The 25th memorial of Herbert von Karajan The 25th memorial of Herbert von Karajan

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The 25th memorial of Herbert von Karajan

連載インタビュー「カラヤンの真実」話:眞鍋圭子

日本での秘書として、生前のカラヤンに最も身近に接した一人である眞鍋圭子さん。

仕事のみならず、プライベートでも家族ぐるみのお付き合いをしてきた眞鍋さんだからこそ知る、カラヤンの真実の姿をインタビューで伺いました。 没後25周年を記念して数回に渡り連載いたします。


最終回(第6回)(2014.8.25UP) 

Karajan 20140825
1979年、東京のホテルでの歓迎レセプションの一場面

カラヤンの音楽にあって、他の人にないものというのはどういうところでしょう。

やはり、よく言われることですが、音楽の流れが絶対に切れないということでしょうか?カラヤンさんの指揮は、常に音楽が止まる瞬間がなく流れている。それは指揮を見ていてもわかることですが、指揮の動きも決して止まる瞬間がなく、常に、それがほんの指の一本でも、必ず動いています。息が常に流れていると同じ様に、「音楽が流れている」ということです。それから、やはり響きが「美しい」ですね。究極的に美を求めた人だったと思います。美しくない響きは好まない。だから基本的に美しく響かない音楽は、彼に取って演奏するのが難しかったかもしれないですね。最終的に全てにおいて、「美」というものに対する彼の審美眼が、やはりすこぶる高かったのだと思います。また、あれほどにダイナミック・レンジの大きな音楽をする人はいなかったのではないでしょうか?それは自然現象から読みとれる、ダイナミックの幅だと思います。彼のレコードを聴いていて、ピアニッシモをかろうじて聴けるような音量にしておくと、フォルテッシモはあまりにも大きすぎて、これは御近所迷惑と、飛び上がってヴォリュームを下げにいくことがよくあります。でも、それは家で聴くからそうであって、音楽会で聴くと本当に強烈な迫力です。家でも、フルのヴォリュームで聴くと、「なるほど、作曲家はそういうふうに考えていたのだなあ」と思います。そして何より、彼の音楽は作品の掘り下げ方がやはり尋常ではなかったと思います。実に深く深く研究してある結論に達してから演奏するのですが、その時点では作為をまったく見せず、何気なく、自然に、極めて普通に聴かせるまでに練りに練ってから演奏に臨むという、その背後があってこその今の演奏なのだと感服します。彼はそこまでマスターしていたのだと。だから、他の演奏と比べたときに、誰が聞いても「やはりこちらの方がいいな」と思うのがカラヤンの音楽だと思うのです。でもその裏には彼の、莫大な時間をかけた勉強の積み重ねがあるのです。

普遍性が広く売れることに通じていくんでしょうね。

やはり、いろいろ聞き比べると、「こちらの方がどうしても美しい」と思ってしまいますね。他の人が指揮したものの録音を聴き比べると、カラヤンさんの音楽は何気なく敢えて何も工夫していないように聴こえてくるけれども、その裏でご本人は、細工なく自然にそれが流れ出てくるように研究していたのだと思います。カラヤンさんの音楽は、不自然なところが無いと思うのです。実際に自然が好きだった人で、その止まるところのない自然の“流れ”が好きだった。自然体に聴こえてくるためには、様々な工夫、試行錯誤があったと思いますね。練習を聴いていても、カラヤンさんはかなり厳しいことを言ってました。たとえば、とても若い頃の、ヨー・ヨー・マとアンネ・ゾフィー・ムッターとゼルツァーのトリプル・コンチェルトのザルツブルクでのリハーサルときに言っていたことをよく覚えています。チェロは楽器の形からも、フレーズの終わりをダウン・ボウでボワーンと終わらせると弾き手はとても気持ちがいいわけです。ヨーヨーに向かって、だけどそこの音楽はそういう音楽じゃない、と。「お願いだから、弓の都合で音楽をしないでくれ」と言っていました。ベルリン・フィルのリハーサルのときにも、「皆さんは音楽学校の学生じゃないのだから、私に基礎的なことを何回も言わせないでください。音符ではなく、楽譜の後ろにある“音楽”を演奏して欲しい。」とか。「どうしてそんな所が合わないのだ?」とか、よく言って、ちょっとしたヒントを与えると、さっと合うようになる。結局あれだけ流れるように演奏している裏には、「どうすればそうなるか」という技術があり、それをよくわかっていたのですね。こだわりを持って音楽をしないと、流れが止まってしまう。「そうではないんだ」ということを、練習の時に本当によく言ってました。まさに、「ローマは一日にしてならず」。ベルリン・フィルと30何年以上、あれだけ共に音楽をしてきたからこそ、彼らと一緒にそこまで到達できたとのだと思うのです。その30年の歴史を私達は聴いているから、とても普通に聴こえるけれども、その普通というのが普通になるのは、いかに難しいことなのだということを、あらためて普通になっていない演奏を聴くと思います。普通だと思わせることの偉大さを、今にして再認識します。それこそが彼の共に音楽することの目標だったのです。それこそ、鳥たちがさっと一瞬にして方向転換をして、列の形を変えるように、そういう風にまったく自然に音楽をする。誰かが指示をするのではなくて、みんなで自然とでそうなってしまう。「じっくりと観察していても、渡り鳥の群れでは、誰がリーダーかわからないだろう?」とよく言っていました。確かにそうですね。彼はオーケストラと一緒に、その次元にまで、その境地にまで到達したかったのだと思います。

眞鍋さんが一番好きなカラヤンの一枚とか一曲はありますか?

彼の晩年の「アルペン・シンフォニー」はある意味で、彼、独特の素晴らしいさがあると思います。私が好きなのはブルックナーの「シンフォニー7番」とか「8番」とかです。私がベルリンで勉強していた70年代には、彼は本当にブルックナーをよく演奏していました。ブルックナーは、一曲が長いですよね?だから最初の頃は、コンサートに行く前には、ブルックナーがプログラムだと今日は“長い曲”だという覚悟で出かけました。でも曲が終わり最後のアッコードが鳴りやむと、「ああ、もう1度、最初から聴いてみたい」と思うような気持ちにさせるのが、カラヤンのブルックナーだったと思います。雄大でのびやかで、本当に素晴らしかったです。「9番」に取り組まれたのは、かなり晩年のことだったと思います。そして、カラヤンの人生最後のコンサートも、ウィーン楽友協会でのウィーン・フィルとのブルックナーの「7番」だった思います。その翌年、1990年の2月に、ウィーン・フィルと来日して、この作品をサントリーホールで指揮をするという企画が決定していて、ご本人も楽しみにしておられたのですが、その7カ月前の本当に予期せぬご他界は、残念で堪りません。もう一つのプログラムには、チャイコフスキーの「5番」が予定されていました。

コンサートで最も心に残っているものは?

