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ソニック・ユース

サーストン・ムーア (Thurston Moore - guitar, vocals)
キム・ゴードン (Kim Gordon - bass, guitar, vocals)
リー・ラナルド (Lee Ranaldo - guitar, vocals)
スティーヴ・シェリー (Steve Shelley - drums)
ジム・オルーク (Jim O'rourke - etc... )

1981-1983年(『Noise Fest』、1stミニLP、『Confusion Is Sex』、『Kill Yr Idols』、『Sonic Death』)
 グループは、サーストン・ムーア、キム・ゴードン、リー・ラナルド、そしてドラムにリチャード・エドソンというラインナップで、1981年、ニューヨークのダウンタウンで始まった。アン・デマリニス(キーボード)は初期の頃短期間ながらプレイしており、1982年にZGマガジンが発表したカセット『Noise Fest』に収録されたバンド初のレコーディング作品にもフィーチャーされている。『Noise Fest』はニューヨーク・シティのアート・ギャラリーで開催され、サーストンはそこで9日間にわたる実験的ロック・ミュージックのキュレーターを務めた。アンが脱退したあと、リーが参加した。このラインナップで、ニューヨーク・シティのギタリスト兼作曲家のグレン・ブランカが設立したレーベル、ニュートラル・レコーズから1982年に発表されたバンド名をタイトルに冠した1stミニLPが作られた。そのあと、リチャードは映画スターになるべくバンドを去った。
 リーとサーストンは、1976-77年のニューヨーク・シティで、テレヴィジョンやパティ・スミス、スーサイド、ラモーンズetc.らの活躍を目の当たりにしていた。キムはロサンジェルスでヴィジュアル・アーティストとして勉強をしながら若きダービー・クラッシュやジャームスのリハーサル場所からほんのわずかのところに暮らしていた。彼女はニューヨーク・シティにやって来てサーストンに出会い、「ノー・ウェイヴ」と呼ばれる時代(1978-79年)にプレイを始めた。彼らはリーと合流し、さまざまなチューニングに改造された安ギターを使って歌を書いた。リチャード・エドソンが抜けてボブ・バートが入り、しばらくの間はジム・スクラヴノスが参加した。こうしたドラマーたちが1983年に、またしてもニュートラルから出たLP『Confusion Is Sex』のレコーディングを手伝ったのだ。
 ブラック・フラッグ、ミニットメン、ミート・パペッッツ、バットホール・サーファーズらを同期のバンドとして動き出したソニック・ユースは、ヴァンを購入、完全にラリっている小規模な観客の前でプレイしながら、1980年代の間ずっとアメリカ中をドタバタとツアーして回った。
 1983年初頭にヨーロッパをツアーしたときは、ボブ・バートがバンドと一緒に回った。彼らはドイツだけで『Kill Yr Idols』(ゼンソー・レコーズ)をリリースし、ヨーロッパ・ツアーの音源から『Sonic Death』という自主制作カセットを(今なお続いているサーストンのレーベル、エクスタティック・ピースより)発表した。

1984-1986年(『バッド・ムーン・ライジング』、『Flower/Halloween』、『EVOL』)
 特定のインディペンデント・レコード・レーベルにテープを送ったあと(思い出してもらいたいのだが、この時点でこうしたアンダーグラウンド・ミュージックを扱うところは多くなく、そのほとんどがイギリスに拠点を置いているようだった)、彼らはブラスト・ファーストというロンドンにある新しいレーベルから電話をもらった。そこには、サーストンがイン・リンボというバンド(ドラムのリチャード・エドソンとサックスのジム・スクラヴノスもメンバーだった)で一緒にやっていたリディア・ランチが所属していた。彼らはLP『バッド・ムーン・ライジング』をレコーディングし、ブラスト・ファーストがそれをリリースした。バンドに興味を持ったジェラルド・コスロイがホームステッドというアメリカのレーベルを立ち上げ、アルバムをアメリカでもリリースした。彼らはまた『Flower/Halloween』というタイトルの12インチもリリースした。そして、ロンドンに出かけてメチャクチャに大暴れした。当時、イギリスのシーンはエレクトリック・ギターの死をうるさく喧伝していたが、ソニック・ユースがニューヨーク流のやり方でアッと言う間にそんなコンセプトをぬぐい去ってしまった。彼らは新しいアメリカのアンダーグラウンドをさらに爆発的に認知させるべく、ビッグ・ブラックやバットホール・サーファーズをイギリスに連れてくるようブラスト・ファーストを説き伏せた。以来状況はガラリと変わったのだった。
 アメリカに戻ったものの、ボブ・バートが1984年のツアーから突然脱退してしまった(後にポスト・ソニック・ユース・ノイズのフリークス版、プッシー・ガロアに参加)。サーストンに自分のバンド、クルーシファックスやスパスティック・リズム・ターツのカセットを送ってきたミシガン出身のスティーヴ・シェリーが、参加の話を持ちかけられた。リーとサーストンはスティーヴがクルーシファックスと一緒にCBGBでハードコアの昼公演を行なったのを見て、彼こそ適任だと悟ったのだった。
 ブラック・フラッグはロサンジェルスにSSTというレーベルを持っていて、80年代半ばにはこれこそがアメリカ産アンダーグラウンド?インディ・ミュージックの最前線だと考えられていた。SSTは1986年にソニック・ユースと契約し、バンドはホームステッドを離れたものの、イギリスとヨーロッパではブラスト・ファーストにとどまった。ソニック・ユースは『EVOL』をレコーディングし、アンプをぶっ叩きながらアメリカのランドスケープとその神秘の探索を押し進めた。この時期、サブ・ポップ・レーベルは先見性に富んだコンピレーション盤『サブ・ポップ100』にソニック・ユースの「Kill Yr Idols」を収録した。

