BIOGRAPHY

YNGWIE MALMSTEEN / イングヴェイ・マルムスティーン


●幼年期
ラーズ・ヨハン・イングヴェイ・ランネルバックは、1963年6月最終日にスウェーデンのストックホルムで生まれた。同年、ビートルズがちょうどイギリス・リヴァプールから出て来て、まもなく音楽史にその名を記そうとしていたが、ハングリーな目をした、ひょろっとしたくしゃくしゃ頭のスウェーデン人が音楽界をかき回すまでには、それから20年の歳月を要した。音楽業界によりイングヴェイ・J・マルムスティーンが正式に見出され、音楽の神童が生み出されるための環境が成熟する1983年以前のことだった。

軍の司令官だった父と、芸術的自由な精神の持ち主だった母が離婚したのは、イングヴェイが生まれてからまもなくのことだった。母リグモア、姉アン・ルイーズ、そして兄ビヨルンから成る家庭で甘やかされた末っ子のイングヴェイ(母親によると、昔の恋人の名にちなんで命名された)は、乱暴で手に負えない子供で、「何でもひどく強暴なもの」を非常に喜んだ。音楽、特にギター・プレイは弱虫たちのためのもので、幼いイングヴェイとは無縁のものだった。最初はピアノやトランペットのレッスンを受けてみたものの長続きはせず、5歳の時に母親が買ってくれたアコースティック・ギターは、手付かずのまま壁にかけてあった。それが1970年9月18日、ギターの破壊主義ジミ・ヘンドリックスの特別追悼番組をテレビで観た時、イングヴェイの心に炎が燃え上がった。フィードバックの嵐でオーディエンスを圧倒し、ギターを炎の犠牲にしたヘンドリックスを、7歳のイングヴェイは畏敬の念で見つめていた。ジミ・ヘンドリックスが死んだ日に、ギター弾きイングヴェイが生まれたのだ。

彼の強烈な好奇心と執拗さをまずは古いモズライトに、それから安物のストラトキャスターに向けたイングヴェイは、ディープ・パープルといったバンドの音楽にのめり込み、長い時間をかけてギターと音楽両方の秘密を解き明かした。クラシックに影響されたリッチー・ブラックモアのプレイを崇拝したことで、姉の指導により、バッハ、ヴィヴァルディ、ベートーヴェン、そしてモーツァルトといった原点に戻って行った。巨匠たちのクラシックのストラクチャーを吸収して行くうちに、イングヴェイの驚異的なスタイルが形成されて行った。彼は毎日何時間もプレイを続け、ギターに覆いかぶさり眠ってしまうこともたびたびあった。

10歳になり母親の旧姓を名乗ることになったマルムスティーンは、全精力を音楽に注ぎ込み、あまり学校へ行かなくなった。学校ではトラブルメーカーとしての烙印を押されることがたびたびあり、「愚かな振る舞いをした」とされる連中とケンカすることがよくあり、彼が興味を示した英語と美術の2科目に長けていた。彼の類稀な音楽的才能に気づいた母親は、彼がレコードとギターに囲まれた生活をすることを許したので、彼のギターの腕は何にも邪魔されずに上達して行った。しかしながら、クラシック音楽の形式ばったストラクチャーと、燃えるようなヘンドリックスのパフォーマンスをつないだのは、もう1人の巨匠で19世紀のヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニの音楽だった。ロシア人ヴァイオリニスト、ギデオン・クレーマー演奏によるパガニーニの「24のカプリース」をテレビで観たイングヴェイは、クラシック音楽に対する愛情と、芽生えてきたギターの技及びステージ上のカリスマ性をどのように融合させれば良いのか、遂に理解したのだった。