ヴェルディの「レクイエム」でしょうか?圧巻というか、圧倒され、打ちのめされたというか?ザルツブルグ音楽祭での「レクイエム」は今も忘れられません。オペラの忘れられない名演は、幾つかあります。「ドン・カルロ」、「アイーダ」、「パルシファル」、「マイスタジンガー」、「ファルスタッフ」などなど。「リング」は、再演された「ラインの黄金」だけ体験することが出来ましたが、これは演出も含めて、夢のようたったという記憶があります。残念ながら、「リング」の他の作品の再演はなかったので、観ることができませんでした。それが、今も悔やまれます! 「アルペン・シンフォニー」の練習もよく覚えています。彼はリヒャルト・シュトラウスの多くの作品を指揮していますが、シュトラウスがオーケストレーションを完成させたのがこの曲だと、カラヤンさんはそう確信していたのです。ご自分が山登りが大好なので、この曲の練習の時に、急にオーケストラを止めて、「皆さん、山に登ったことがありますか?山に登ると、山の自然というのは正にこの曲に書かれているとおりなのです。この部分で表現されているのとまったく同じように、霧が立ち込めてきて一面に広がる。その情景をシュトラウスは完璧とも言えるオーケストレーションで表現している。山の自然の描写がここまで詳細にオーケストラで表現されているのには、シャッポを脱がざるを得ない。シュトラウスはこの作品で、オーケストレーション技術の最高峰を築いた。」と、珍しく饒舌に語っていたのが印象的でした。

そういう意味で、当時のベルリン・フィルという世界の最高峰に立つオーケストラの、その演奏芸術の極地のような力量と、リヒャルト・シュトラウス流のあの音符の書き方、表現の仕方を隅々まで理解仕切っていたカラヤンとの演奏は、ある意味、この作品の演奏の最高峰だと思うのです。

リヒャルト・シュトラウスのチャーミングな音の遊びと洗練されたウィーンの香りに溢れた「ばらの騎士」も忘れられません。あのウィーン風のニュアンスが、この作品には一番大切だとも言っていました。ですから、ウィーン訛りを使える“オックス男爵役”を探すのは、至難の業だとも言っていました。「エレクトラ」のようなドラマチックな作品も素晴らしかったし、やはりカラヤンさんはRシュトラウスが本当に好きで、よくわかっていた人でしたね。「ドン・ファン」も良かったです。カラヤンが指揮する「エレクトラ」の演奏を、シュトラウスは実際に聴いているのです。演奏後、カラヤンとシュトラウスは、指揮について、スコアについて話をしています。その話の内容にも、カラヤンさんはとても満足で、益々シュトラウスを崇拝するようになったとのことです。

現代はインターネットとか音楽配信が大きな存在になっていますが、もしカラヤンが生きていたらこれらにもチャレンジされていたんでしょうね。

もちろんしてると思います、必ず。ただ晩年になって、サントリー・ホールを作るときにも言っておられたけれども「今のように、どんな所でも音楽が聴ける世の中になったからこそ、だからこそコンサートホールに足を運ぶということは、以前とはまったく意味が違うことなんだ」と。晩年になればなるほど、カラヤンさんはライブの演奏を大事にしていました。ライブでオーケストラと一緒になってフワーッと、それこそ一緒にメディテーションするような体験、そしてお客さんとも一体となって共に何かを感じる空間を共有する。そこには何かまったく違う次元のものがあると言っていました。ライブ演奏、最終的には彼の目指したものはそこだったと思います。その反面、レコードでは模範となる良い演奏を残しておきたい、という気持であったと思います。ライブを体験できない人のためにも。でも、もしライヴを体験できる人がいるなら、一緒に体験しよう、ということだったと思います。レコーディングがとっくに終わっている曲でも、また2年後に演奏することになっている曲でも、あれだけの練習を何回も何回も重ねていたのは、たぶんそれは彼にとっての絶え間ない勉強の最中だったのでしょうね。この曲のここがわからない、こうではないかと疑問に思ったら、とことん、その答えが出るまで練習でトライしていたのだと思います。最後まで音楽を求道者のように求め、究極的な作品の真価を見出そうとしていたのだと思います。そういうところがやはり常に彼の音楽を聴いてみたい、と思わせるところではないでしょうか。やっつけ仕事などは、なかったですね。年を取れば取るほどそうでした。これが自分のこの曲を指揮する最後かも知れない、そんな意気込みで毎回演奏をしておられたように思います。

サントリーホールにとってはカラヤンはある種生みの親的な存在ですよね。

これは、本当にその通りです。あのようなホールの形状になったというのも、カラヤンさんが(サントリー元社長・故)佐治敬三さんとの直接の会話があったからなのです。佐治さんは最初はシューボックス形式を考えていたのに、こういう形になったというのはカラヤンさんのアドバイスのおかげだし、オルガンが入ったのもカラヤンさんのおかげです。「オルガンは必要でしょうか?」という佐治さんの質問に、カラヤンさんは、「オルガンのないコンサートホールは、家具のない家のようなものです。ベルリンのフィルハーモニーを観てください。オルガン設置を最初に考えていなかったから、後でそのことに気がついた時には、あの右横の場所しか置く場所がなかった。とても使いにくいのです。」と。それから音響のために、なるべく木材を多く使うと良いという忠告もありました。ザルツブルグ祝祭劇場を作るときにも彼はその設計にも関わったとのことです。あの劇場の舞台の部分は、砂岩の岩山をくり抜いた所にできています。ところが、その舞台のための場所を掘っていく際に、他とは違う強固な岩盤に突き当たってしまい、舞台の奥行きをそれ以上深く掘ることができなかったのです。それが故に、舞台の部分が当初の設計通りにできなくて、音響が理想の通りにはいかなかったのが残念だと。それでザルツブルグの祝祭劇場のコンサートの際の音響をどうしても良くしたいので反響板を作って欲しいと、ザルツブルクの州と町に何度も掛け合っていたようです。それがいつまでたっても実現しないので、しびれを切らせた彼が、全額自分で費用を出してコンサート用の反響板を作らせて、自分のコンサートの時に使用し始めました。後には、他の指揮者やオーケストラも、この反響板を使用したいとの要望があり、カラヤンさんがリースしていたと笑っておられました。

こだわりの人ですね。

ええ、ザルツブルグ復活祭音楽祭では、オペラの演出も自分でしていました。演出家によって、音楽を邪魔されるのに耐えられなかったとのことから始まったのです。ところが、自分が指揮しながら演出の練習を一緒にはできないでしょう?だから先にベルリンでレコーディングしておいて、ザルツブルクに来る前に、音楽面の完璧さを作り出しておく。数カ月後に、レコーディングで歌った歌手たちを連れてきて演出の練習を始めるのですが、その歌手たちが不必要に声を痛めないで演出の稽古に専念出来るように、全部プレイバックで練習していました。本人が歌っている訳ですから、練習で他人の声を聴くという違和感もないし、頭の中で音楽をリフレッシュして、本番でも同じように、或いはより良く歌えるわけです。演出のためだけの練習を、このシステムでまる1ヶ月間やっていました。自分が演出も出来、歌手にも負担がかからなくて、十分に練習できるにはどうするべきかという方法を考えて、このようなシステムを考えだしたのですね。先に録音しておけば、歌手もオケも録音のために十分に勉強してある。またその練習の時に自分の録音を使えるから、思い出すのに好都合。しかもオペラに来た人はその録音物を公演の後に買って帰れる。このように、すべてにおいて、大変に合理的な考え方をしていたのです。そういうところまで他の人たちは頭が回らないし、レコード会社の協力もない訳です。ところが、彼がこのようなシステムを実行すると、「また、あんなことをやってレコードを売りたいからだろう?」とマスコミは言いだすのです。カラヤンさんは理想を追求して、先に、先にと考えて行動してしまうので、それができない人達のねたみも多かったと思います。とにかく、すこぶる頭のいい人でしたね。頭の回転が速く、勤勉ですから、たとえどんな部門で何をしても、成功できた人だと思います。あれだけ努力する人ですから。ただ音楽をする際に、「指揮することとは、何だろう。」と哲学的にその意味を突き詰めていった。そんな彼の心境までをわかる人は、あんまりいなかったのではないでしょうか。今でも。そう思って聴くと、彼の音楽が余計に凄み味を帯びて聞こえてきます。

