バンドとしてのストーンズには問題も生じ始めていた。ミックとキースとの関係がギクシャクしてきたことが、曲作り~レコードの制作現場に暗い影を落とし始めたのだ。大成功した『刺青の男』にも、実はベーシックな部分は’70年代に録音されて完成までに至らなかったマテリアルにヴォーカルなどの追加レコーディングを行なって仕上げた曲が含まれていたことが後になってわかってきた。また、次のスタジオ・アルバム『アンダーカヴァー』(’84年)の冒頭曲「アンダーカヴァー・オブ・ザ・ナイト」の場合も、いろいろなトンがったアイディアを試してみたものの、グループだけではそれを一つの曲にまとめあげることはできずに放り出されていた素材を、自分が何とか力業で仕上げた、とのプロデューサー、クリス・キムジーの証言の意味は軽くないし、もう一方のアルバム内の革新的トラック、「トゥー・マッチ・ブラッド」のギター・パートをキースではなく当時のギター・テックが弾いていたことも示唆的だ。
 そして二人の間の緊張を一気にピーク・レヴェルに引き上げたのが、ミックのソロ作『シーズ・ザ・ボス』のリリース(’85年)だった。そんな中で作られたストーンズの次のアルバムが『ダーティ・ワーク』(’86年)で、シングル・カット曲「ワン・ヒット」のプロモーション・ビデオで二人の確執を逆手に取ったような過激な映像にドキリとさせられたファンも多かった。他にもチャーリーのドラッグ使用が問題になるなど、この時期、グループ内の軋みが伝わってくるようになってきており、そのせいか、『アンダーカヴァー』、そしてこの『ダーティ・ワーク』と、ツアーを伴わないアルバムが2作続くことになってしまった。そしていよいよもう一方のフロントマン、キース・リチャーズもソロ・アルバム『トーク・イズ・チープ』を’88年にリリースすることになる。
 ストーンズのメンバーで最初にソロ名義を付したアルバムを発表したのはブライアン・ジョーンズ(’71年の『ジャジューカ』)。ただしこれは彼の死後リリースされたもので、内容も基本的にはモロッコのミュージシャンの演奏を彼が録音したもの。続いてビル・ワイマンが’70~’80年代に3作。’81年にリリースされたロケット88のアルバムもチャーリー・ワッツのソロ・プロジェクト的な位置づけではあった。また、ロン・ウッドは、ストーンズ加入前からソロ・アルバムを発表してきていた。それにしても、『ダーティ・ワーク』リリース以降の’87~’88年という時期に、キース、ミック(2作目『プリミティヴ・クール』)、チャーリー、ロンという4人のメンバーが相次いでソロ・アルバムを発表(ロンは厳密にはボー・ディドリーとの共演作)、うち、チャーリーを除く3人がソロ・ツアーに出るというのも極めて異例な事態。『ダーティ・ワーク』制作中の’85年12月に、結成時のメンバーで、デビュー時にメンバーを外されて以降も音楽的に、そして人間的にも、ずっと彼らの支えであり続けたイアン・スチュワートが心臓麻痺で突然亡くなったこともストーンズを揺さぶることになった。
 しかしこの頃、日本のファンにとっては、ミックとロンが同じ’88年3月に来日公演を行なうという幸運にも恵まれた。「いよいよストーンズ解散か?」と言われ始めた時期だったし、グループとしての来日公演も実現していなかっただけに複雑な思いを抱いてコンサートに足を運んだファンも多かったのかもしれない。しかし、完成したばかりの東京ドームでミック・ジャガーが「ホンキー・トンク・ウィメン」を歌い始めた瞬間、そんな思いはどこかに吹き飛んでしまったという経験を持つファンも多かったはずだ。何しろあの頃、それからたった2年後に本当にストーンズの初来日公演が実現するとは、誰も想像すらできなかった。