●イングヴェイのトレードマーク・スタイルの誕生
15歳の頃には、学校の廊下をバイクで突っ走るといったふざけた行為をやってのけていたことから、学校に彼の居場所がなかったことは明らかだったので、彼は退学した。しばらくの間ギター修理店でリュート製作の仕事をしていた彼は、その木工技能を大いに利用した。17世紀のリュートがその店に入荷した時、彼は初めてスキャロップ・ネックと遭遇した。ネックの木材が削り取られることによって出来た尖端がフレットを形成していた。それに魅せられたイングヴェイは古いギターのネックを同様の方法でスキャロップにし、その結果に十分に満足したのでさらに上等なギターでも試してみることにした。通常のネックよりもスキャロップ指板の方が幾分弾くのが難しかったが、弦に対するコントロールがかなり向上していたため、イングヴェイは自らの機材を永久にそのように改造しておくことに即座に決めた。

この頃、マルムスティーンはその炸裂するギター・スタイルを中心としたいくつかのバンドでプレイするようになり、ABBAによるお決まりのポップ・ソングに慣れ親しんでいたスウェーデンの一般リスナーの耳と忍耐力の両方に対し、その長いインストゥルメンタルを探求することで挑んだ。18歳になると、成績優秀により将校用の人材として軍は彼を入隊させようとしたが、兵役に就くくらいなら死んだ方がいいと言明したため、彼はさっさと追い払われた。イングヴェイは本気で音楽に戻ってきた。ライジング・フォース初期の頃、イングヴェイとその友人達はスウェーデンCBSのために3曲入りのデモをレコーディングしたが、リリースされることはなかった。失意に陥ったイングヴェイは、スウェーデンにいるだけでは埒が明かないことに気づき、外国のレコード会社や音楽関係者にデモ・テープを送りつけるようになった。そのうちの1本がギター・プレイヤー誌のライターであり、シュラプネル・ミュージックの創始者であるマイク・ヴァーニーの手に渡った。イングヴェイは、シュラプネルの新人バンド、スティーラーのレコーディングに招かれた。そしてその後については、周知の事実だろう。

●イングヴェイ初のレコーディング契約 ロン・キールを中心としたスティーラーのデビュー・アルバムは典型的なヘヴィ・メタルで、今や伝説となったイングヴェイによる「ホット・オン・ユア・ヒールズ」の無伴奏のイントロ・ソロが主として思い起こされる。このアルバムがカルト・ファンのお気に入りになった頃には、イングヴェイは既にシンガー、グラハム・ボネット率いるレインボー風バンド、アルカトラスに加入していた。アルカトラスは、「クリー・ナクリー」「ジェット・トゥ・ジェット」そして「ヒロシマ、モナムール」といった、イングヴェイによる最も煽動的なソロ・プレイを生み出しはしたものの、あまりにも幅が狭すぎるということも立証されたので、進むべき明確な道はソロ活動しかなかった。

イングヴェイ初のソロ・アルバム『ライジング・フォース』(今やネオクラシカル・ロックのバイブルとされている)は、ビルボート・チャートの60位に食い込んだが、ラジオでかかることのない、大半がインストゥルメンタルのギター・アルバムとしては感動的な偉業だった。またこのアルバムでイングヴェイは、グラミー賞のベスト・ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス部門にノミネートされた。じきに様々な栄誉が転がり込んできた。いくつかの読者人気投票で彼はベスト・ニュー・タレント(ベスト新人)、翌年にはベスト・ロック・ギタリストに選ばれ、『ライジング・フォース』は年間ベスト・アルバムとなった。イングヴェイと長年の友達であるイェンス・ヨハンソンによる、ギターとキーボードの驚くべき掛け合いで拍車がかかったライジング・フォースは、コンサート・サーキットをどんどんこなし、そのおかげでイングヴェイはロック・ギター界の最も輝ける新人スターの地位に着き、ネオクラシカル・ロックという新たなジャンルが音楽の辞書に加えられた。

イングヴェイのネオクラシカルな楽曲は、1986年のアルバム『トリロジー』において新たな極致に達した。これは今日尚、歌詞の内容からも音楽のパフォーマンスからも彼の好きなアルバムだ。この時点で、ギター・テクニックと作曲におけるイングヴェイの影響は紛れもなくなっていたが、並み居るクローンやマルムスティーンかぶれ連中は、ユニークな彼の音楽ヴィジョンを理解せずに彼のスタイルだけをコピーしようとした。イングヴェイの音楽性が欠如したクローンたちは、ただただ腕のいいタイピストのようで、遂にはネオクラシカル・アプローチにネガティヴな影を落としてしまうこととなった。