精神性みたいなものがあったんですね。

そう。本当にそうです。偉大な芸術家の常ですが、音楽を哲学的にとらえることを真剣に追及していたと思います。彼の作り出す音楽は、表面的な美しさはほんの氷山の一角で、その下に何倍もの奥深い考察が積み重なって出来あがっているので、どのような角度から聴いても、色々な人が聴いても、惹かれてしまうのだと思います。


第5回(2014.8.04UP) 

《日本でのエピソード/オーケストラとカラヤン》

Karajan 201408
「1988年、最後の来日の際、キーボードを買いにヤマハに行った時のひとこま」。右端が次女のアラベル

もちろんカラヤンは世界的カリスマですが、特に日本で大きな存在である気がします。カラヤンが日本を愛してきたこともあるでしょうけど、日本人がカラヤンの精神に何か感じるところがあるのでしょうね。

もちろん、それはあると思います。カラヤンさんが亡くなられた時、色々な人が本当にありとあらゆることを言っていました。特にドイツでは! 「カラヤンはレコードを商売のためにあれほど沢山作っていた」とやっかむ言葉もあったし、「猛烈なビジネスマンだった」と書いている雑誌もありました。カラヤンさんをいろいろと批判する人は、このようにドイツでもどこでも、世界中に多くいたと思います。やれ「ヨットや飛行機などの贅沢なものが好きだ」とか、「グラマラスライフを送っている」とか。でも飛行機にしても、彼はメカが好きで、飛行機を操縦するのが大好きだったから自家用機を所有していただけ。飛行機に乗せてもらったことありますが、サン・モリッツ(スイス)から飛び立って、アイントホーフェン(オランダ)に行って、そこでフィリップス(レコード)の会社の人と打ち合わせをして、それからもう一か所ルクセンブルクに行って、そして夕方にはもうザルツブルグの自宅に帰ってくるという一日でした! 彼が言うには、「自家用機があると、一日でこれだけ動けるだろう。公共の飛行機で動いていたらとても一日でこれだけの用事をすますことはできない。だから自家用機は便利なんだよ。」そういうことなのです、つまり合理的。便利だから、そして、時間を節約できるから。それプラス、自分で飛行機を操縦できる楽しみもあります。メカが好きなのは男の子と同じです。そのメカ好きが、言葉だけのことではないと感じたエピソードがあります。70年代は、新幹線がまだ新しくて、最高スピードが250km位だったと思いますが、当時はその新幹線の中にビュッフェ車があり、その車両には壁にスピードメーターが備え付けられていました。カラヤンさんが、そのスピードメーターを背にして立って、「いまは時速150km」とか「今は180km」とか言うのですが、それがぴったりと当たっていたのです。本当に信じられませんでした! 自分の身体でスピードを体感できていた。それはきっと、当時はいつも自分で車を運転していたからでしょうけれど、とにかく、並大抵ではないメカへの凝り方でしたね。余談になってしまいましたけれど…!

カラヤンさんが日本を愛した理由は、こういった技術の進歩の最先端をいく日本の一面と、そういった日本人の心の奥にある、深い精神性への敬意の両面だと思います。彼は25歳の時からずっと、毎朝ヨガと瞑想を続けていましたから、彼の心の奥底には常に静寂がありました。だから、舞台に出て“あがる”ということはまったく知らない感覚だったとのことです。また、自然を崇拝し、自然の中に身を置き、何時間でも自然を観察するのが習慣となっていました。自分の内面や、精神的な話を人に話すことは殆どありませんでしたから、カラヤンさんのそのような面をヨーロッパの人達はまったくと言って良い程知らなかったと思います。カラヤンという人の存在から、それを直接感じ取ることができたのは、日本人だけだったのではないかと思うのです。

日本に来たときには何がお好きだったでしょう。日本食は召し上がったのでしょうか。

てんぷらやステーキなどの日本食は嫌いではなかったけど、あまり多くは召し上がらなかったですね。お気に入りはフレンチと中華料理。中華料理はホテル・オークラの中にあるお店「桃花林」によく行きました。あとは、とてもシンプルで、重くない洋食をルーム・サービスで注文して、自分の部屋で食べていましたね。お昼は常にホテルの中のレストランから自分の部屋に食事を取り寄せて召しあがっておられました。

東京の滞在はホテル・オークラか京王プラザホテルだったのですよね。

はい、そうでした。普門館で2回ほど公演されましたが、2回目の時は、距離的に近い京王プラザでした。丁度その京王プラザに泊まられた時に、大型台風が襲来して風が強く、高層ビルですから最上階近くは左右に大揺れでした。オ―ケストラの団員の中には、怖がっている人も多かったので、カラヤンさんはどうしておられるかとお部屋を覗いてみると、何と大きなガラス窓の前に腕組みをして仁王立ちに立って外を眺めておられました。「大丈夫ですか?」と聞くと、「いやー楽しい。ヨットに乗って大波を浴びているような気分を味わっているよ。」とのお返事でした。

1977年に子供たちと日本に来たときには、子供たちに「日本に来たら何を体験するべきか」というオススメのプログラム(予定表)というのを考えておられました。「大阪では、宝塚に行きたまえ!」と。あまりにも意外だったので、「何故また、宝塚がお勧めなのですか?」と聞くと、「昔、宝塚を見たら面白かった記憶がある。若い女性だけでレヴューをやっているんだよ。」と(笑)。ヨーロッパにはありませんものね! 1954年にNHKの招聘でNHK交響楽団と演奏するために1人で来られたのが初来日でしたが、そのときNHKの関係者の方が彼を連れて行ってくれたそうで、その時の宝塚が新鮮で面白かったみたいです。
あと記憶に残っているのは、アラベル(下の娘)がヤマハのキーボードを日本で買いたいというので、ご本人もわざわざ一緒に渋谷の道玄坂にあったヤマハのお店に行きました。実際に自分で演奏をしてみて、納得がいけば買ってあげようと。80年代に入っての事でしたけれど、カラヤンさんがお店でご自分でキーボードを弾いておられる、そのときの写真もあります。

