ジョージア州出身の白人の子供がラップを作るなんていうのはまるでハーレム出身の黒人の子供がカントリー・チューンに胸を躍らせるというのと同様のイメージがある。しかしインタースコープ/ビート・クラブからリリースされたデビュー・アルバムからのファースト・シングルとなるババ・スパークスの「アグリー」を聴いたらそんなステレオタイプな先入観をぶち壊されることになる。それと同時にどうして今まで南部出身の白人でこれだけのラッパーが出てこなかったのかということの方が不思議に思えてくる。
ティンバランドによるプロデュースの6曲 (ミッシー “Misdemeanor” エリオット、Jay-Z, Nas, リュダクリス、スヌープ・ドッグなどで知られる) が収録されたババのデビュー・アルバム『ダーク・デイズ、ブライト・ナイツ』は2002/10/5にインタースコープ傘下のティンバランドのビート・クラブ・レーベルからリリースとなった(日本盤リリース2002/1/23)。

「アグリー」もティンバランド・プロデュースの1曲でラフなエッジの利いたアップ・テンポでミドル・イースト・テイストを感じる曲だ。この曲でサンプル使用されているのはミッシー・エリオットのヒット曲”Get Ur Freak On,” で、ババ・スパークスは自身のスタイルをニュー・サウスと名付けている。
“こんなに惹かれるレコードは初めてだって自分でも思う。” ババは言う。
24歳、6フィート、220ポンドの彼は元高校フット・ボール界のスターだ。
“これ以上のものはないって言うくらい明確な個性が出てるんだ。”

シングルもアルバムもリスナーをババの世界へと引っ張っていく。南部の田舎の貧しい環境を間近に見て育った白人視点を鮮明に描き出していく。 アルバム全編に渡ってババの南部、特に田舎へのリスペクトが強く感じられる。
“サザン・ヒップホップ。ヒップホップを特に強調してる。ロックン・ロールのエッジも利かせてさ。”
彼は自分のスタイルをそう表現する。


ババ・スパークスはウォーレン・アンダーソン・マティスとして1977年3月6日、アトランタから65マイル離れたジョージア州のラ・グランジに生まれた。ジミーとジューンの間に生まれた5人の子供の末っ子だった。両親ふたりの過去の結婚での子供ではない、ふたりと血が繋がった唯一の子供だった。ジューンは食料品店のレジとして働いていて、末っ子の彼の事を”アンディ”と呼んでいた。父のジミーも同じ食料品店で働いていた。最初は食肉部門で包丁を握っていたが後に管理職まで昇進した。そして彼はスクール・バスの運転手やランス・ポテト・チップのトラックの運転手としても働いていた事があった。
“器用貧乏なタイプだったんだよな。” ババは言う。
ババの人生において音楽は1988までは重要なものではなかった。
“田舎で育ったからあんまり情報もなくて接する機会がなかったんだ。” 彼は言う。
“ケーブルTVもなかったし、俺が育ったのはラ・グランジから更に荒野を北に15分も走った所だったし。極め付けの田舎って感じだったね。隣の家まで1キロくらいっていう。その隣の家の子っていうのが黒人で、俺のラップ初体験はそれがきっかけだったんだ。彼のいとこがNYからよく、編集したテープを送ってくれてたから。”

ババが初めて聴いたラップ・トラックは 2 ライヴ・クルーだった。それから彼はラン-DMCやファット・ボーイズへと興味を移していく。ババが特に傾倒して行ったのは西海岸のラッパー達、N.W.A,、Too $hort そしてイージー-Eなどだった。
“やっぱりあの反逆的なアティテュードがツボにハマったんだと思う。それとビートも好きだったし。” ババは言う。
“確かドクター・ドレーの最初のプロデュース作品だったと思うんだけど、あんなにビートが強調されてたのは聴いた事がなかったよ。”
Too$hortによってラップの世界に引き込まれたババがラッパーになったきっかけはアトランタのグループ=アウトキャストからのインスピレーションだった。