翌年の1987年6月22日、24歳の誕生日を迎える直前、イングヴェイはもう少しで大惨事という車の事故に遭った。その際の衝撃で脳に血の塊が出来、それが右手に通じる神経を傷つけてしまった。1週間近い昏睡状態が続いた後、イングヴェイは意識を取り戻したが、ピッキングする方の手が全く役に立たないことを知るだけだった。これでキャリアが終わってしまうかもしれないことを恐れた彼は、苦しみながらも手が動くようになるためにセラピーを始め、傷ついた神経が元に戻るようもどかしく思いながら待っていた。危険な状態から脱してからまもなくして、彼の人生最大のインスピレーションであった母親が、癌のためにスウェーデンで亡くなったことを知った。さらに面倒なことに、山積みになった医療費の請求書を前に、財政上の問題で彼は事実上一文無しだった。ほとんどの人がしたであろう、完全に諦めることの代わりにイングヴェイは立て直し、今一度音楽に救いを求めた。

その結果が『オデッセイ』だった。これはイングヴェイの好きなアルバムであるのみならず、そのとっつきやすさと幅広いオーディエンスへのアピールという点で大いに評価された。ヒット・シングルとビデオ「ヘヴン・トゥナイト」のおかげで、イングヴェイは初めて自分の曲がラジオでかかりまくることを味わい、アルバムの売り上げはアメリカでゴールド・ディスク寸前まで行った。元レインボーのヴォーカリスト、ジョー・リン・ターナーをフロントマンに迎えた『オデッセイ』ツアーで、イングヴェイは向上心に燃えるギタリストだけではない、新たなオーディエンスと接することが出来た。1989年2月にはソビエト連邦でショウが行なわれ、モスクワとレニングラードの両方で革新的なソールドアウト・コンサートが続けて行なわれた(これはボン・ジョヴィのモスクワ・ピース・フェスティヴァルに先立つこと半年近く)。後にゴールドを獲得したビデオ『ライヴ・イン・レニングラード/トライアル・バイ・ファイアー』が収録された最終パフォーマンスの後、バンドのメンバーはそれぞれの道を行き、ライジング・フォースという名前は永久に退いた。

●イングヴェイ新バンド結成
新たなキャリアの局面を迎えたイングヴェイは、スウェーデン人の友人たちから成るバンドを組んだ。リード・ヴォーカリストの座を射止めたのは、元ジョン・ノーラムのシンガー、ヨラン・エドマンで、その多彩なテナーは大変な労力を要するイングヴェイのメロディにも容易に適応した。その他の座は、シンフォニー・オーケストラのベーシストのスヴァンテ・ヘンリソン、経験豊富なスタジオ・キーボーディスト兼アレンジャーのマッツ・オラウソン、そしてドラマーのマイケル・フォン・ノリングという、スウェーデン国外ではそれほど知られていないけれども、類稀な音楽的才能のミュージシャンたちで埋められた。新ラインナップによるファースト・アルバム『エクリプス』では、イングヴェイがそのクラシカルなスタイルを損なうことなく、ラジオ向けのとっつきやすい楽曲を作るのが出来ることが立証された。困ったレコード会社、ポリグラムが十分なプロモーションを行わなかったためにアメリカでの売り上げは伸びなかったが、日本とヨーロッパでゴールド及びプラチナ・ディスクを獲得したことで、ライジング・フォースを後にしたイングヴェイの決断が正しかったことが証明された。

不満が募ったイングヴェイはポリグラムを離れる決心をしたが、それは決して友好的な別れとは言えないものだった。イングヴェイがよく言っていたように、彼の人生は常に「火と氷で、すごく良いかすごく悪いかのどちらかで中間がない」ようだ。ポリグラムとのネガティヴな関係が解消されると、事態は好転してきた。新マネージャー、ナイジェル・トーマスがイングヴェイのために一生懸命仕事をしたので、1991年3月にイングヴェイはエレクトラ・レコードと契約を交わした。