カラヤンと楽団のメンバーとの交流というのはあったんですよね。

ありましたよ、特に昔は多かったみたいです。スキーが好きだから冬はいつもサン・モーリッツの山荘で過ごされていましたが、ベルリン・フィルの団員の方達のスキー休暇も兼ねて、あの町でレコーディングを始められて、小さい編成の室内楽的な作品とか、モーツァルトなどの録音をずいぶんしていました。その頃は、ご自分の別荘にオーケストラの人たちを呼んだり、ボーリング大会をしたりして、楽しい交流があったとのことです。
ザルツブルグでは、イースターのフェスティバルの時に、ベルリン・フィルとザルツブルクの住民の方々との交換会というのが毎年開催されていました。野原にテントを張って、大きな雄牛一頭を丸焼きにして、団員達と市民が家族を含めて一緒に集うのです。ビールやワインを片手に、楽しく飲みながら、ベルリン・フィルの管楽器の人達が舞台で民族音楽を演奏し、その下では皆でダンスをするという、まったく無礼講の楽しいパーティでした。カラヤンさんも奥様と娘さん二人を伴って、毎年一緒にワインを飲みに来ていました。娘さん達は、いつもザルツブルクのディルンデルという民族衣装を着て、可愛かったです。
その時の楽しい雰囲気が伝わってくる写真もあります。昔はそういった楽団との交流も多くあったとのことですが、お年も取られて、だんだんそういう場所に行く時間の余裕もなくなってきたのでしょうね。昔はいわゆる社交的なパーティなどにも行かれたようですが、私が知っている頃には、パーティにはまったく行かなくなっていました。とにかく彼の生活は音楽をやることだけが中心で、音楽会のためのリハーサルをして、それをするために食事をして、身体を整えて…と、仕事のことしか頭になかったようでした。午前中はリハーサルか録音、そして昼食を取って、少し休んで、それから音楽会の本番、あるいは録音というように。私が知っている頃のカラヤンさんの日常は、そういう姿しかなかったですね。

カラヤンは目指すところがすごい高い気がするんですけど、今日は良かった、ということはあるんですか。

もちろんありましたが、あまり口には出されなかったですね。何しろ口数の少ないで人でしたから。でも、その日のコンサートのことは、終了後に頭の中で思い返しておられたようで、時々、ポツリと、とてもユニークな批評を口に出すこともありました。

常に納得しない、ということではないのですね。

それはないと思います。始めてマーラーの「交響曲第五番」をベルリン・フィルと演奏し時、トランペットのソロがあまりにも美しく演奏したので、涙を流しておられたのを覚えています。また、ロシアに演奏旅行に行った際に、ショスタコーヴィッチの「交響曲十番」を作曲者隣席のもとに指揮したとのことですが、この時も、指揮をしている途中で、涙を流していたとのことです。ショスタコーヴィッチも終演後、カラヤンに抱きついて、自分はこれ以上の演奏を聴いたことはない、と感謝の気持ちを述べていたそうです。
また朝の練習の冒頭で、昨晩の演奏が素晴らしかったと、団員に感謝の言葉を述べることもよくありました。
ザルツブルグで最後に「ばらの騎士」を指揮したときに、カラヤンさんは、『ああ、これが自分の何回目の「ばらの騎士」の演奏だった。そして、これが自分の生涯最後の「ばらの騎士」だった』と、舞台袖に来られたソニーの大賀氏に述べられたとか…。やはり70歳を過ぎてからは、何か大きな上演が終わる度に、「これが自分の最後のこの曲の演奏だった」と、感じておられたのですね。ですから余計に、「最後になるのだから最高の演奏をしなければ」と考えておられたのでしょう。

それで、さきほどのリハーサルの話になるのですが、晩年になればなるほど、本当によくリハーサルをされました。「またあの曲の練習かい?」と、ベルリン・フィルの団員がいい加減いやになってしまうくらいに。当時、ベルリン・フィルのコンサート・マスターだった安永徹さんが、「カラヤンさんの近頃の練習を見ていると、自分が動けなくなってもそこにいるだけで、アインザッツ(演奏し始めの瞬間)さえ出せば、オケが自然と演奏をやってくれるようなレヴェルにまで、自分たちを持っていきたいのかなぁと思ってしまう。」と言っておられたのをよく覚えています。私は、その通りだと思いました。それは彼が言う、弓術と禅の極地です。とにかく始めたら、作為なしに音楽が自然に流れ出るという、オーケストラと一緒にそういう境地にまでなりたかったのだと思います。自分のほんの一瞬の少しの動きでだけで、オーケストラ全体がス-と一つになって同じ音楽になる。ふっと指示するだけで、みんなが即座に一体となることができる。そのような演奏を彼は目指していたのだと思います。だから、その境地に辿りつくためにも、一緒にできるだけ多く練習をしたかったのだと思います。私も当時はその深遠な理由が理解できませんでしたが、だんだん後になって、本を読んだり、「あの時、カラヤンさんはあんなことを言っていたけど、どういう意味だったんだろう」とか、彼が考えていたことを振り返って考えてみると、「ああ、なる程、そうだったんだ」と思うことが多いのです。やはり彼が晩年にこの本(「弓と禅」)のことを何回か人前で話していたのは、そういうことだったのだ、と。『指揮するということは、弓を射ることと同じだと自分は思う。的を射ようとせずとも的に当たっている。オーケストラを意図的に指揮するのではなく、オーケストラと共に自然に音楽を一体となって奏でるようになる。オ―ケストラ一緒に、そのような境地にまで到りたい。』と考えていたのではないかと思うのです。

*次回、最終回は8月末掲載予定です。


第4回(2014.6.27UP) 

《父親としてのカラヤン。愛する2人の娘たち》

Karajan 20140627
東京でのサイン会にて:カラヤン左手:長女イザベル、右手:次女アラベル 1977年

娘さんたちはお2人ともお若いですよね。

若いですよ。2人とも彼が50歳を過ぎてから生まれた子供たちですから。奥様と結婚されたのが50歳を過ぎてですから。母親のエリエッテさんは3人目の奥様ですが、最初の奥様はアーヘン歌劇場のソプラノ歌手、次の奥様はアニータさんという大財閥の令嬢で、社交界の花形だった方だとか。半分ユダヤ人だったアニータさんと大恋愛のもと結婚されたのですが、当時はユダヤ系の人と結婚するには、ナチスの許可が必要だったとのことで、カラヤンさんもゲッペルスにお伺いをたてたとのことですが、結婚に到るまでは容易な道ではなかったようです。戦後、カラヤンさんが仕事することを禁止された時、彼女が語学を教えて、家計を支えておられたとか。私もお会いしたことがありますが、その場面がとても面白かったですよ、ザルツブルクのカラヤンさんの事務所で、エリエッテ夫人に紹介されたのです。(笑)

エリエッテさんから「このレディをご存じ?」と聞かれたので、「いえ、存じ上げません」とお返事したら、「この人はミセス・カラヤンよ」。「はあ?」と返事に窮していると、「私はほんの3番目なのよ!」と。(笑)

カラヤンさんとアニータさんとは離婚後もずっと仲が良くて、よく連絡を取り合っておられたみたいです。1977年に日本にいらしたときにも「パールのネックレスを買わないといけないんだが、良い店を知っているか?」と言われるので、「どなたに買われるのですか?」と質問すると、「セカンド・ワイフに買うんだ」と。アニータさんから、買って帰るように頼まれたのだそうです。

家族のお父さんとしてのカラヤンってどうでした?

