BIOGRAPHY

小澤征爾 


Seiji _Ozawa -p 37111935年、中国のシャンヤン(旧奉天)に生まれた小澤征爾は、幼いころからピアノを学び、成城学園中学校を経て桐朋学園で故齋藤秀雄に指揮を学びました。1959年秋、フランスのブザンソンで行なわれたオーケストラ指揮者国際コンクールで第1位を獲得。 翌年、クーセヴィツキー賞を受賞しました。 西ベルリンでヘルベルト・フォン・カラヤンに師事していた小澤征爾は、バーンスタインの目にとまり、1961/62年のシーズンには、ニューヨーク・フィルの副指揮者をつとめ1962年1月、サンフランシスコ交響楽団を指揮し、アメリカ・デビューを果たしました。

 1964年の夏から5年にわたる夏の間、シカゴ交響楽団のラヴィニア・フェスティバルの音楽監督、トロント交響楽団では4シーズンにわたって音楽監督をつとめ1970年からタングルウッドで4年間にわたって毎年夏、ボストン響を指揮しました。1968年1月ボストン・シンフォニー・ホールではじめて同交響楽団を指揮し、1970年タングルウッド音楽祭の芸術監督に就任、その年の12月サンフランシスコ交響楽団の指揮者・音楽監督に就任し活動をはじめました。1973年ボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任、1976年春にはサンフランシスコのポストを退き、1976/77年のシーズンからサンフランシスコ響の音楽アドヴァイザーに就任しました。

 ボストン響の音楽監督として、アメリカ国内はもとより、オーケストラの評価を国際的にも高め、1976年のヨーロッパ公演および1978年3月の日本公演で多大の成果を挙げています。

 中国政府の公式招待により、北京中央楽団と一週間にわたって公演し、1年後の1979年3月にはボストン交響楽団を率いて再度訪中し、演奏活動に加えて、中国音楽人の指導・学習、並びに討論会など、文化交流を果たしました。1981年3月には、楽団創立100 周年を記念して、アメリカ14都市演奏旅行を果たし、同年秋には、日本、フランス、ドイツ、オーストリア、イギリスを回る世界公演を行いました。その後も1984年、88年、91年にヨーロッパ公演と1986年、1989年には日本公演を行い、いずれも絶賛を博しています。

 小澤征爾はヨーロッパでの評価と人気も絶大なものがあり、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなどのオーケストラを定期的に指揮しています。また、オペラの方面でもパリ・オペラ座、ザルツブルグ、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場にしばしば出演し絶賛を博しています。

 1983年12月には、メシアンの唯一のオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」をパリ・オペラ座で初演し、ニューヨーク、東京でも演奏しセンセーショナルな話題を集めました。 日本においては、創立時より密接な関係にある新日本フィルと定期的に活動しており、1991年秋より名誉芸術監督の任にあります。

 オペラの分野でもしばしば指揮を行っており、特に1989年より始めた「ヘネシー・オペラ・シリーズ」では海外から一流歌手や演奏家を招いての上演で、高い評価を得ています。 サイトウ・キネン・オーケストラを、秋山和慶とともに恩師齋藤秀雄を偲んで1984年に組織し、東京・大阪公演で大成功を収め、1987年、1989年、1990年、1994年にはヨーロッパ公演を、1991年にはヨーロッパ、アメリカ公演を行い絶賛を博し、1992年より、芸術的念願であった国際的音楽祭”サイトウ・キネン・フェスティバル松本”へと発展させ、大きな注目を集めています。さらに98年にはサイトウ・キネン・フェスティバルで演奏された「カルメン会修道女の対話」は特に高い評価を受けています。

 レコーディング活動も活発で、とドイツ・グラモフォンを中心に50枚以上のレコード、CDを制作ボストン交響楽団とのマーラーの交響曲全集を完結。最近では、サイトウ・キネン・オーケストラとベートーヴェンの交響曲全集録音に取り組み既に2枚リリースされています。98年2月には長野冬季オリンピックの開会式でベートーヴェン交響曲第9番を演奏、その存在を改めて世界にアピールしました。

 

■小澤征爾 年表


1935
満州の奉天(現・中国の瀋陽)に生まれる。


1941
一家で日本へ戻る。


1945
長兄からピアノのレッスンを受け始める。


1948
成城学園中学に入学。 ピアノを豊増昇に師事。


1949
齋藤秀雄に弟子入り。氏は、子供のための音楽教室~桐朋学園を通しての恩師となる。


1952
桐朋学園女子高校附属音楽科に入学。


1955
桐朋学園短期大学に入学。


1959
スクーターと共に貨物船で単身渡仏。ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。


1960
カラヤンの弟子を選出するコンクールで優勝。カラヤンに師事し、以後生涯に亘って親交を結ぶ。
ブザンソンの審査員ミュンシュに誘われて参加したタングルウッド音楽祭にて、クーセヴィツキー大賞を受賞。


1961
日独修好100周年記念行事にて、初めてベルリン・フィルを指揮。
バーンスタインのもと、当シーズン、ニューヨーク・フィルの副指揮者を務める。
同オーケストラの日本公演にも同行。バーンスタインとも生涯に亘って親交を結ぶ。
日本フィルを指揮して、日本のオーケストラの定期公演にデビュー。


