チャーリー・ワッツ バイオグラフィ


チャーリー・ワッツ  / Charlie Watts


チャーリー・ワッツは、“世界最高のロックンロール・バンド”の原動力であり、完璧なドラミングでザ・ローリング・ストーンズを推進してきた。決してビートを外さない彼のドライヴ感のあるリズムは1964年から現在までの約60年間、26枚のザ・ローリング・ストーンズのスタジオ・アルバムと数多くのライヴLPで聴くことができる。

ドラマーであり、アーティストであり、ジャズ・マニア。スタイリッシュで物静かだが、ハートがあり、ポーカーフェイスでジョークを言う、謙虚で安心感のある彼の存在は、ミック・ジャガーとキース・リチャーズの華やかさとバランスを取るための重要な要素で、ステージ上でもオフ・ステージでもグループをまとめる鍵だった。

控えめで実直なチャーリーを困惑させるものはほとんどない。しかし、60年にも亘ってこの世界で仕事をしてきたにもかかわらず、彼はロックンロール・アイコンとして称賛されていることに居心地が良いと感じているようには見えなかった。 キース・リチャーズはかつて、「彼は謙虚でシャイなので、スターになることを恐れている」と語っていた。

彼のこのようなストイックな性格は、バンド仲間やストーンズ・ファンから愛されていた。ミック・ジャガーがステージでメンバーを紹介し、チャーリーにスポットライトが当たると、彼はドラム台の上から申し訳なさそうに手を振る。そんな彼の姿に、その夜一番の大歓声が沸き起るのだ。

“今夜のチャーリーは最高だ。そうだろう?”. ジャガーは、1969年発売の名ライヴ・アルバム『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』でそう言っている。実際チャーリーはいつも素晴らしく、バンドもファンも音楽評論家もそれを知っていた。

彼が長年、最も情熱を傾けたのはジャズだった。ストーンズのツアーに参加していないときは、彼は自分のジャズ・コンボでのギグを楽しんでいた。贅沢なサーカスのようなストーンズのツアーとは対照的な、控えめでカジュアルな雰囲気が気に入っていた。

チャールズ・ロバート・ワッツは1941年6月2日に生まれ、ロンドン北部のウェンブリーで育った。父親のチャールズ・ワッツはトラック運転手で、母親のリリアンは専業主婦だった。二人の間にはチャーリーと妹のリンダがいた。戦時中の爆撃で周辺の住居がすべて破壊されてしまったこともあり、彼らの家も周りのほかの住宅同様に“プレハブ ”の建物だった。 チャーリーは1952年から1956年までタイラー・クロフト・セカンダリー・モダン・スクールに通い、学生時代はアート、クリケット、サッカーで才能を発揮した。

ロックンロールが登場するずっと前から、ワッツはデューク・エリントンやチャーリー・パーカーなどのジャズ・レコードを聴いていた。サックス奏者のジェリー・マリガンがドラマーのチコ・ハミルトンと共演した「ウォーキング・シューズ」を聴いた時、ドラマーになろうと決心したが、当時12歳だった彼は、両親に初めてのドラム・セットを買ってもらうまであと2年待たなければならなかった。

16歳の頃にはジャズ・コンボでドラムを叩き、ジャズと新たに発生したブリティッシュ・ブルース・シーンが混在するロンドンのクラブに足繁く通うようになっていた。それがきっかけでアレクシス・コーナーに誘われ、彼のバンド、ブルース・インコーポレイテッドに参加し、そこにときどきシンガーとして参加していたミック・ジャガーと出会う。

ジャガーはキース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズとともに自分のグループ、ザ・ローリング・ストーンズを結成していて1962年の夏、マーキー・クラブで初ライヴを行なったが、正式なドラマーがいなかった。ワッツは当初、広告代理店でのグラフィック・デザイナーとしての安定した本業を優先して彼らからの誘いを断っていた。

ジャガー、ジョーンズ、リチャーズは半年間ワッツを勧誘し続けた末に遂に彼を獲得し、ワッツは1963年1月にロンドンのソーホーにあるフラミンゴ・クラブでのライヴで、ザ・ローリング・ストーンズに初参加した。それでも彼は本業を辞めず、本格的にプロに転向したのは、その年の夏にストーンズがデッカ・レコードと契約したあとだった。チャーリー自身の弁によると、参加した当時、彼は初期のストーンズが演奏していたR&Bのレパートリーをほとんど知らず、演奏しながら学んだそうだ。しかし、ブルースのカヴァー曲の中にシャッフル・ビートを加え、より洗練された雰囲気にした彼の影響力はすぐに明らかになった。


しばらくの間、彼はチェルシーのエディス・グローヴにある、むさくるしいことで有名だったフラットに他のメンバーとともに住んでいたが、ストーンズが「カム・オン」と「彼氏になりたい」で初のチャート・ヒットを記録したあと、リージェンツ・パークを見下ろすアパートに引っ越した。そして1962年にアレクシス・コーナーのバンド、ブルース・インコーポレイテッドとの最初のリハーサルの時に出会った、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの彫刻科の学生であるガールフレンドのシャーリー・シェパードと結婚した。

バンドのほかのメンバーがロックンロール人生を送り、絶え間なく事件を起こし、タブロイド紙の見出しに載るような状況の中、ワッツはグループの悪評から距離を置くために最善を尽くしていた。初期のストーンズが「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」、「リトル・レッド・ルースター」、「ラスト・タイム」などの曲で1位を獲得すると、彼はその収益で16世紀に建てられた邸宅をサセックス州に購入し、ロックンロールとはかけ離れた生活を送るようになった。

