BIOGRAPHY

DANA GLOVER


青い目のソウル・シンガー、ダナ・グローヴァー。アメリカ南部出身のシンガー・ソングライターは「わたしは自分の音楽に、わたしが南部出身だとわかる様なエッセンスを入れたいの」と言う。「でも聞いて育ったのはゴスペルとオールド・スクール・ソウルなのよ」。

彼女の語る様に、真実のダナ・グローヴァーはその名も『テスティモニ』(証言)というタイトルがついたアルバムに表れている。
「『テスティモニ』ってタイトルのアルバムを発売する夢を見たの」「目が覚めても物凄く鮮明でハッキリとしていて、どんなアルバムの内容かわからないけど、とにかくタイトルだけが決まっていたの」

“証言”という言葉が表す意味は法的に使用されるばかりではない。信じる心を試す意味をも反映する。ゴスペル色たっぷりのアルバム1曲目「レイン」は天国 に登るような調子。「”レイン”はこのアルバムの方向付けの中心となる曲だということを確信していたわ。この曲を書いたときに、何かを感じたわ」 彼女のティーンエイジはNYで生活しモデル活動をしていた。将来有望なダナであったが、やはり自分の目差すものは音楽に携わること。その後ナッシュビルや ロサンゼルスを渡り歩いたが故郷のロッキー・マウンテンとは常に繋がっていたかった。「南部の生活様式で教会が生活の一部のように育ったのよ。よくそこで 楽器を演奏したわ」

彼女は特にミュージシャンとしての教育を受けていたわけではなかった。耳で覚えてピアノの鍵盤を叩いていた。「もし勉強してたら、もっと上手くなってたと思うわ。でも耳で覚えたまま演奏する方がずっと楽しいわよ」サクソホーンまでも独自で学ぶ。
勿論血筋の問題でもある「母がわたしに大きな影響を与えたのよ。彼女がピアノを弾きながらわたしを育てたようなものね。わたし達家族は小さいころからみんなハーモニーをしていたわ。」事実ダナの弟もプロのミュージシャンだ。

「小さいころはTVを見ながら、ホイットニー・ヒューストンやジョージ・マイケル、アレサ・フランクリンに憧れていたわ。そしてラジオでマライア・キャ リーの声を聞いたときは本当に衝撃が走ったわ。きっと彼女もわたしと同じような環境で音楽を聞き、同じスタイルの持ち主だって思ったから」 

「わたしにとってゴスペル音楽はとってもカッコイイものよ。わたしはとにかく心の底から歌い上げているヴォーカリストに惹かれるの。ザ・ワイナンズをずっ と聴いてたわ。とにかくいてもたってもいられないくらい興奮するの。近所の教会から聞こえてくる黒人のコーラス合唱もよく聞いていたわ。死ぬほど感動する のよ。だって真実なんですもの。」

ロッキー・マウンテンを後にしたのち、彼女の音楽に対する芽が伸び出した。ノース・キャロライナのアッシュビルに引越した14歳のときだ。「この町でとて もポジティヴに、大きく成長した気がするの。音楽的なアイデンティティーを身につけたのもこの時期よ。わたしは無邪気なティーンエイジャーだったけど、音 楽がわたしの真実の愛であることを悟ったのよ。」ターニング・ポイントは’80年代にとあるタレント・ショーで「セント・エルモス・ファイアー」のサック ス部分を一人で演奏したとき。観客との一体感を身につけ、音楽で生きていこうと確信したとのこと。

その後この町を出て、両親の離婚を経験。「わたしのママは凄いわ。家族の唯一のロックンローラーよ」
この頃からモデルを始めた。しかしミュージシャンの夢は捨てきれなかった。16歳で単身でNYへ引越し、マンハッタンで生活を始めたダナ。「家族と離れ、 世界観が変わったわ。ミュージシャンとしての考えが大きく幅広くなった感じだったわ」「ミラノで生活したときは人に対する見方が変わったわ。価値観も違っ てきた気がしたの」

