エルヴィス・コステロ、ラスティ『ザ・レザレクション・オブ・ラスト』の全貌を語る

2022.07.20 TOPICS



 
2021年、リヴァプールのクラブ時代の古い仲間で歌のパートナーだったアラン・メイズが、テキサス州オースティンから手紙をくれた。

それは、1971年の大晦日のパーティーで僕らが出会い、その直後に僕が彼のバンド、ラスティに参加してからまもなく50年が経つことを、改めて教えてくれるものだった。

ラスティは4人編成。アランの学生時代の友人アラン・ブラウン(その年の暮れ、大学進学のために抜けるまでベースを担当)と、デイヴという名のヴォーカリスト(といっても、彼がシンガーを名乗れた主な理由はマイクとタンバリンを所有していたからだが)がいた。

1ヵ月後、かなりボロボロのギグを何度かやった後、ヴォーカリストはアランと僕の二人だけとなり、グループからタンバリンの姿は消えた。

かくもショー・ビジネスとは残酷なもの。

僕らの練習場所はウェスト・ダービーの僕の家の寝室、あるいはアランの父親が医師として働いていたウォルトン刑務所の裏にある彼の家。二人がそれぞれに持っていた、アメリカ音楽中心の似たようなアルバムの山の中から歌うべき曲を探し、ものにしようと練習を重ねた。

レパートリーの中には、“様々な色合いの紫色で書かれた歌詞を持つ”僕らのオリジナル曲もあったが、それらはニール・ヤングやヴァン・モリソン、ボブ・ディランの2曲(一つはザ・バーズによって有名になった曲、もう一つはザ・バンドのリック・ダンコとの共作曲)の陰に追いやられることがしょっちゅうだった。他にもランディ・ニューマン、ジョン・マーティン、サイケデリックなバンド、ヘルプ・ユアセルフの曲などあった。

始めたばかりの頃、僕らが挑戦したデュエット曲の一つにデヴィッド・クロスビーの名曲「木の舟」(原題:Wooden Ships)があった。アンプに繋いだHarmony社ソヴェレインのギターでよろよろとギターソロの海に漕ぎ出そうとする僕に、アランは冗談で「幸運のウサギの足のお守りを身につけてるか?」と聞いたものだ。

そんな中、僕たちの秘密兵器は、ニック・ロウがブリンズリー・シュウォーツで書いていた曲の数々だったが、それらはほとんど知られていなかったので、音楽に詳しくない者の中には、僕らが書いた曲だと思った者もいたはずだし、僕らもあえて誤解を訂正しなかった。キャバーンで演奏するためにブリンズリーがやって来て、初めてニックに会う頃までに、僕らはある意味、無給でニックの宣伝マン役を演じていたわけだ。

それからの1年ほど、ラスティはマージー川両岸のフォーク・クラブやパブで演奏したり、ハロルドとシルヴィアのヒキンズ夫妻が主催する詩の夕べで朗読の合間の音楽を演奏したり、ボールド・ストリートにある英国空軍クラブの“孤独な心の集い”で、参加者の皆が真剣な話をするバックでBGMを提供した。

地元の人間からは、語呂合わせで “鳩に餌やりするマリア”Mary Feed The Pigeonsと呼ばれていたカトリックの女子校 “扶助者聖マリアMary Help Of Christians(キリスト教徒を助けるマリア)校” では、演奏をしたものの金は一銭ももらえなかった。ジョン・レノンが通ったクオリー・バンク高校では、ナチュラル・アコースティック・バンドの前座を務め、かつてチャールズ・ディケンズが公開朗読会を行ったセント・ジョージ・ホールの小さなリサイタルルームでは、アイルランド人デュオ、ティル・ナ・ノーグの前座を務めた。その翌日、僕は降しきる雨のビッカーショウ・フェスティバルに出かけたのだが、ぬかるみに立ったままグレイトフル・デッドを観るうちに、塹壕足の一歩手前まで行ってしまった。

カントリル・ファームでの結婚式のバンドという悲惨な結果が待ち受けるブッキングを受けてしまった時には、急遽ドラマーを雇い、チャック・ベリー・ナンバーの即興メドレーでその場を凌がねばならなかった。

近くのウィドネスのパブで金曜の夜のレギュラーバンドだった時は、10代の女の子たちからスレイドやT・レックスのヒット曲をリクエストされ、彼女たちのマーク・ボランへの飢えを癒そうと、リンディスファーンの曲を演奏した。ポップ・チャートに入っていた曲、という点では少なくとも一緒だ。

すべては修行なのだ。稼ぎはすべてアランのフォード・アングリアのガソリン代に消えた。それすらだめになると自分たちの音楽の夕べを開いていたが、ヤンキー・クリッパーの火曜日の僕らの客が一晩中ビール1パイントで居座るため、バーテンの給料にも電気代にもならないことに店主が気づき、僕らはより安全な避難港を求め、テンプル・バーに追い払われることになった。

それでも、1972年の夏には週5、6回の演奏をこなしていた。僕はまだ学生で、大学入学レベルの資格をとるために勉強しているはずだった。就職後は、コンピューター・オペレーターのシフト勤務に合わせて、ラスティのライヴの予定を組まなければならなかったが、1973年初め、僕はまだ見ぬ何かを探し、長く曲がりくねった道を歩み始るべく、リヴァプールを離れる決心をする。