イングヴェイのエレクトラ移籍第一弾アルバム『ファイアー&アイス』には、完璧にノン・コマーシャルに戻った彼の最高の楽曲が収められていた。アルバムでは彼自身の感情が燃えるように感じられる一方、彼のヒーローであるバロック時代の作曲家たちのクラシカルなストラクチャーが披露されている。このアルバムで、イングヴェイは遂にオーケストラとのレコーディングという長年の望みを叶えることが出来た。これは、バッハの管弦楽組曲第二番より「バディネリ」をアレンジしたものが「ノー・マーシー」に組み込まれているところと、「クライ・ノー・モア」のクラシックにインスパイアされたソロ・ブレイクで実現している。その楽曲とパフォーマンスが絶賛された『ファイアー&アイス』は、日本で初登場1位に輝き、リリース当日に10万枚以上を売り上げた。アルバムは、ヨーロッパとアジア諸国でゴールド及びプラチナ・ディスクを獲得した。

不幸にも、ニュー・アルバムの発展は1993年、4年間イングヴェイのマネージャーを務めてきたナイジェル・トーマスの死により阻まれた。同年、エレクトラはイングヴェイとの契約を切り、また彼は突拍子もない事故で右手を骨折した。8月には誤認逮捕の犠牲者となり、国際的ニュースとなった。9月になるとイングヴェイに対する告訴は全て取り下げられ、10月には手が完治した。日本のポニー・キャニオンと契約を交わし、新シンガーのマイク・ヴェセーラ(元ラウドネス)、ドラマーのマイク・テラーナ(元トニー・マカパイン)、キーボーディストのマッツ・オラウソン、そしてベースにイングヴェイという面々による本格的なレコーディングが進められた。その後、ツアー用ベーシストとしてバリー・スパークスが選ばれた。

●新たなキャリアの局面を迎える
ニュー・アルバム『セヴンス・サイン』は、日本で1994年2月18日にリリースされた。生々しく、アグレッシヴなパワーを持ったこのアルバムは、即座に初期の作品『マーチング・アウト』と比較された。早くもインターナショナル・チャートの1位に輝いたこのアルバムは、日本ではトリプル・プラチナと認定された。CMCインターナショナル・レコードがヨーロッパとアメリカのディストリビューションの権利を獲得し、世界中に向けてニュー・アルバムのプロモーションを精力的に行なった。『セヴンス・サイン』に伴う日本ツアーはソールド・アウトとなり、その後イングヴェイはヨーロッパとアメリカのクラブでプレイした。新レーベルのCMCは、イングヴェイのコアなファンを建て直し、ニュー・アルバムがラジオで流れるよう精力的に活動した。アメリカは、”グランジ”の人気のためにまだまだ難しいマーケットではあったが、日本とアジア諸国では『セヴンス・サイン』はイングヴェイのその他全てのアルバムの売り上げを上回った。

9月と10月に、ポニー・キャニオンは『パワー・アンド・グローリー』(イングヴェイによるプロレス・チャンピオン高田のテーマ収録)と『アイ・キャント・ウェイト』(未発表の2曲と武道館でのコンサートからのライヴ音源をいくつか収録)という2枚のミニ・アルバムをリリースした。武道館でのライヴの日本ヴァージョンがコンサート・ビデオという形でリリースされ、ワールドワイド・ディストリビューションはCMCが行なった。1年近くロードに出ていたイングヴェイは1994年11月にツアーを終え、待ち望んでいた休みを取った。

次のアルバム『マグナム・オーパス』で仕事は始まり、1995年6月にポニー・キャニオンからのリリースが予定された。ディストリビューション能力不足を理由にCMCと袂を分かつことに、イングヴェイとマネージャーは同意し、マスター・テープがポニー・キャニオンに発送されるや否や、ヨーロッパ/アメリカでの新レーベルとの契約交渉が始まった。