お父さんとしてのカラヤンは、立派でしたね。とても優しかったですし。いつも娘2人を連れていて、ザルツブルグでは常に一緒でしたし、練習にでもどこにでも子供たちが来ていましたね。日本に一緒に連れてきた時、彼女たちは16歳と13歳だったのですが、教育というか、日本で言うところの“しつけ”というのは全部お父さんがやっていました。例えば、“人から何か頂いた時は、すぐにお礼状を書かなくてはいけないよ。”とか。カラヤンさん自身が、礼儀とか作法とかを、彼女たちに厳しく教えていたので、それは立派だと思いました。それと、経済的にも決して甘やかさなかった。“他の家ではこの歳ならどれくらいのお小遣いをもらっている”かとか、そのような事をキチンと誰かに聞いて、「(お小遣いは)これだけね」みたいなことを言っていました。子供たちにとっては、お父さんというのは優しいながらも大変に偉い存在で、絶対に口答えはしなかったですね。

お父さんが自分に厳しい、というところも伝わっていて尊敬されていたのでしょうね。

姉妹の上の女の子(イザベル)は、顔はお母さんそっくりですが、性格はお父さんそっくりで一筋なんですよ。“女優になりたい”と思ったら、ザルツブルグの高校を卒業してからパリに行き、演劇学校に通って貧しい屋根裏部屋で暮していました。その留学の費用も、お父さんが決めるんです。「ベルリンのカラヤン・アカデミーの生徒たちには月額これくらいを出しているから、君もそれだけで生活できるだろう」と言ってアカデミー生と同じ額の800マルクしかくれないのです。ところが、ベルリンのカラヤン・アカデミーの人たちと言うのは、エキストラでベルリン・フィルに出演すればお金をもらえるし、授業料は只なので、それだからその金額で楽に生活出来たのです。でも彼女は、その中から授業料を出して、パリの高い部屋代を出さなければならなかった。「ケイコ、本当に大変なのよ。洋服なんかとても買えなくて、いつも蚤の市(教会や市庁舎前の広場などで開かれる古物市)に行って買ってるのよ」と嘆いてました。それでもお父さんには何も言えないのです。カラヤンさんが子供たちにいつも言っていたのは、「20歳までに自分の方針を決めて、自分で生活できるようにしなければいけない!」と。だから彼女も「どうしよう、どうしよう、早く職を見つけなければ」と言っていました。(笑)

彼女の最初の車は、始めて舞台で演技してもらったギャラの中から自分で買った、中古のミニクーパーでした。

妹のアラベルは本当に音楽が好きで、家にもピアノが欲しいと口癖のように言っていました。カラヤンさんのザルツブルクのご自宅にはピアノが無かったのです。ご自身は、ザルツブルグのフェスティバル・ホールの自分の部屋に行けばピアノはありますから。彼女がピアノを習いたいというと、カラヤンさんが「お前はなんでもすぐに飽きるから、だめだ!ピアノを買うのは簡単だが、6ヶ月以上続かなかったら買ってももったいないだけじゃないか」って。それでなんと、アップライトのピアノを6ヶ月間リースしたのです。「6ヶ月続けたら買ってやる」と。(笑)いまアップライト・ピアノが彼女の部屋にありますから、最終的には買ってあげたのだと思いますが。でも私が「彼女が本当にピアノやりと言っているのですから、ちゃんと先生を就けてレッスンさせてあげたらいいのではないですか?」ど言うと、「いやケイコ、ザルツブルグにはいいピアノの先生がいないんだよ。」って(笑)。「そんなに良い先生でなくても、誰でもいいじゃないですか」と言うと、「いや、何事も先生が一番大事なんだ」と。(笑) 結局、アラベルはボストンの専門学校に行って、ジャズとポップスとか、そういうジャンルの音楽を歌ったり作曲したりしていました。ああ、この写真の(日本で電子オルガンを購入した)ときは、彼女はスペインに住んでいて、自分の家で夜でも弾ける電子ピアノが欲しいと、お父さんにおねだりして買ってもらったのです。購入する際、カラヤンさんは、これ(オルガン)を自分で弾いて試してから買っていました。「これならいい」と。カラヤンさんは自分自身にもそうなように、家族にも大事なポイントでは厳しかったと思います。イザベルは本物のプロの舞台女優になってヨーロッパで活躍しています。一昨年でしたか、小澤征爾さんの松本音楽祭で、オネゲルのオラトリオ「ジャンル・ダルク」の主役のジャンヌを演じました。アラベルはお父さんのもう一つの側面だった、ヨガとか非常に精神的な分野に興味を持って生活しています。一緒に音楽をやってたパートナーがブルガリアの人なので、いまブルガリアに住んでいます。可愛らしい女の子が生まれて、今は、とてもいいお母さんになっています。

今でも彼女たちとは交流はあるんですか?

ええ、毎年会ってますよ。すくなくともイースターのときにはザルツブルクで会うし、エリエッテにも会うし。一昨年はイザベルが松本に来たので、私も松本に泊まって一緒に松本の町を歩いたり買い物をしたりして楽しかったです。アラベルは、今は娘とブルガリアにいますが、中学からは娘をウィーンのシュタイナー学校に入れようと考えていて、その下見を兼ねてウィーンにいることが多いのです。ですから、私がウィーンにいるときは、子供と三人でご飯を食べたりしています。

アラベルは本当可愛い子で、ザルツブルグの中学校ではフランス語の授業があった訳ですが、でも彼女はお母様と家で話しているので、フランス語は当然ぺらぺら。でも授業には出なければならないので、週3回のフランス語の授業の時間には、必ず日本の私に手紙を書いてくれていいました。最初は、横文字で住所を書いてきていましたが、最後の頃は私が差出人の住所を漢字で書いているのを真似して、漢字で宛先を書いてくるの。(笑)かわいかったですよ。本当に2人ともとても性格の良い子達です。

《カラヤンの食事のエピソード》

食事では食べるものは決まっていたのですか?

お昼はだいたい決まっていましたね、簡単なもの。夜はとてもくつろいで、キアンティを片手に、楽しく食事をしていましたけれど。食事中の鉄則は、「絶対に仕事の話をしない」ということ。(笑)本当に、絶対に仕事の話は出ませんでした。録音ディレクターでミシェル・グロッツさんという人がいましたが、彼がメチャクチャに面白い人なんです。フランス人でパリに住んでいた人ですが、とにかく本当に冗談を言うのが上手で、カラヤンさんは彼が大好きで、ご飯のときは必ず彼がいて常に笑い転げていました。彼とのやり取りが、いつも本当に面白かったです。演奏旅行にいくと、空港とかの待ち時間で、何もすることない時間がありますよね?そうするとカラヤンさんが「ミシェル、あの交響曲の3楽章の第二ファゴットのどこどこの部分」と必ず速いパッセージを挙げると、ミシェルがそこを全部「ドレミ」で超絶スピードで歌うのです。それがカラヤンさんは可笑しくて、お腹をかかえて笑っていました。本当にあの2人の掛け合いは面白かったですね。後にはドイツ・グラモフォンのレコーディングでもミシェルがやっている録音が沢山ありますよ。

眞鍋さんも何度もカラヤンとはお食事をご一緒されていますよね。カラヤンはご自分で冗談をいったりする人なのでしょうか?