ジャズのバックグラウンドを持つチャーリーは、ロックするだけでなくロールする方法も知っていた。彼の揺るぎないビートはストーンズの「サティスファクション」、「一人ぼっちの世界」、「19回目の神経衰弱」、「黒くぬれ」などのクラシック・ポップ・ヒットの土台を築いた。

彼の強力なドラミングは「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」、「ホンキー・トンク・ウィメン」、「ブラウン・シュガー」などで、キース・リチャーズのモンスター・リフを支えた。バンドがロサンゼルスで「サティスファクション」をレコーディングした時にチャーリーが最も興奮したのはストーンズがロック・ミュージックを再定義したことではなく、そこが、かつてデューク・エリントンがレコーディングしたスタジオだったことだった。

上質なテーラード・スーツを好むチャーリーは、ロック界で最もスタイリッシュな男の1人として知られていた。ジャガー、ジョーンズ、ワイマン、リチャーズが好んだロックンロールの流民のようなスタイルは彼には似合わず、特にヒッピー時代の服は苦手だったようだ。 彼はこう言っている。「私にとっての1960年代はマイルス・デイヴィスと3つボタンのスーツだった」。

生涯を通じてクリケットを愛した生粋の英国人であるワッツは、1971年に税金逃れのために『メイン・ストリートのならず者』のレコーディングを南仏で行なわなければならなかったことを嫌がり、レコーディング終了後、すぐにイギリスに戻ると、デヴォン州の農場を購入して馬を飼い、妻のシャーリーと暮らした。彼は“世界で最も偉大なロックンロール・バンド”の不可欠なメンバーとしてロック界で名声を得ていたが、個人的には初恋の相手であるジャズを最も好んだ。1970年代後半、チャーリーはストーンズのサイドマンであるイアン・スチュワートとともに原点回帰のブギウギバンド、ロケット88に参加した。1980年代は、エヴァン・パーカー、コートニー・パイン、ロケット88のメンバーでもあるジャック・ブルースなどとともにチャーリー・ワッツ・ビッグバンドとしてワールド・ツアーを行なった。1993年には、ヴォーカリストのバーナード・ファウラーを加えたチャーリー・ワッツ・クインテットで『ウォーム&テンダー』をリリースする。彼らはその後、1996年に『ロング・アゴー&ファー・アウェイ』をリリース。この2枚のレコードには、グレート・アメリカン・ソングブックのスタンダード曲が収録されている。



ザ・ローリング・ストーンズのアルバム『ブリッジズ・トゥ・バビロン』でコラボレーションを成功させたワッツとジム・ケルトナーは『チャーリー・ワッツ ジム・ケルトナー・プロジェクト』というシンプルなタイトルのテクノ/インストゥルメンタル・アルバムをリリースした。発売当時、ワッツは曲のタイトルがすべて、「エルヴィン組曲」のように、故エルヴィン・ジョーンズや、マックス・ローチ、ロイ・ヘインズなどに敬意を表して彼らの名前を冠したものではあっても、それは彼らのドラミングの雰囲気を表現したものであり、スタイルをコピーしたのではないと語っていた。

『Watts at Scott’s』は、彼のグループであるチャーリー・ワッツ・テンテットがロンドンの有名なジャズ・クラブで演奏した時のレコーディングである。2009年4月には、ピアニストのアクセル・ツヴィンゲンベルガーとベン・ウォーターズ、ベーシストに幼なじみのデイヴ・グリーンという編成のバンド、ジ・ABC&D・オブ・ブギウギで何度かコンサートを行ない、それが2010年にアルバムとしてリリースされた。

1992年にビル・ワイマンがストーンズを脱退した際、ジャガーとリチャーズは新しいベーシストの選択を最終的にチャーリーに委ねた。ダリル・ジョーンズの履歴書にはマイルス・デイヴィスとプレイしたことが記載されており、チャーリーはそれを決め手として、彼を新たなリズム・パートナーとして完璧だと結論づけた。

その後、ストーンズはレコーディングや興行的に大成功を収めたスタジアムやアリーナでの長期間のワールド・ツアーという過酷なスケジュールをこなしていった。その中にはアルバム『ヴ―ドゥー・ラウンジ』(1994年)、『ブリッジズ・トゥ・バビロン』(1997年)、『ア・ビガー・バン』(2005年)とそれぞれ同名のツアー、大規模なジップ・コード・ツアーやノー・フィルター・ツアーなどが含まれる。2016年、バンドは彼らのルーツである伝統的なブルースに立ち返り、『ブルー&ロンサム』を発表した。アルバムは全英ナンバーワンに輝き、高評価を獲得した。

1989年、チャーリー・ワッツは、ザ・ローリング・ストーンズのメンバーとともに、ロックの殿堂入りを果たした。2006年には『モダン・ドラマー』誌の投票でも殿堂入りし、スティーヴ・ガッド、バディ・リッチ、リンゴ・スター、キース・ムーンたちのようにロックやジャズの歴史において高く評価され、影響を与えたドラマーの仲間入りを果たした。

家族構成
妻: シャーリー(旧姓:シェパード)・ワッツ
娘:セラフィーナ(1968年生まれ)
孫娘:シャーロット(1996年生まれ)
妹:リンダ・ワッツ