■’89年の再集結に始まった復活プロジェクトの中に念願の初来日公演も実現6

 その後、ストーンズの5人が再結集してアルバムを制作、久しぶりに世界ツアーに出ることがわかったのは、’89年7月にニューヨークで行なわれた記者会見を通じてだった。実は1月にミックとキースが密かにバルバドス島で再会し、二人でみっちり曲作りを行なってからストーンズとしてのレコーディングに臨んだ、というようなインサイド・ストーリーが知られるようになるのは後のこと。記者会見場に揃った5人が嬉しさを隠せない様子でツアーの予定を語るシーンから受けた感動は、そこでサワリの部分が流されたシングル・カット曲「ミックスト・エモーションズ」(全米5位)のハーモニーの美しさとしっかりと重なる。
 そして同年8月にスタートした世界ツアーの一環で翌90年の2月、ついにストーンズが初めて日本にやってきたのだった。それも、2年前のミックと同じ東京ドーム(55,000人収容)で10回連続公演という破格のスケール! 多くのメディアも巻きこみ、マニアックなファンは勿論、普段は洋楽、それもロックに関心がなさそうな層まで巻きこむ大イベントとなった。少なくとも日本では「選ばれた音楽ファンにとっての神」のような存在だったストーンズがここで一気に「誰もが知る存在」になったことで、少し気持ちが離れがちになった往年のファンもいたようだが、単なる「話題性」を超え、実際にそのパフォーマンスそのもので東京ドーム10回分の観客を圧倒したストーンズを、ファンはもっと誇りに思っていいのではないだろうか。
 復活ツアーとなった’89~’90年の世界ツアー終了後、スタジオ録音の新曲を含むライヴ・アルバム『フラッシュポイント』が’91年にリリースされたが、その後にベーシスト、ビル・ワイマンの脱退表明という、またまたショックなニュースが届けられる。これ以降、ストーンズの正式メンバーは4人となり、ベースにはマイルス・デイヴィスやスティングのバンドへの在籍経験もある凄腕の米国人、ダリル・ジョーンズをレギュラー・ゲストとして迎え入れることになる。そうした布陣でストーンズは’94年にニュー・アルバム『ヴードゥ・ラウンジ』をリリース、グランジ・ロック以降の動向をふまえたレアな手触りの音像の中で’70年代前半の自分たちのスタイルを再び取り戻そうと意気込んだ曲があったり、’60年代後半のサイケ・ポップな音色に挑んだり、と歴史の長いバンドの強みを存分に生かした多彩な曲が詰め込まれたアルバムだった。
 続く世界ツアーも同じ布陣で乗り切ったのだが、前回の初来日公演成功に気をよくしてか(その証拠にあれ以降、世界ツアーには必ず日本公演が組み込まれるようになった)、この頃からストーンズは自分たちの歴史に新たなページを刻むべく、未踏の地を次々と制覇していくようになる。例えば、南アフリカ、チェコ、ハンガリー(95年)、ロシア(98年)、インド(’03年)、中国(’06年)といった具合。’67年にまだ共産政権下のポーランド公演を成功させて以来、「壁」の向うの国々でコンサートを開きたいというのは、恐らくミック・ジャガーの野望だったのではないかと思うが、何度も噂になっては流れていた中国公演、’90年にも計画が立てられたソ連(当時)公演が、東欧民主化~ソ連崩壊以降に次々と実現していったことは、’06年2月に米国で9000万人以上がテレビ中継を見ていたと言われるNFLの第40回スーパー・ボウルのハーフ・タイム・ショウへの出演や、直後に今度はブラジル、リオ・デ・ジャネイロのコパカバーナ海岸での世界最大級のコンサート(観衆150万人とも言われる)実現などと共にメモリアルな出来事となった。