ええ、良く冗談を言われましたね。でも、人に喋らせて笑っている方が好きでした。(笑)口ベタでお話上手ではなかった。

単語で話すし、話が急に飛んでしまうので、つなぐのが大変だったっていいますよね?

そう、ぽんぽん話が飛ぶのです。それがわからないと話に付いていけないじゃないですか。そのうちにこちらもそういうやり取りに慣れてくるのですが。。。。。 面食らうのは、自分から楽しそうに話を始めるのですが、私達に言葉で話をする前に、自分の頭の中で話がどんどん進んで、結論まで行ってしまい、途中で一人で大声で笑いだしてしまって、話しはそこで終わり。そんなことがよくありました。聞いている方は、何がおかしいのか、全然わからない。(笑)でもご本人が笑っているのが可笑しくて、つい一緒に笑ってしまいましたけれど。。。。。。(笑)


第3回(2014.5.29UP)

《カラヤンと日本。「弓と禅」…指揮の精神性》

カラヤンは日本人を特別に扱ってくれたような気がするのですが。

 

気質も合ったと思うし、とにかく日本がとても好きでした。日本人の技術力も尊敬していましたし。彼は元々、音楽を勉強したかったけれど親の許しがもらえず、ひとまずウィーンの工科大学に入って勉強したのです。そこで2年程勉強して、それから音楽学校に行ったくらいですから、テクノロジーのことも物凄く好きなのです。でもカラヤンさんと日本人とのつながりは、単に技術が好きだからとか、自分の音楽を日本人が評価してくれるから、というだけではなくて、日本人の持っている精神性にとても興味を持っていたのだと思います。カラヤンさんの内面はあまり知られていないと思いますけれど、彼は戦後ずっとヨガを続けていましたし、メディテーションも続けていました。そういう一面は、夫人や娘さんしか知らないと思いますけれど。「日本人の精神」が好きだったのですね。

日本の禅に興味を持っていらしたようですね。

鈴木大拙を始め、日本の禅だとか精神的ないろんな本を読んでおられました。彼と話をしているときに、あるドイツの哲学者の本を引用してくれたことがあります。その哲学者はオイゲン・ヘリゲルという方で、仙台の東北大学に教えに来ていた高名な認識論の大家だったのです。その方が日本で弓術のマイスターのもとで練習をしはじめて、そして『弓術の極意が禅の極意である』とその先生から得特した…そういう話でした。

カラヤンさんは「指揮の本質が何なのか、その極意は何なのか?」ということを自分なりにずっーと考え続けていたのです。それで、ときどき私などにもわかるような話をしてくれました。ザルツブルク復活祭音楽祭の後援会の人達を集めての公開練習というのが毎年行われていましたが、かなり晩年になって、この話を2年間に渡って話されていたのを記憶しています。

音楽というのは、自分でするのでもなく、オーケストラがするのでもなく、全員で音楽を作るのだということ。作るというより、そこから生まれ出てくるのだということ。

彼は自然がとても好きで、自然をじっと観察し、眺めていることが多かったのですが、渡り鳥の群れの話を何回かしてくれました。渡り鳥は誰がリーダーだかわからないけれど、何かのきっかけで、一瞬のうちに皆が一斉に方向を変えて飛び始める。そんな風に、指揮者の役割というのは誰が指揮者かわからなくてよい、と。「真に音楽をする」というのは指揮者がするものではなく、全員でするものだ、或いは、全員の中から音楽が生まれ出ることだ、言っていました。

お寺とか神社とか日本に来たときにいかれたりとかしていたんですか?

いや、日本にきてもほとんど自由時間ありませんでしたから。でも、1977年の来日の折、珍しく、前々から計画に入れていた個人的日程というのがありました。上智大学にドイツ人のラサール神父様という方がおられて、その先生にわざわざ上智大学まで会いに行かれたのです。ラサール師はもちろんカトリックの神父様なのですが、カトリックと日本の禅というものを結びつけて、奥多摩に神明窟(しんめいくつ)という瞑想の館と道場を持って禅を実践していらっしゃいました。その先生の書いた本をカラヤンさんは読んでおられたのですね。ラサール神父様に質問があるといってわざわざ寸暇を惜しんで上智大学に来かれました。どうしても彼に会って、質問したいことがあるとのことで。娘二人と私には車の中で待つように指示し、一人で上智大学の教授館に入っていかれましたが、しばらくして、晴れ晴れとした顔で、ニコニコと車に戻られたのをよく覚えています。

なんか重要なことが、聞きたいことがあったんでしょうね。

どうしても聞きたいことがあったらしいのです。それが何だったのかはもちろん話題にはなりませんでしたけれど。。。。 彼の内面、精神性というのは、結局、誰も知らなかったのではないかという気がします。とてもシャイな方ですから、自分からそのような話をする人ではなかったですから。

そういう哲学の真理とか法則とかに興味があったんですね。音楽に通じるものがあったのでしょうね。

はい、心底、興味を持っておられました。「指揮の極意とは何か」ということを考え続けていたのだと思います。以前には、それを科学的に突き詰めてみようと、カラヤン財団の中に研究所を設けて、色々な実験を試みた時期もありました。指揮をしているときの指揮者に様々な計測装置を取り付けて、指揮者の心臓の変化、脈拍の変化、呼吸の変化を測る…等等。自分が実験代になって、そのようなテストを行っていた時期もありました。そして最終的に行き着いたのは、「指揮の極意は弓術の極意に等しい」ということなのです。それがこの本です。オイゲン・ヘリゲル教授の書いた「弓と禅」。

ドイツの哲学者の方が書いた本ですね。

そうです。この人は5年間、日本の仙台の東北大学で教鞭を取っていた哲学者です。これ(「弓と禅」)も哲学書だと思いますね。1923年に来日し、東北帝国大学 ―いまの東北大学― に1924年から1929年までいました。東北帝大で文学博士になられて、そのあと帰国、ハイデルベルク大学からエルランゲン大学の教授になり、ガーミッシュで肺がんのため亡くなりました。この本に弓の極意というのがわかりやすく書かれています。ヘリゲルさんが師事していた弓術の師は、彼が弓の練習を5年間続けても、どうしても免許をくれない。『あなたはわかっていない』と言われる。何故なのかがわからなくて、常に疑問を持ち続けていると、あるとき先生が「では私に付いてきなさい」と言われ、夜にいつもの稽古場に行くと、電気も明かりも何もついていない。しかし、その暗闇の中で先生が弓を射ると、見事に的に当たっていたのです。さらにもう一回引いてみても、まったく同じ場所に当たっていたと。先生曰く、「心の目で射る」のだと。「自分で射ようと意識したらダメ、的に当てようと思ってはいけない」と。無心に矢を射れば、的には自然に当たる、その境地こそが弓の極意だと。それがすなわち禅の境地であると言っているのです。

