年代別ストーンズLIVEの目撃者たち:総括編/寺田正典氏

2017.12.07 TOPICS

『オン・エア』発売記念企画
年代別ストーンズLIVEの目撃者たち

 
ストーンズ初のBBC音源作品『オン・エア』の発売を記念して1962年にバンドを結成して以来、2017年の現在に至るまでライヴ活動を続けているストーンズのLIVEの魅力を実際に見ている方々の言葉で語っていただく本企画。

ここからは総括編。
元レコード・コレクターズ編集長であり、ストーンズ研究の第一人者である寺田正典氏が語る、世界最高のロック・バンド、ザ・ローリング・ストーンズのライヴ変遷のその1。
お楽しみください。


寺田正典(総括編)
世界最高のロック・バンド、ザ・ローリング・ストーンズのライヴ変遷(その1)

1960年代初期(1963~1965年)
~ロンドンR&Bスタイルの時代~

ヤードバーズ、初期キンクス、プリティ・シングス、ダウンライナーズ・セクト……といったロンドンを中心に活動していたバンドをロンドンR&Bスタイルと敢えてカテゴリーして語ったことがあります。当時のストーンズらのサウンドにはそれくらいのユニークさがありました。その後ガレージ系と呼ばれるようになるバンドたちのルーツでもあります。アメリカでのライヴやレコーディングなどで本場の最新の黒人音楽に生で触れ、音楽がどんどん洗練されていく前にあたる、ロンドンのR&Bカヴァー・ギター・バンドだった時代ですね。もちろん60年隊前半のロンドンの音楽シーンのキーワードのひとつでもある“R&B”とは、今で言うブルースからソウル/R&Bの全体、さらに歴史的な経緯もありジャズっぽさまでも微妙に含むような黒人音楽の幅広い範囲を指します。ストーンズらの場合は、マディ・ウォーターズのブルース・ナンバー「恋をしようよ」を、テンポアップし、より攻撃的なビートを持った形にアレンジし直して演奏していたことも象徴的なように、主にビート・ミュージックとしてブルースやR&Bを捉えてプレイしていました。「リトル・バイ・リトル」「エヴリバディ・ニーズ・サムバディ・トゥ・ラヴ」、今回の『オン・エア』でストーンズとしては初めてリリースすることになる「ハイ・ヒール・スニーカーズ」などでも聴かれるような当時流行った独特なシャッフル・ビートを持ったナンバーも多く取り上げています。ザ・フーの「マイ・ジェネレイション」でも使われているビートです。加えて、「ビューティフル・デライラ」(『オン・エア』に収録)や「ドゥーイング・ザ・クロウ・ダディ」(ストーンズのヴァージョンは未発表ですが、この曲をいつも演奏していたことが有名なクローダディ・クラブの名前の由来となりました)といったチャック・ベリーやボ・ディドリーなどのテンポの速い2ビートの曲も敢えて取り上げていました。R&Bを演奏するうえでは重要だったホーン・セクションはなし、必要に応じてそのリフはギターで強引に弾く、声をつぶして汚く歌うミック・ジャガーの歌唱法、「ウォーキング・ザ・ドッグ」におけるブライアン・ジョーンズのコーラスにも顕著なような、意識的に音楽をダーティーに演奏しようとしていたことも、“ロンドンR&B”スタイルの特徴のひとつです。『オン・エア』で初めてストーンズ版がCD化されることになる「コップス・アンド・ロバーズ」などでは、ブライアンがギターは持たずにハーモニカのみを演奏。こうしたヴォーカル、ハーモニカ、ギター+リズム隊というユニークな編成での演奏というのももこの時期だけの特徴です。
参考資料:EP「ガット・ライヴ・イフ・ユー・ウォント・イット!」(1965年3月のブリティッシュ・ツアー)『チャーリー・イズ・マイ・ダーリン』(1965年9月のアイリッシュ・ツアーほか)『オン・エア』(1963~1965年BBCライヴ)