 アルバムの方も、’95年の日本滞在時にスタジオ入りして録った音源も含む変則ライヴ・アルバム『ストリップト』(’95年)、ソロ・プロジェクトとして始まったレコーディングが最終的にストーンズの作品として仕上がったと噂され、その分先鋭的な音も詰め込まれていた『ブリッジズ・トゥ・バビロン』(’97年)、同アルバム後の世界ツアーを収めた『ノー・セキュリティ』(’98年)、オールタイム・ベストに新曲4曲を加えた『フォーティ・リックス』(’02年)、同ツアーのライヴ盤『ライヴ・リックス』(’04年)、現時点でのスタジオ最近作で、飛び出してくるエネルギッシュな音の固まりに圧倒された『ア・ビガー・バン』(’05年)、マーティン・スコセッシ監督によるコンサート映画のサントラとして発表された『シャイン・ア・ライト』(’06年)と、インパクトのある作品をリリースし続けてきている。
 演奏スタイルの再構築や、歴史の長さをアピールするために「過去」を参照することはあっても、過去の音源や映像そのものを積極的に「売り」にすることはしてこなかったストーンズだが、ついにその姿勢が変化し始めたのは、’09年の『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』40周年記念盤のリリースから。何とそこには、発掘されたアイク&ティナ・ターナーとB・B・キングの前座演奏に加え、今までファンが熱望しながらもなかなか出て来なかった、未発表ライヴ音源5曲(映像版も含めると5曲10テイク)が含まれていたのだ。ストーンズがついにアーカイヴ・ビジネスを本格的にスタートさせたというのは、かつて自分たちのレコード会社から出した’72年の傑作アルバム『メイン・ストリートのならず者』のデラックス・エディションを’10年にリリースしたことでハッキリした。そこには、CD一枚分10曲のボーナス・トラック(日本盤は1曲追加)が追加収録されており、しかもその中にはミックが新たにヴォーカルを入れる、といった追加レコーディングを経て完成度を高められた曲まで含まれていたのだ。過去音源の素直な「お蔵出し」ではないことに戸惑う声もあったことは事実だが、この「ストーンズ流アーカイヴ・ビジネス」に、現役感にこだわる彼らの意地のようなものを感じたのはぼくだけではないはず。すぐ後にその時期のライヴ映像をソフト化してくれたのも嬉しかったが、この「デラックス・エディション」形式による過去の名盤再発は、翌’11年も、’78年のアルバム『女たち』の再発で踏襲された。この年の末には、さらなるサプライズもあった。何とストーンズが突如”ROLLING STONES ARCHIVE”なるサイトを立ち上げ、マニアの間で以前から人気が高かった’73年ヨーロッパ・ツアーのライヴ音源を、有料配信し始めたのだ。それも、一連のアーカイヴCDシリーズと同様、ボブ・クリアマウンテンの最新リミックスによるピカピカのサウンドに磨き上げたものを! 今のところCDリリースがないために、その衝撃は熱心なマニアとインターネット~ソーシャル・メディア・レヴェルに留まってはいるが、ついにここまでやってくれたか!と快哉を叫ぶ声は多く目にした。

■アニヴァーサリー・イヤーに何が起こるのか?

 そして今年、2012年。昨年末から、50周年に向けて何か動きにつながりそうなニュースはいくつか伝わってきている。ひとつはスペシャル・コンサート、あるいはツアーの噂。メンバーからも「何かやりたい」というメッセージは断片的に伝わってきているし、ビル・ワイマン、ミック・テイラーも50周年に向けたリハーサルを兼ねたジャム・セッションに招待するとキースが発言、というようなニュースまであったのだが、それがどういう動きにつながっていくのかは現在のところまだ具体的には見えて来ていない。だが、大いなる期待を持って最新ニュースに注目しておくべき価値は十分にある。
 それとは別にアーカイヴ・ビジネスの方にもいろいろな期待ができる。まず、この3年間1年に1作ペースでリリースしてきた「デラックス・エディション」形式の再発盤は今年も出してきてくれるはず。それに、発掘ライヴ音源が何作かリリースされることも間違いない。ストーンズ・ファンにとっては、忙しくも嬉しいアニヴァーサリー・イヤーになりそうである。

2012年1月31日
寺田正典