「指揮をしようとするのではない」。そうではなくて、『無心に指揮をやっているうちに、音楽が自然に音楽になる。』それこそが、指揮の最終的極意なのだと、カラヤンは悟ったのではないでしょうか。ただし、そのためには、毎日弓の稽古をするように、練習を怠ってはならない、と。


第2回(2014.5.02UP)

《ウィーンでの「ばらの騎士」の録音~決められたことは必ずやる人》

カラヤンさんは自分の体調が悪くても、決められたことは全部やる、というところがありました。
彼はだいぶ晩年になって、ウィーンで「ばらの騎士」(リヒャルト・ シュトラウス)の録音をしました。
81年か82年ごろにウィーンのムジーク・フェライン(ウィーン楽友協会)で。当時ギュンター・ブレーストという人がカラヤンさんのプロデューサーでしたが、彼が『もうセッションが始まってから25分も経つのに一小節も録音してないんだよ』と言って廊下を歩いていたのを覚えています。というのは、カラヤンさんはウィーン・フィルと「ばらの騎士」をやるのが楽しくて仕方がなくて、ただただウィーン・フィルとの演奏を楽しんでいたのです。『録音する』という合図を忘れて!それくらい楽しかったようです。
 
ところが、カラヤンさん、その途中で風邪を引いてしまわれたのです。このときの「ばらの騎士」の録音は、2つか、3つにわけて、その間が開いてると思います。彼が風邪を引いて、途中で録音できなくなったので録音が中断されたのです。
お見舞いでカラヤンさんのいるホテル行ってみたら、彼、本当に涙を浮かべて、『自分はコンサートとか録音とか、今までキャンセルしたことがない』と言うんです。『今回は本当にどうしようもなくてキャンセルしたのだが、自分はみんなに申し訳ない』と。ということは、それまでキャンセルもしたことがなくて、どんなに体調が悪くても、プログラムをやりとおしてわけです。このときに初めてキャンセルせざるを得なかったので、「自分が出来なくて、みんなに申し訳なかった」ということを目に涙をためて言っていたのです。「ああ、こういう人はこういう人で、大変なんだなぁ」と思っていました。それだけ責任感が強かった人だと思うのです。

《晩年、痛さをこらえながらの演奏、それを見せない「美意識」》

そう、彼は本当に痛さを表に出さなかったですね。最後の頃は椎間板ヘルニアの手術をした後で、足を引きずって歩いておられました。手術を早くしなくてはいけなかったのに、ずっと予定が詰まっているからキャンセルできなくて、いざ手術となったら手遅れで…下半身が痺れていたのですよ。麻痺していたのです。かた足の神経が先まで行っていなくて、歩くときも自分の目でコントロールして足先がきちんと上を向いて立っているということを確かめなくてはならなかった。それでも歩いてたのです。袖から舞台まで絶対歩いたし、杖もつかなかった。それは彼の美学だったのですね。最後の頃は、指揮台にずっと立っているのも足に負担がかかるし、でも「座ってなんか指揮はできない」ということで、舞台で指揮をする時は必ず立っていました。指揮台の後ろにもたれかかる手すり部分がありますね。あの真ん中に自転車のサドルを付けていたのです。それを自分でさっさと指示をして作らせて、その自転車のサドルに体重をかけて指揮をしていたのです。そこまで自分のスタイルを意識していた。「座って指揮などできない」と。ですから最後の頃は「指揮するときには、なんでもない。自分にとって一番つらいのは、舞台袖から指揮台まで歩くことだ」と言っていました。でも、それでも杖を突くでもなく、歩いていたというのが偉大だったと思います。「カラヤン」という自分のスタイルを保つためには、それだけ苦労をしておられた。奥様が、彼が亡くなったときに、「やっと彼もこれで痛さから開放された」とおっしゃったのが忘れられません。痛いとか、そういうことは家族にもあまり言わなかったけれど、みんなわかっていたのですけどね。それくらい自分に対しては厳しい人だった。いま自分がカラヤンと知り合った頃の、彼と同じくらいの年になって、初めてわかります。当時はカラヤンさんというと、自分にとってははるかに年上の人だったけれど、当時の自分と今の自分を比較してふり返って見ると、極めて精力的に仕事していらしたのだと思います。

◆そういうところを見せないというのが彼の美意識だったんですね。

「弱音をはかない」というのが彼の美意識だったのですね。他の人が病気をすると、すごく優しかったのですよ。お医者さんを世話してあげたりとか。例えば、いつも泊まっていたホテルの従業員の方で、カラヤンさんをいつも担当していた人の息子さんが病気だというと、電話してハンブルグの病院に世話してあげたりとか。人には優しくて自分には厳しかった。だから娘さんはお父さんについて聞かれると、「自分には厳しかったけど人には寛容だった」と言っていましたね。

◆お客さんが自分のことを変に心配するとかそういうことは受けたくない、と。

そう。「お気の毒に」とか。そういう姿は舞台に出るからには、絶対に見せない、と。そういう人でしたね。

◆ストイックですね。

ものすごくストイックでしたよ。ザルツブルクではコンサート後はすぐにご自宅に帰るのですが、カーテンコールが終わると舞台袖ですっとコートを着て、そのまま車に乗ってしまう。お客さんたちにしてみれば、みんなでわっとお見送りしたいと思うのですけれど、その前に出てしまわれる。風邪を引かないように、コートをばっと着て汗が冷えないようにして、家に帰ってすぐにプールで泳ぐのです。そういう習慣を絶対に崩さない。ベルリンに行ったら、朝は必ずプールで泳ぐとか、だいたい彼が何時に起きて何時に何をしているというのは予測がつくのです。


第1回(2014.4.09UP)

Column
(カラヤンと眞鍋圭子氏 1985年3月、ザルツブルクにて)

◆今年が没後25年ですが、いまどのような感慨がありますでしょうか。

2008年にカラヤンの生誕100年祭があり、その翌年の没後20年に、「素顔のカラヤン」(幻冬舎新書)を出版しましたが、それからすでに5年も過ぎ去ってしまったことに驚きを感じます。
日本では10年という年代の区切り方をしますが、ヨーロッパでは四半世紀ごと、つまり25、50、75、100年というのが節目の年です。今年は没後25年なので、例えば、カラヤンの始めた音楽祭であるザルツブルグの「復活祭音楽祭」では、今この音楽祭の音楽監督を引き継いでいる、カラヤンの弟子だったクリスティアン・ティーレマンが、カラヤンのためにモーツァルトのレクイエムを演奏します。モーツァルトのレクイエムというのはカラヤンが亡くなってすぐにザルツブルグの大聖堂でウィーン・フィルとムーティの指揮で演奏され曲です。「では、あれからもう25年も過ぎてしまったのだ」という感慨深いものがあります。
亡くなって25年、今あらためて考えてみると、やはり「巨人」「偉大な人」だったのだと思いますね。音楽的に後世に残したものが計り知れなく大きくて、様々な音楽家たちに一番大きな影響を与えた人ではないかと思います。もちろんフルトヴェングラーなど彼の前にも偉大な指揮者は多くいますが、国際的にこれだけクラシック音楽を普及させた人はいなかったのではないかと思います。カラヤンの活躍によってクラシック音楽が、極めて広い層にインターナショナルに広がっていったと思います。カラヤンがよく言っていましたが、自分はワックス・レコード録音の時代からデジタル録音の時代まで、ずっと継続して録音し続けてきた人間だと。レコー録音技術の発展のあらゆる時代の変わり目をすべて体験してきた人だったのです。