『マグナム・オーパス』に伴う日本ツアーは1995年9月に行なわれ、空前の17都市を廻り、それまでの最大動員数を記録した。そこからバンドは2ヶ月間のイギリス及びヨーロッパ・ツアーへ向かった。ツアー中、マイク・ヴェセーラが風邪をこじらせ気管支炎を患ってしまったため、5回分のライヴを休まないといけなくなった。コンサートは予定通り行なわれ、イングヴェイ自身がシンガーの役を受けて立ち、彼の声域に合った曲を起用した。マイクはドイツでバンドと合流し、その他4バンドと共にフェスティヴァル形式のミニ・ツアーに参加したが、その中にはヴェテラン・メタル・アンドのサクソンも含まれていた。その年の暮れ、ツアーは成功のうちに終わり、バンドは休養を取るためにそれぞれの道を進んだ。

●イングヴェイ、自らのルーツの曲をレコーディング
1月になると、イングヴェイはジョー・リン・ターナー、ジェフ・スコット・ソート、デヴィッド・ローゼンタール、マルセル・ヤコブ、そしてマーク・ボールズといった何人かの旧友やミュージシャンを呼びつけ、新プロジェクトに取りかかった。子供の頃に聴いていて自分のプレイと曲作りに影響を与えた曲をレコーディングしたいという望みが、長年イングヴェイの脳裏にはあった。もちろんそれは、ディープ・パープル、レインボー、U.K.、カンサス、スコーピオンズ、ラッシュ、そしてジミ・ヘンドリックスの曲のことだった。昔の仲間と共に、ヨハンソン兄弟がドラム・トラックやキーボードの一部を担当して行くうちに、アルバム『インスピレーション』が具体化して行った。4月中旬には、テープのマスタリングが行なわれ、アートワークが依頼された。日本人アーティスト、ヨダ・アサリによる絵には、アルバムでカヴァーされたバンドの数々を表わすヴィジュアルな要素がフィーチュアされていた。『マグナム・オーパス』時のラインナップが解散し、ほとんどのプレイヤーが別のプロジェクトへと移行していたため、イングヴェイはこれまで彼が一緒にやってきたのと同じくらいタイトでパワフルなツアー・バンドを召集した。キーボードにマッツ・オラウソン、ベースに『ライヴ・イン・レニングラード』時のヴェテランのバリー・スパークス、『トリロジー』のヴォーカリストのマーク・ボールズ、そしてオジー、ホワイトスネイク、そしてパット・トラヴァースといったバンドの類稀なるドラマーのトミー・アルドリッジだった。南米は、新ラインナップが初めて攻めて行くところで、毎晩ひどく興奮したブラジル人やアルゼンチン人の集団が大きなコンサート会場を埋め尽くしていた。ツアーは衰えることを知らずにアメリカ、日本、そしてヨーロッパと続き、猛突進するイングヴェイのメロディック・ハード・ロックというブランドが死んでいないばかりでなく、新たな命を見出したことが証明された。

イギリスとヨーロッパで12回近いギター・クリニックを行ない、1996年12月に『インスピレーション』ツアーは幕を閉じた。自分のヒーローとの和気あいあいとしたイヴェントに対するファンの反応がとても良かったので、今後もそういったことをもっとやるとイングヴェイは約束した。長年の友であるイギリスのウリ・ジョン・ロートのもとに、短期間ではあるが滞在した後、イングヴェイは次のスタジオ・アルバムと同時に、待望のエレクトリック・ギターとオーケストラのためのクラシック作品に取りかかった。

●ファンが待ち望んでいたクラシック作品が現実のものに
スタジオに何ヶ月もこもり、集中して作業を行なった末に、イングヴェイは初の完全クラシック作品『エレクトリック・ギターとオーケストラのための協奏組曲 変ホ短調、作品一番』を1997年6月に制作した。プラハに飛んだイングヴェイは、先だって創立100周年を祝ったばかりの、かの名高きチェコ・フィルハーモニック・オーケストラと共演した。アトランタ・シンフォニー・オーケストラの指揮者、ヨエル・レヴィに指揮棒を振るってもらった3日間の集中レコーディングで、自らの作品をフル・シンフォニー・オーケストラとレコーディングするというイングヴェイの夢は現実のものとなった。その驚くべき結果を切望していたファンが聴くまでには、1998年まで待たないといけなかったが、それでもファンは気にしなかった…その多くは、1984年のイングヴェイのデビュー・アルバム以来ずっと待っていたのだから!