NYにいたときダナは自分らしいサウンドを見つけたと言う。「電車に乗ってよくブルックリンの合唱団を聴きに行ったわ。凄く感動したの。情熱を掻き立てら れたわ。」18歳でナッシュビルに旅立ち、そこでピアニストとして生活を始めた。友達に勧められて歌を書き始める。「彼はわたしがわたしであるように背中 を押してくれたわ」。

しかしカントリー・ミュージックに興味が沸かないダナ。兄弟達がLAに引っ越すときにダナもついて行った。
「カリフォルニアが適した場所かどうかはわからなかったけど、ナッシュビルは明らかに違っていたことはわかっていたの。もともとノース・キャロライナは 違ったし、NYからも出てきてしまったわけだから、残すところはLAしかなかったのも事実なのよ。確信は何一つ無かったけど、なんとなく合ってるかもって 思ったわ」

LAでダナは音楽活動を行い、いろいろなアーティストのデモ作りのために歌っていた。まもなく現在のマネージャー、アラン・ミンツと出会う。「彼はわたしの音楽にとても精通してたわ。なんでも自分が聞いて育った音楽に近いものを感じるって言ってたわ。」

アランはレコード会社の上層部用のショーケースを設定し、そこでドリームワークスのジェアード・レヴァインに見初められる。「あの時はジェアードとアラ ン、他2名の前で演奏させられたの。まるで拷問だったわ。メチャメチャ緊張したんだもの」この演奏を気に入ったジェアードが同レーベルのロビー・ロバート ソンに持ちかけ、めでたく契約となった。「わたし実はあまりロビーのことを知らなくて・・・。ザ・バンドの曲は数曲知ってるけど、でもよくはわからない の。でも先入観無くして付き合えるのでそのほうが良かったかも。彼もアーティストだからわたしの立場をよく理解してもらえると思うので」

ダナはこれまで『ウエディング・プランナー』のサントラの「プラン・オン・フォーエヴァー」と言う曲に参加したり、『シュレック』のサントラ収録曲の「イト・イズ・ユー・アイ・ハヴ・ラヴド・オール・アロング」に歌詞を提供したり、自身のアルバム以外にも活動している。

また、ダナのデビュー・アルバムにはノー・ダウトの大ヒット・アルバム『トラジック・キングダム』のプロヂューサーだったマシュー・ワイルダー(他にもクリスティーナ・アギレラ、ナタリー・インブルーリア等を手がける)を起用。
マシューとのレコーディングについて「わたしのスタイルを尊重してくれて家族の様に接してくれたわ」とコメント。

「わたしは初めてトレイン「ドロップス・オブ・ジュピター」をラジオで聞いたときに速攻ジェアードに電話したわ。それで留守電だったから、受話器をラジオ に近づけてその曲を留守電にいれたの。で、これよ、これなの。こんなストリングスのサウンドが欲しいわ」って言ったの。で、同じアレンジャー、ポール・ バックマスターと仕事が出来たのよ!」エイブ・ラボリエル父子との共演も素晴らしかったとのこと。レコーディングが終わっちゃって、悲しくて泣いたほどら しい。

マシュー・ワイルダーとの仕事の中でダナを驚かせたのは「レイン」という曲。ダナは常にもっとアップ・テンポで演奏していたのに、マシューの手に掛かった ときに、スロウ・ダウンされた。マシューいわく、ゆっくりとした曲であると、その歌詞にもっと注目が注がれるから、というマシューの意見にダナも共感。さ すがの一言だったのこと。

マシューはダナのピアノ演奏をも引き出した。マシューに大きく影響を与えたピアニスト、エルトン・ジョンやビリー・ジョエル、レオン・ラッセル等が持っているパワーと同じエレメンツをダナのアルバムから引き出すようなプロダクションに仕上げている。

『テスティモニ』は心から湧き上がった音楽で、そのままのサウンドに仕上げてあるの。これを聞けばわたしがどういう人物かって直ぐにわかってもらえると思うし、真実が伝わると願っているわ」