1987-1989年(『シスター』、『The White(y) Album』、『デイドリーム・ネイション』)
 1987年、彼らは『シスター』をレコーディングした__このLPは超非現実性と秩序の崩壊というテーマに触れていた。
 ノン・ストップでツアーしてきたあとで、彼らは立ち止まり、SSTを離れてエニグマ(現在は消滅)と契約を結ぶことにし、チッコーネ・ユースの名前で『The White(y) Album』をレコーディングした。このアイデアは、一時彼らの友だちとつき合っていたマドンナがタイム誌の表紙を飾るスーパースターになったという事実に端を発していた。それは、完全にスタジオ・ベースのイカレた音楽を作るという試みだった。マイク・ワットが、『バッド・ムーン・ライジング』のセッションに飛び入り参加したときにマドンナの「バーニング・アップ」のカバー・バージョンをレコーディングするというアイデアを持ち出しており、チッコーネ・ユースは代わりに「イントゥ・ザ・グルーヴ」(「Into The Groove(y)」として)をレコーディングしたのだ。しかし、マドンナとの戯れはそれでオシマイ(カバー・アートを別にすれば)で、セッションの残りにはすべて徹頭徹尾マシーン・グルーヴの精神が貫かれていた。
 そののちソニック・ユースは、1980年代に音楽面・歌詞面でバンドに起こったあらゆることを集大成した2枚組LP『デイドリーム・ネイション』をレコーディングした。彼らは世界中を絶え間なくツアーし、ソ連にまで足を伸ばした。
 10年目の終わりに彼らはブラスト・ファーストおよびエニグマと袂を分かち、メジャー・レーベルのゲフィンと契約した。バンドを見守っていた多くの人たちがこんなことは狂気の沙汰だと考えた。というのも、おそらくREMを別にすれば、大企業の音楽業界の領域内で成功したインディペンデントなアンダーグラウンド・バンドなど、歴史上まったくいなかったからだ。結局彼らが、オルタナティブが生まれるのを手伝ったことになる。

1990-1992年(『GOO』、『ダーティ』、『TV Shit』)
 1990年に彼らはLP『GOO』をリリースし、その夏を『ラグド・グローリー』ツアーでニール・ヤング&クレイジー・ホースと一緒にアメリカ中を荒らし回って過ごした。「オルタナティブ・ロック」や「グランジ」が国中を席巻し(ニルヴァーナが何十億枚ものレコードを売り、業界が革新的政策を採用した__わずかに、だが)、ソニック・ユースは1992年に『ダーティ』をレコーディングし、プリティ・ファッキング・ダーティ・ツアーで世界中を暴れ回った。そこから録られた12インチ・ライブ盤『TV Shit』がエクスタティック・ピースから発表された。

1993-1995年(『エクスペリメンタル・ジェット・セット、トラッシュ・アンド・ノー・スター』)
 ソニック・ユースはツアーにツアーを重ね、1994年に風変わりで、酔っ払ったようなLP『エクスペリメンタル・ジェット・セット、トラッシュ・アンド・ノー・スター』をリリースした。
 1995年、彼らはロラパルーザでヘッドラインを務め、REMとツアーした。