その勝利に落ち着く間もなく、イングヴェイは1998年のスタジオ・アルバム『フェイシング・ジ・アニマル』の最後の仕上げに取りかかった。ドラムには他ならぬコージー・パウエルを迎えて。情熱と暗く垂れ込めた強烈さに煽られた『フェイシング・ジ・アニマル』は、評論家からも大半のファンからも、マエストロによる久々の強力な作品であると高く評価された。日本以外ではマーキュリーによりディストリビューションが行なわれたおかげで、イングヴェイは当初のプロモーション・サポートを得ることが出来、アルバムに伴う数々のインタビューをこなした。

●父親になったこと、そして人生におけるその他の変化
1998年3月6日、イングヴェイの人生において極めて重大な出来事が起こった。第一子、アントニオ・イングヴェイ・ヨハン・マルムスティーンが誕生したのだ。しかしながら、イングヴェイと妻のエイプリルには、両親という新しい役割に慣れる暇などほとんどなかった。かなり前からブッキングされていたツアー日程を、遂に履行しないといけなかったからだ。というわけで、生後3週間にして、幼いアントニオは初めてのパスポートを取得した!エイプリルとイングヴェイにとっては幸いなことに、彼は父親同様ロード生活向きだったので、飛行機、汽車、バス、そしてタクシーで移動中もずっと機嫌が良かった。

しかしながら、息子の誕生を祝っていたイングヴェイは、悲劇的損失にも対処しなければならなかった。『フェイシング・ジ・アニマル』ツアーに出かける準備をしていたまさにその時、イギリスで起こった恐ろしい悪夢のような車の事故が、コージー・パウエルの命を奪い去った。動揺はしたものの、続ける決意をしたイングヴェイは、ツアー用ドラマーとしてヨナス・オストマンを起用し、一行は日本、南米、そしてヨーロッパとイギリスへ向かった。ブラジルでいくつかのソールドアウト・ショウをやっている間、新しいコンサート・ビデオとCDが収録され、単純に『イングヴェイ・マルムスティーン・ライヴ!!』と命名された。

1999年初め、彼は次のロック・アルバム『アルケミー』に取りかかった。1999年9月にリリースされたこのアルバムは、イングヴェイのコアなファンがずっと待ち望んでいた、最もヘヴィな弾きまくりのルーツとテーマに戻る、というものを多々与えることとなった。このアルバムについてイングヴェイはこう語った、「コマーシャルな価値など考えずに、自分のプレイが出来る限りエクストリームになるようなアルバムを作りたかったんだ。歌詞は、レオナルド・ダ・ヴィンチといった、俺にとって最も興味のある題材を使って書いた。」イングヴェイは説明する、「このタイトルにしたのは、’アルケミー(錬金術)’が科学と魔法が交わるところだからだ。レコーディング・プロセスの科学と音楽の魔法がごっちゃになっているのさ。」この”ライジング・フォース”のサウンドとアプローチに戻ったことで、イングヴェイは『トリロジー』のシンガーのマーク・ボールズを起用したが、マークは要求された以上のことを成し遂げ、『アルケミー』のためにイングヴェイが採用したオペラ風ヴォーカルをしばしば披露した。アルバムには驚くべきグラフィック・デザインも採用された。通常の”フォトブック”CDライナー・デザインとは異なり、トータルなデザイン・コンセプトとして各曲に別々のイラスト・パネルが取り入れられた。『アルケミー』は新ミレニアムに向けてのイングヴェイの”ギター宣言”として歓迎され、またしても”目覚しい発展”を遂げ、後続のために輝かしい足跡を残した彼は、次のキャリアの局面へと向かった。