1960年代中期(1966~1967年)
~60’sストーンズのイメージが完成~

アトランティック・ソウル、モータウンの影響が強く出始める。『アフターマス』で聴かれるようにオリジナル曲も増え、この時代のストーンズは単にR&Bだけではなくサイケデリックかつポップなサウンドを押し出すバンドへと変化していきます。ブライアンやビル・ワイマンがバック・コーラスを務めていた体制から、「19回目の神経衰弱」で聴けるようなミックとキース・リチャーズのふたりでコーラスを決めるというスタイルもこの時代がルーツです。「サティスファクション」や「アンダー・マイ・サム」をライヴでは極端にテンポアップして演奏していたことからも伺えるように、ティーンエイジャーの黄色い歓声に応えるかのごときスピーディーな演奏で盛り上げる熱いスタイルの演奏が増えていきます。R&Bテイストはやや抑え目になり、ポップなビート・バンドへと変化していきます。そんな時期の中でも、67年の短いヨーロピアン・ツアーでは共産圏のポーランドにも出かけていて、それが昨年のキューバでのライヴにまでつながる、ミック・ジャガーを中心としたストーンズの“世界への視点”を伺わせるようで興味深かったりもするんですが、一方そこではサザン・ソウルからの影響なのか、のちの70年代に向けたようなバック・ビート感覚の強化も見受けられたりもしました。サイケデリック時代の最中にすでにバック・トゥ・ザ・ルーツへと向かっていた、というのはアルバム『サタニック・マジェスティーズ』の隠れた鑑賞ポイントのひとつでもあるんですが、実に興味深い。これに68年の『ロックンロール・サーカス』と〈NMEポールウィナーズ・コンサート〉までが、ブライアン・ジョーンズがいた“1960年代のストーンズ”のイメージ。アンドルー・・ルーグ・オールダムの自伝なんかを読むと、実は67年には有名な〈モンタレー・ポップ・フェスティヴァル〉への出演計画もあったようなんですが、実現しませんでした。ちなみに66年~68年頃にストーンズの中で起こったビート感覚の変化については、ストーンズ自体がまとまったライヴ音源を発表していないこともあり、わかりにくいんですが、日本のザ・テンプターズが69年にリリースしたライヴ盤『ザ・テンプターズ・オン・ステージ』で、ストーンズのライヴLP『ガット・ライヴ・イフ・ユー・ウォント・イット!』のアレンジを明らかに意識し、テンポアップした「サティスファクション」が収録されていて、そこでは「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」も全く同様の感覚でカヴァーしているんです。まるで66年ごろのストーンズが「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」を演奏してるようなノリと言ってもいい。それとストーンズ自身の後のライヴ演奏との差から逆説的に実感することができるんじゃないか? なんてことも考えたことがあります。
参考資料:『ガット・ライヴ・イフ・ユー・ウォント・イット!』『クロスファイアー・ハリケーン』(1967年、ポーランドのワルシャワでのライヴ映像をフィーチャー)

1960年代末期(1969年~1970年)
~来たるべき70年代に向けての変化~

結果的にブライアン・ジョーンズ追悼コンサートとなってしまった69年7月のハイド・パークでのフリー・コンサートは、元ブルースブレイカーズの新ギタリスト、ミック・テイラーのお披露目ともなります。そこでの演奏ぶりはまだまだギクシャクしていますが、11月から敢行した3年ぶりのアメリカでのコンサート・ツアーで見事に表舞台へ復帰することになります。その間、コンサートの在り方は60年代的な複数アーティストが次々に出演するパッケージ・ショウから巨大な会場を使って1バンドだけで長時間演奏するようなものへと変化しようとしていました。ストーンズもそれに対応しつつ、来るべき70年代に向け、そんな新しいコンサート・スタイルの確立をむしろ主導するような役割を果たしていきます。「かわいいキャロル」や「アイム・フリー」に象徴されるように、演奏のテンポをグッと落して重心の低いグルーヴを強調したような演奏スタイルはザ・バンド登場に刺激を受けたものだったのかもしれません。それに加えて、メンバーの容姿がダーティーかつワイルドな70年代的なロックンロールの世界観を提示するようなイメージのものへと変貌する。セット・リストも68年の「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」以降のものが大半を占めるようになり、ライヴ・アルバム『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト!』の中で観客のひとりが叫ぶ「Paint it black!」の声に応えて「黒くぬれ!」のような曲が演奏されることもありませんでした(このひと言に関しては別の解釈もあり)。「アンダー・マイ・サム」や「サティスファクション」は取り上げられましたが、いずれも70年代的なハードなギター・バンド用にアレンジが施され、新しいスタイルの曲として提示されたようなところもあります。一方、この頃からチャック・ベリーのカヴァー曲のセット・リスト入りも恒例化します。翌70年のヨーロッパ・ツアーでは「ブラウン・シュガー」や「デッド・フラワーズ」など発表前のアルバム『スティッキー・フィンガーズ』に収録される曲がプレイされるなど、新しい時代に向けて新編成/新スタイルになった自分たちのアピールにやっきになっていた彼らの姿が見てとれました。こうしてストーンズはミック・テイラーという優秀なギタリストを得て、ブルース・ロック/ハード・ロック的なアプローチを展開する70年代的なギター・バンドとしての充実期に突入していきます。ただし、黒魔術や悪魔的要素を前面に押し出したミック・ジャガーのイメージ戦略は69年ツアーの最後に起きた「オルタモントの悲劇」を経て、後退させざるを得なくなった印象もあります。
参考資料:『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト(40周年記念デラックス・エディション)』

 
インタヴュー&テキスト: 山田順一