15歳の時ババは暇を見つけてはライムを書きはじめる。
“そんなに大変じゃなかったよ。” ババは言う。
“家の手伝いをしたり、他にも出来る仕事は何でもやってたんだけど。”
ババはカフェテリアでも、体育の授業中も、放課後もライムを書いていた。
“そんなに真剣にやってたつもりはないんだけどなにしろド田舎だったから他にやる事がなくてね。俺の学校でラップやってたのは他に2~3人いた程度だったかな。そんな環境だったから俺達はいつもラップに飢えてたんだ。”

高校時代のババの生活の中心となったものはフットボールだった。彼はラ・グランジのトゥループ・ヴァレー・ハイ・スクールのラインバッカーとしてタイトにプレイし、2年生の時には彼のチームを南部のチャンピオンシップ出場に、そして3年生の時には南部で上位に入る程までに押し上げた。
ババの親友のスティーヴン・ハーンドン(Steven Herndon)は今ではデンヴァー・ブロンコス(Denver Broncos)の武闘派ガードとして有名だ。彼は95年にババと共に高校を卒業後ジョージア州アセンズに引越した。ババはその後コミュニティ・カレッジに進学したが、ハーンドンを訪ねた時に後に彼のマネージャーとなるボビー・スタンプス(Bobby Stamps)と知り合っている。

“彼に俺のラップを聴かせたんだ。”とババ。
“なんだか気が合ってね。それに彼はアトランタのジジャーメイン・デュプリのレーベル、So So Defの契約プロデューサー、 シャノン・フーチンズ(Shannon Houchins)とも知り合いでさ。”
フーチンズは96年の後半にババとコンタクトを取りSo So Def のラッパー=ジェイソン・ブラウンと引き合わせている。ババは当時リル・デヴィル( Lil Devil)という名前でラッパーをしていてふたりのグループ名は One Card Shiだった。ふたりは10~15曲もレコーディングをしたが何もリリースに至る事なく1998年に解散。失意のババはその後1年程ラップから遠ざかっている。
“あの時の俺は既成の型に自分からはまろうと努力してたんだ。”
彼はOne Card Shiでの自分を振り返って言う。

それから彼は気がついた。ババは自分らしさを追求するべきなのだと。彼独自のスタイル、そして彼とは何ものなのかを表現していくべきなのだと。
その時彼は”ババ・スパークス”となった。
“子供の頃は家族からよく “ババ”って呼ばれてたんだ。 “スパークス(Sparxxx)”っていうのはなんとなくキャッチーでいいなって思って。Xが3つもついててさ。”


’99年の初頭、ババは再びフーチンズとのレコーディングを再開する。当初は10曲が仕上がっていたがそこで彼等はフロリダ州サラソタのインディー・レーベルの老舗Newtowne Music Groupのダグ・ケイ(Doug Kaye)とコンタクトを取った。 ケイはババの作品を気に入り、すぐに12曲入りのインディー・バージョンの『ダーク・デイズ、ブライト・ナイツ』 をプレスした。リリースはババが共同運営するNoncents Recordingsからで、アルバムはたちまちアラバマ州、ジョージア州、フロリダ州のラジオを駆け巡った。売り上げは1,500枚に達し、それがきっかけでNoncentsはババとフーチンズ、そしてケイが運営する11th Hour Entertainmentへと転身する。