アランに一緒に来ないかと誘ったが、僕は父と暮らすことになっていたし、彼には安定した仕事があった。おそらく、お互い一人でいる方が身軽に遠くまで旅ができると僕は思ったんだと思う。

アランは常に僕よりうまくて見栄えのするパフォーマーだった。僕はといえば、その頃から“雨ざらしの芋の袋のように”不恰好だった。僕が町を離れた後も、彼は地元のクラブ・サーキットで演奏を続け、シヴィアド・ヘッドというグループを引き継いだのち、レストレスに改名。1975年にはマージーサイドからロンドンのパブ・サーキットに殴り込みをかけ、僕がセミプロ・バンド、フリップ・シティで出ていたのと同じ会場で、同じ週に演奏したこともあった。80年代初めにはソロ・アルバムを1枚録音。その後は世界中を旅し、太平洋のクルーズ船やアラスカの石油労働者が集まるバーで演奏したりしていたが、今はテキサス州に落ち着き、人々から望まれる他人の曲を、力強い真実の声で歌っている。

出会ってから50年以上、常にアラン・メイズは働き者のミュージシャンだった。

だから、この記念の年を祝って、昔やっていた曲を何曲か一緒に演奏しないか?と彼に言われた時、僕は言ったんだ。

「だめだ、絶対に!」

「そんなんじゃなく、もしそうさせてもらえてたなら、僕らが18歳の時に作ったであろうレコードを作ろう 」

それが、『ザ・レザレクション・オブ・ラスト』だったというわけだ。

このEPに収められたのは、1972年にクラブで演奏していたレパートリーの新録音だ。僕らがデュエットで歌う、1972年のニック・ロウの曲「サレンダー・トゥ・ザ・リズム」と「ドント・ルーズ・ユア・グリップ・オン・ラヴ」の他、ニール・ヤングの「エヴリボディ・ノウズ」と「ダンス・ダンス・ダンス」を1曲にアレンジしたラスト曲で僕は、レコーディングで初めてエレクトリック・ヴァイオリンを弾いた。

中でも特に僕が気に入っているのは、アランが熱唱する「アイム・アヘッド・イフ・アイ・キャン・クイット・ホワイル・アイム・ビハインド」だ。これはアレサ・フランクリンやP.J.プロビー、ボビー・ウーマックにヒット曲を提供したケンタッキーのソングライター、ジム・フォードのペンによる曲だ。

ラスティ初期のオリジナル曲のほとんどは、古いノートに書き込まれた歌詞の形でしか存在せず、曲の方はとっくに忘れ去られていた。しかし、僕が17歳の時から、その後に行なったギグのほぼすべてで演奏していた「ウォーム・ハウス」のデモのオープンリールが残っていたため、ここではヴォーカル&マンドリンに駆り立てられるバンドによるフル・アレンジが実現した。

驚くべきことに、アランは僕らが出演した会場の全記録を残した、古い学習帳をまだ持っていた。『ザ・レザレクション・オブ・ラスト』のアルバム・スリーブには、当時のフライヤーやポスター、ライヴ情報誌、日記の記述がコラージュで飾られているが、そこに混じって学習帳に記録されたセットリストの一部もある。この学習帳は僕たちのささやかな収入を記した帳簿の役割も果たしており、それによれば、コックニー・レベルの前座を務めたラスティとしての最後のギグでは、17ポンドという最高額のギャラを手にしている。だが大抵は1回やって数ポンド。“支払い額ゼロ”なんていう気が滅入る数字もちらほらある。

2曲目のオリジナルは二人の共作で、売れないキャバレー・アクトを描いた「モーリーン&サム」だ。ヴァースをほぼ伴奏もなく歌うのはアランで、ブリッジになると僕がディストーションをかけたエレキギター、ピアノ、ベース、ドラムと共に入ってくるが、この部分はすべて僕が一人、セントリー・サウンドの地下で録音した。

この曲の主題を聴き、僕が1980年に「ゴースト・トレイン」として書き直し、“Sam”を”Stan”に変え、全く別のメロディに新しい歌詞で録音した曲と同一であることを、熱心なリスナーなら気づくかもしれない。

今回も二人の声が重なった瞬間、アランと僕は再発見した。これこそ10代だった僕らに、世界をーーあるいは、少なくともウィドネスをーー征服できるかもしれないと確信させた、二人にしか出せない歌声のブレンドだ。そしてラスティを21世紀に蘇らせるべく、僕らはジ・インポスターズの才能を借りた。さらに僕らの古い仲間であるボブ・アンドリュースに、ブリンズリー・シュウォーツのショーストッパー、「サレンダー・トゥ・ザ・リズム」で彼の代名詞であるハモンド・オルガンとピアノのパートを再演してもらえたのは嬉しい限りだ。

このセッションは、今日日のセッションのほとんどがそうであるように、バンクーバーのセントリー・サウンドとテキサス州オースティン、ニューメキシコ州サンタフェ、それとカリフォルニア州ロサンゼルスを、音楽による電信の魔法で繋いで行なわれた。
『ザ・レザレクション・オブ・ラスト』はエルヴィス・コステロとセバスチャン・クリスによるプロデュースである。

翻訳:丸山京子