●自身でのセルフ・プロデュース
ヨーロッパ、アジア、UK、そして南米でのロック・ツアーの日程に加え、2001年後半には絶賛されたあの『エレクトリック・ギターのための協奏組曲』をイングヴェイがパフォーマンスする初の機会が与えられ、東京では新フィルハーモニー交響楽団との共演を行なった。この革新的なパフォーマンスのDVD/CD/VHSパッケージが2002年1月に出て、イングヴェイのその年初のリリースとなり、『協奏組曲』共演の数々のオファーがその他世界中のオーケストラから舞い込んだ。2002年9月、イングヴェイは強力な曲と弾きまくりのアルバム『アタック!!』をリリースし、ドゥギー・ホワイト、ミック・セルヴィノ、パトリック・ヨハンソン、そしてデレク・シェリニアンというラインナップをフィーチュアした。2002年暮れから2003年にかけて、『アタック』ツアーには、(他の仕事があった)シェリニアンの代わりにヨアキム・スヴァルベリが参加し、バンドは日本、アジア、そしてヨーロッパでソールド・アウトの日程をこなした。
また2003年には、イングヴェイのマネージメントがドイツのレーベルSPVとの契約を手に入れたので、『アタック』に加え過去のアルバムも何枚かリリースされた。しかしながら、この年の最もエキサイティングな展開は、かねてからギター・ファンが待ち望んでいた夢の組み合わせ(サトリアーニ、ヴァイ、マルムスティーン)で、イングヴェイがかの有名な”G3″ツアーのラインナップに加わったということ。イングヴェイによるオール・インストゥルメンタル・ギグのラインナップは、『アタック』時のバンドからシンガーを抜いたものだった。

2005年には1枚のアルバムに18曲も収録された『アンリーシュ・ザ・フューリー』をリリース。長年のパートナーであるドギー・ホワイトのヴォーカルもイングヴェイのギターにマッチングしまくり完成度の高いアルバムに仕上がった!同年には来日卯公演ツアーも果たしイングヴェイ人気の底力を見せつけた!

●新たなヴォーカリスト、そして自身のレーベルを・・・
『アンリーシュ・ザ・フューリー』リリース後は自身のツアーも行う傍らG3の津兄も参加し続ける。そこで出会った新たなヴォーカリスト、ティム”リッパー”オーウェンズを新たなパートナーとして今作から迎え入れ、より強力なヘヴィ・メタル・サウンドに仕上がった。今作にはそのティムとも親交の深いロイZがエンジニアとしても参加。
今までのイングヴェイのアルバムとは違うダイナミックスさが加わったロック・アルバムだ!!!!

●アルバム:ライナー・ノーツより抜粋 *広瀬和生氏著
本作に関しては、自らのRising Forceレーベルからの第一弾アルバムだということも関係してか、ギリギリまで極端な秘密主義が貫かれていた。イングヴェイ側からの「アルバムは7月リリース」という情報が訂正されること無く、いつしかその7月を越え、8月になっても詳細が判らないまま9月に至り、10月になってようやくアルバムの音源とアートワークが届けられ、その時点でようやくアルバム・タイトルや曲名等の情報がもたらされたのである。

待ちに待った新作『PERPETUAL FLAME』は、ある意味「懐かしい」と言いたくなるほどイングヴェイらしさ全開のアルバムであり、掛け値なしに「これぞイングヴェイ」という作品だ。とりわけ、そのギター・プレイは聴き手を圧倒する迫力に満ちており、インスト曲も唯一無二のイングヴェイ”節”が堪能できる。といって、決してギターアルバムとしての正確に偏っているわけではなく、イングヴェイ自身が歌う”Magic City”、キャッチーな”Red Devil”等、ヴァラエティ豊かな内容で聴きどころの多い作品だ。待たせただけのことはある。

ドゥギー在籍時の作品においては、正直ある種のマンネリズムを感じさせる局面の多かったイングヴェイだが、リッパーという強力な武器を得て、新鮮さを取り戻したように僕には思える。イングヴェイの”新たなステージ”に掛かる期待は大きい。