ババにとって大きな転機が訪れたのは『ダーク・デイズ、ブライト・ナイツ』がインタースコープのA&R、 ジェラルド・”リコ・スアヴェ”・メジアの眼に止まった時だった。彼はインタースコープ、ゲフィン、A&M会長ジミー・アイオヴィンの片腕の一人と言われている。アルバムはインタースコープに好意的に受け入れられババにはレコード・ディールが舞い込んだ。
“この時が俺にとって初めての飛行機の旅だったんだ。” ババは言う。
“2000年の8月1日。彼等は俺にオファーをしてくれて、それからは何がなんだか解らないような状況で総てが進んでいった。結局俺達は11のレーベルから11のオファーを受けたんだ。それでもインタースコープがベストの選択だと思えた。”
契約後、ババとジミーはティンバランドとプロデューサー契約を結ぶ。それがインタースコープ傘下の”ビートクラブ”の出発点となった。ジミーががティンバランドにババの音楽を聴かせたのがきっかけだった。

“ティンバランドは俺の曲を聴いてぶっ飛んだんだよ” ババは振り返る。
ティンバランドは彼にとって神様も同様の存在だ。
“これは俺の人生の中で最高に夢みたいな出来事だったね。”
ババは彼の偉大なるプロデューサーについてこう語る。
“彼と2週間一緒に仕事をしてみて改めで自己発見した部分がいっぱいあった。そう、彼はベストなんだ。それは抗い様のない事実。”

そして6曲になるティンバランド・プロデュースの曲を含めたインタースコープからリリースとなった『ダーク・デイズ、ブライト・ナイツ』はフーチンズ・プロデュースが5曲、 アウトキャストのオーガナイズド・ノイズ・プロダクション・チームのプロデュースが2曲、アトランタのプロデューサーKhalfaniが2曲、ジェラルド・”Geo” ホールのプロデュースが1曲フィーチャーされている。18曲から構成されるこのアルバム(日本盤は19曲)、 「アグリー」に続いて「ババ・トーク」がセカンド・シングルとして決定している。

ティンバランド・プロデュースの「ババ・トーク」はババの南部独特のスラング・ボキャラリーの小手調べ的な曲であり、彼のパーソナル・ライフを表現している曲だ。
“これが”ババ・スパークス”の等身大なんだ。”
ババはこの曲についてそう言う。カントリー・バンジョーが利いたスムースな曲だ。
その他にも特筆すべき作品は多々ある。フーチンズ・プロデュースの「ウェル・ウォーター」はスピリチュアルに南部の田舎で育つ白人の子供の気持ちを表現した曲等も際立った出来映えになっているし、「ババ・スパークス」はスクラッチが利いたトラディショナルなニューヨーク・ヒップホップになっている。そしてジャンル分けが出来ない、説明がつかない「ザ・ファースト・ウィッチャコーリト」はババの分身みたいなものだと言う。「ベティ、ベティ」はババ流の女性への賛美歌だ。
この曲はジョージア州アセンズのうらぶれたストリッパーについて歌っている。
“なかなか面白い常連の客達がいて、面白い女の子達もいて。面白い世界だったよ。” とババ。
“仕事が終わってやって来た土木作業員達、ジャンキーな女の子もいたし。”


ババは今プロモーション・ツアーやリリース・パーティーへの出席で多忙を極めている。
彼はそれを通してジャンルの壁を越えてラッパーにもロッカー達にもアピールしたいと考えている。
ババはそれを “大所帯での音楽の旅、音楽のサーカス(a traveling gaggle of musicians, a circus of music)。”と呼ぶ。


ババは今、この6年を過ごしたジョージア州アセンズから次のスターとなるべくチャンスを狙っている。
“目指しているもの、それは俺のヴァイブで世界とコミュニケーションすることなんだ。” ババは言う。
“それって今までにまったくない、新しい事だろう。きっとそれはヒップホップにとって新たな起爆剤になると思うし、そうすることによってヒップホップの寿命が更に10年延びる事になると思う。それと俺はみんなにたくさんの人生、生き方がある事、お互いの違いを認めてそれに感謝して行く事で共存していけるってことを知って欲しいんだ。アトランタは今急成長しているメトロポリスだ。南部だからって世界を後部座席に座って眺めている必要はないんだよ。”

 

オフィシャル・バイオフラフィーより 翻訳:栗原泉