1962 
N響と指揮契約を結び、メシアン「トゥランガリラ交響曲」を日本初演。
著書「ボクの音楽武者修行」が出版される。


1963
シカゴ響によるラヴィニア音楽祭に急遽代役で出演し賞賛を浴びる。


1964
ラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任(~68)。


1965
トロント響の音楽監督に就任(~69)。


1966
ウィーン響を指揮して、ウィーンおよびムジークフェラインにデビュー。
ザルツブルク音楽祭並びにウィーン・フィルにデビュー。
ベルリン・フィルの定期公演にデビュー。


1967
ニューヨーク・フィルの定期公演で、武満徹「ノヴェンバー・ステップス」を世界初演。


1968
ボストン響の定期公演にデビュー。
日本フィルの首席指揮者兼ミュージカル・アドヴァイザーに就任(~72)。


1969
トロント響と日本公演を行う。
ザルツブルク音楽祭におけるモーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》で、オペラ指揮を本格的にスタート。
ボストン響との初録音を行う。パリ管の定期公演にデビュー。


1970
タングルウッド音楽祭の芸術監督に就任(~2002)。
サンフランシスコ響の音楽監督に就任(~76)。


1972
日本フィルの一部楽員と共に新日本フィルを結成し、首席指揮者に就任(91~名誉芸術監督。
99~桂冠名誉指揮者)。


1973
ボストン響の第13代音楽監督に就任(~2002)。
以後米国では異例の長期体制を築く。


1974
英国ロイヤル・オペラにデビュー(チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》)。


1975
サンフランシスコ響と日本公演を行う。


1978
ボストン響と初の日本公演を行う。
中国政府の公式招待により中国中央楽団に客演。


1979
ボストン響と中国公演を行う。パリ・オペラ座にデビュー(ラヴェル《子供と魔法》、ストラヴィンスキー《エディプス王》)。


1980
ミラノ・スカラ座にデビュー(プッチーニ《トスカ》)。


1983
パリ・オペラ座で、メシアン《アッシジの聖フランチェスコ》を世界初演。
ベルリン・フィルとの初録音を行う。


1984
齋藤秀雄没後10周年のメモリアル・コンサートを指揮、このとき特別編成されたオーケストラがサイトウ・キネン・オーケストラの母体となる。


1986
サントリーホールのオープニングシリーズで、カラヤンの代役としてベルリン・フィルを指揮。


1987
正式に活動を開始したサイトウ・キネン・オーケストラと欧州公演を行う。


1988
ウィーン国立歌劇場にデビュー(チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》)。


1989
ベルリン・フィルの大晦日の「ジルヴェスター・コンサート」で、晋友会合唱団と共に、オルフ「カルミナ・ブラーナ」を演奏。


1990
ウィーン・フィルの定期公演にデビュー。
<ヘネシー・オペラ・シリーズ>が開始され(~97)、第1回はモーツァルト《イドメネオ》を上演。水戸室内管の芸術顧問に就任(~継続中)。


1991
ウィーン・フィルとの初録音を行う。


1992
<サイトウ・キネン・フェスティバル松本>が開始され、総監督に就任(~継続中)、第1回はストラヴィンスキー《エディプス王》を上演。 ベルリン・フィルよりハンス・フォン・ビューロー・メダルを授与。 メトロポリタン・オペラにデビュー(チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》)。


1993
ウィーン・フィルと日本、韓国、台湾公演を行う。


1994
生地の中国・瀋陽にて、遼寧響を指揮。 ボストン響の日本公演で、<ベルリオーズ・フェスティヴァル>を行う。 タングルウッドにセイジ・オザワ・ホール完成。


1995
32年ぶりにN響を指揮。


1997
東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ・メモリアルの杮落しで、サイトウ・キネン・オーケストラ他とバッハ「マタイ受難曲」を演奏。


1998
長野冬季オリンピックの音楽監督を務め、開会式では世界五大陸を結ぶ「第九」を指揮。
パリ・オペラ座と<サイトウ・キネン・フェスティバル松本>との共同制作を実現し、プーランク《カルメル会修道女の対話》を、同年松本、翌年パリで上演。


2000
若手音楽家の育成を旨とする<小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト>を開始(~継続中)。
米国ハーバード大学より名誉博士号を授与。


2002
日本人として初めてウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートに登場。同公演のライヴCDがクラシックの枠を超えた大ベストセラーを記録し、社会現象ともなる。
ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任(~2010)、就任最初のプレミエ公演としてクルシェネク《ジョニーは演奏する》を上演。
オーストリア政府より勲一等十字勲章を受章。
ボストン響の音楽監督として最後の定期公演を指揮(マーラーの交響曲第9番)。


2003
毎日芸術賞、サントリー音楽賞を受賞。


2004
ウィーン国立歌劇場の日本公演で、モーツァルト《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》を指揮。
仏ソルボンヌ大学より名誉博士号を授与。


2005
<東京のオペラの森>が開始され、音楽監督に就任(~2008)、第1回は、フィレンツェ歌劇場との共同制作で、R.シュトラウス《エレクトラ》を上演。
<小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト>初の中国公演を行う。


2007
ウィーン国立歌劇場名誉会員に選出。


2008
仏政府よりレジオン・ドヌール勲章オフィシエを授与。
日本の文化勲章を受章。


2009
<小澤征爾音楽塾オーケストラ・プロジェクト>を開始、中国公演も行う。


2010
1月7日 病気療養のため音楽活動を休止すると公表。
11月2日 日本人初となるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「名誉団員」の称号を贈られる。
12月14日 ニューヨークのカーネギーホールで約1年ぶりに本格復帰し完全復活を遂げる。

 

(2009年まで柴田克彦・編)