1996-1998年(『ウォッシング・マシーン』、『ア・サウザンド・リーヴス』、『SYR1,2+3』、『Silver Session (for Jason Knuth)』)
 1996年に彼らはテネシー州メンフィスの深南部でレコーディングされた『ウォッシング・マシーン』をリリースした。
 1997年、ソニック・ユースはスタジオを建て、第二回チベタン・フリーダム・フェスティバルでプレイし、リチャード・リンクレイターとエリック・ボゴシアンの映画『サバービア』のサウンドトラックをレコーディングした。また、自家製レーベルSYRで一連のEP(「Anagrama」、「Slaapkamers met Slagroom」、「Invito al Cielo」)をレコーディングした。この音楽は主にインストゥルメンタルで、荒々しい即興の瞑想と潜在意識下の想像力を掻き立てるかのようだった。この作品は1998年のLP『ア・サウザンド・リーヴス』につながったばかりか、自殺防止を呼びかけるためのベネフィットCD『Silver Session (for Jason Knuth) 』を生む助けにもなった。

1999-2004年(『NYCゴースツ&フラワーズ』、『Goodbye 20th Century』、『ムーレイ・ストリート』、『ソニック・ナース』)
 1999年の夏、ソニック・ユースは過去12年間以上にわたって開発してきたすべての代表的サウンド機材から解放された。彼らは家に帰って金槌と釘を手に取り、『NYCゴースツ&フラワーズ』というタイトルのLPの曲作りを新たに開始した。
 ジム・オルークがそのLPを手伝い、実際このときソニック・ユースと共にツアーにも出た。さらに、ベイ・エリア出身のパーカッショニスト、ウィリアム・ウィナントのインプットを得て、バンドは20世紀の新しい音楽の作曲家たち(ジョン・ケージ、ポーリン・オリベロス、クリスチャン・ウルフ、小杉武久、ヨーコ・オノ、スティーヴ・ライヒ他)へのオマージュとして『Goodbye 20th Century』という作品をレコーディングし、SYRからリリースした。彼らは拡大ラインナップでこれらの作品をプレイしながらヨーロッパ全土をツアーした。ジムは結果的にLP『ムーレイ・ストリート』として発表された作品の作曲及びアレンジに参加し、さらには世界貿易センターの跡地の真ん中でオリヴィエ・アサイヤスの映画『Demonlover』のための音楽をレコーディングし、ずっとバンドと一緒に仕事を続けた。彼らは2002年春にロサンジェルスで行なわれたアメリカ初のオール・トゥモローズ・パーティ・フェスティバルでキュレーターを務め、その夏の間中ハードにツアーをした。バンドは2003年のコーチェラー・フェスティバルでふたたび顔を合わせ、ウィルコと共に短いツアーを行なった。それから、イギー・ポップ&ザ・ストゥージズの招きで一緒にいくつものギグをやってその夏を終えた。そして、情熱を注入された彼らは、2004年6月リリースのLP『ソニック・ナース』のために、最新のものすごいヤツをレコーディングしたのである。

2005-2006年(『ラザー・リップト』)
2005年はまず大好きな日本を訪れた後、ニューヨーク近郊でライヴ。その後LAで初めて開催されたAuthurfestで大はしゃぎ。『GOO』のスペシャル・デラックス・エディションをリリースし、ブラジルでフレーミング・リップスやストゥージズなどと一仕事をした後、ジム・オルーク氏が日本語と映画の勉強に専念することを決断。ソニック・ユースはキム/サーストン/リー/スティーヴという基本形に戻る。そのまま曲を書き、ジムが紹介してくれたエンジニアのTJドハティと、ダイナソーJr.のJマスシスが紹介してくれたミキサーのジョン・アグネロと共に、『ラザー・リップト』という妙なタイトルの作品に着手。実際のレコーディングは2005年暮れから2006年のはじめにかけて、ニューヨークの今ひとつ活気のないシアター街にある、シアー・サウンドという由緒あるスタジオで行われた。そしてミキシングは同スタジオと、ニュージャージーのホーボーケンにあるウォーター・ミュージックで。ジョン・アグネロの素晴らしい耳のおかげで、ソニック・ユースのポジティヴなヴァイブレーションを感じられる作品に仕上がった。12曲とも実に前向きで、ハーモニックでメロディックな驚きが満載。サーストン、キム、リーの3人がヴォーカル・パートを分け合い、そこにスティーヴのグルーヴが絡み合ってソニック・ユースのロックンロールは完成する。冒頭の「インシネレイト」からソニック・ユース節は炸裂、「リーナ」や「ドゥ・ユー・ビリーヴ・イン・ラプチャー?」など次々と強力なロック・トラックスがたたみかけるようにおそってきて、最後は不思議な「オア」でしめくくられる。ストレートなソニック・ユース。火のついたソニック・ユース。ロックンロールの喜びをコンパクトに教えてくれる『ラザー・リップト』は、確かにすこしばかりキレている。