 

◆身近でカラヤンを見ていらした眞鍋さんにとって、カラヤンとはどういう方だったのでしょう。

あまりにも身近で仕事をさせて頂いていたので、改めてどういう人かというのは難しいのですけど、あえて客観的に考えると、正に、生活イコール音楽の人でしたね。
私が1973年に始めてインタヴューしたとき、カラヤンさんは65歳で、20代の私からみるとすでに御老体という感じでの方でした。丁度その頃は、ベルリン・フィルとカラヤンというコンビが、もう本当に車の両輪で、油の循環もスムーズで、毎回毎回、素晴しいコンサートを開き、記念碑的レコーディングを残して、正に絶好調、黄金の時代でした。その当時からカラヤンさんという人は、音楽のためにだけ生活しておられました。コンサートの日程に合わせて、プログラムの日程に合わせて、自分の生活を全部それを遂行するためにだけ使っていた人で、プライベートなカラヤン、プライベートな時間というのは全生活時間の10%も無かったと思います。人生の全てを音楽に捧げている人という感じでした。
70歳くらいになってからは自分の人生の残りの時間をしっかりと計画的に見据えて、残る人生で自分は何をしたい、何を残したい、何をしなければならないかというリストを頭の中で考えて仕事をしていたと思いますね。だからその仕事のためにはプライベートな時間ということはほとんど考えられなかったのだと思います。その姿を見て一番感じたのは、「なんたる規律正しい生活!」、音楽をするためにだけ自分を律していることが、一番印象に残っています。あたかも禅僧のように!

カラヤンさんと親しかった元ドイツ首相のヘルムート・シュミット氏は、御自分でも演奏会でピアノを演奏する程の音楽通で、ザルツブルクではカラヤンさんの家に泊まったりされる程、個人的にもとても親しくしていらっしゃった方です。彼はバーンスタインとも仲良くしておられましたので。2人のことを聞かれて『2人とも偉大な芸術家である。しかし私生活の過ごし方はまったく異なる人たちで、カラヤンは私生活を含めて、実に規則正しい生活をしている人だ』といっていました。カラヤンさんの家族もまったく同じことを言いますし、私もそばで見ていてそう思っていました。
自分の置かれている立場に非常に重い責任を感じていました。「自分を律してこそ築けたいまの地位があるわけで、自分の勝手で何かをするというのは、自分に許すことはできない」という、自分に対する律し方が、普通の人では考えられないような厳しさでしたね。
これは彼の生い立ちにも関わることかもしれません。男の子だけの2人の兄弟で、お兄さんにもお会いしたことがありますが、オルガニストで背が高くて、カラヤンさんとは違ってがっちりした体格で見上げるような大男で、健康そのもの。カラヤンさんは子供の頃から、ひ弱で小さかったし、「自分で何かやろうと思ったら、克服しなければならないものがいっぱいある」ということを子供時代から感じて育ったのではないかと思うのです。その意識が彼の全生涯を通してあったと思いますね。人生の最後の方は、「自分の音楽を残していくためには、何をしなくてはいけないか」ということに明確な目標を定めて、その目標を達成するために自分を律していたと思います。それがあれだけの業績を生むことができた、成功の一つの要因だったと思います。あの自分を律するやり方は、めったな人にはできないことです。
それが彼にとってはもう習慣になってしまっていたので、本人はなんとも思っていなかったかも知れませんが、私たち周りの者は「ああ、本当に凄い、立派だなあ」と思って、尊敬せざるをえませんでした。カラヤンさんの身近に一番長い時間一緒にいて、カラヤンさんがとても可愛がっていた下の娘さんに「お父さんって家ではどういう人?」と聞くと、「本当に忍耐強くて、寛容な人」と。それが彼女のお父さんに対する言葉だったのです。ということは、家庭の中でも公の場でも、とにかくいろいろなことに耐えていることが多かった、そして周囲には寛容だった。“人には寛容、それでいて自分には厳しかった人”だったと思いますね。他人への優しさを、彼が亡くなってから、色々な言葉を思い出して、何度もしみじみと感じています。

指揮者クリスティアン・ティーレマンは、10代でカラヤンさんに会っているし、カラヤンさんを近くから知っている人です。彼はカラヤンさんが創設したザルツブルク復活祭音楽祭を受け継いで、現在、その音楽祭の音楽監督をしています。17歳でカラヤンさんに会って指揮者になるためのアドヴァイスを求めると、「指揮者になりたいなら、まず実際に音楽をやりなさい、現場に行きなさい。ただし大学受験資格だけは取得しておきなさい。」との忠告をもらい、資格試験を取得してすぐに、ベルリン・ドイツ・オペラのコレペティトール(伴奏専門のピアニスト)になったのです。カラヤンさんの「実際に劇場に入って、音楽を実践しろ!」という忠告に従ったのです。19歳でコレペティトールになって、その翌年にはザルツブルグ音楽祭でカラヤンの助手を務めています。カラヤンさんが2台のチェンバロでブランデンブルク協奏曲を弾き振りしているライヴも録音もありますが、あの時、もう一台のチェンバロが舞台の上に並んでいましたが、それを弾いていたのがティーレマンだったのです。それくらいカラヤンさんはティーレマンを若い時から信頼していました。そのティーレマンが言うには、「今だったらカラヤンに聞きたいことが山ほどあるけれど、当時の自分はあまりにも若かったから、勉強不足で具体的に聞けることがなかった」と。ただ、カラヤンのそばでアシスタントをしていて、「彼から学んだ最大のものは、彼の美学と規律正しさだ」、と。「規律正しく生活しないといけない、何事も計画的にやらなければならない」ということを学んだと言っています。周囲の誰もが、カラヤンさんからそれを教えられていたのだと思います。


眞鍋圭子(まなべけいこ)
サントリーホール・エグゼクティブ・プロデューサー - 愛媛県生まれ。
上智大学文学部哲学科を卒業後、東京芸術大学別科チェロを専攻、ベルリン自由大学とミュンヘン大学にて音楽学専攻。 留学中に音楽ジャーナリストとして活動を始め、世界的指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンへのインタビューを機に、カラヤンからの信頼を得、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団来日の際にカラヤンの秘書を務める。 その後、サントリーホール設立プロジェクトに参加。現在は同ホールのエグゼクティブ・プロデューサーとして、ホール・オペラやウィーン・フィル演奏会などの企画を手掛け、2009年には没後20年となるカラヤンについて綴った『素顔のカラヤン 二十年後の再会』を出版した。


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