BIOGRAPHY

VALERY GERGIEV ワレリー・ゲルギエフ
 (マリインスキー劇場(キーロフ劇場)芸術監督兼総裁)


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“ゲルギエフはその肩に不釣合いといえるぼど多くの音楽面での責務を担っている。ソビ工ト連邦崩壊後マリインスキー劇場を存続させてきたという業績で、彼は国民的ヒーローとも言える存在である。彼の指揮のもとに、マリインスキ一劇場は世界で最も名高く、記録に残るオペラ・カンパ二一となったのである。”
‐ザ・ニューヨーカー紙(1998年4月)

 彼はキーロフ・オペラ/バレ工との仕事に年間250日を費やしており、1997年以降メトロポリタン・オペラの首席客演指揮者、ロッテルダム・フィルの首席指揮者でもある。これらは彼の西側諸国での最初のポストであるが、世界でも第一線のオーケストラと数多くの共演をおこなっている。さらに彼にはウィーン・フィルとの仕事が増えており、数多くの音楽祭の芸術監督等も務めている。その中にはコーカサスの平和のためのフェスティバル、フィンランドにおけるミッケリ音楽祭、イスラエル、工イラートにおける紅海音楽祭、ロンドンでのキーロフ・シーズン、ロッテルダム・フイル・ゲルギエフ・フェスティバル、そして勿論サンクトペテルブルグでの白夜祭がある。1999年は、30枚ものアルパムを発表したフィリップスの専属アーティストとしての10周年に当たる。この超人的レベルの活動にもかかわらず、彼のレコード化された作品はどれもみなワレリー・ゲルギエフの活動力と創意に満ちたものである。ファイナンシャル・タイムズの言葉を借りると、「何もかもがゲルギエフの自発性に富んだアドレナリンの例に倣っている」のである。

  オセチア(コーカサスの中心地)出身の両親のもとに1953年にモスクワで生まれ、コーカサスで育った彼は、イリヤ・ムーシンの指導のもとレニングラード音楽院に学ぷ。当初はピアニストとしての教育を受け、23歳の時にヘルベルト・フォン・カラヤン指揮コンクールへの参加の切符を手にする。その2年後に彼の’ファミリー,となるキーロフ歌劇場において芸術監督・指揮者の座に就任。1988年、キーロフ劇場(オペラ・バレ工)の芸術監督に就任してからというもの、この歴史と伝統あるキーロフ劇場を世界の頂点へと押し上げ、今や世界で最も注目されているインターナショナルな歌劇場へと甦らせた。

 ワレリー・ゲルギエフは1988年35歳の時に、オペラ・カンパニーの芸術監督・首席指揮者に選出され、1996年にはロシア政府によりオーケストラ、オペラ、パレエ全てにおいて総括指揮権を与えられた。彼の’任務’はマリインスキ一劇場を世界でもナンパー・ワンのものにするということであった。10年前には彼は西側諸国ではほとんど知られていなかったが、今日では全世界のベスト・オーケストラ、オペラ・カンパニーによって実際に必要とされている第一線の指揮者とみなされている。だが彼の動機は常に変わることがない。すなわち、人々にサンクトペデルブルグ、マリインスキー劇場を誇りに思わせることである(彼はその道は緻密に絡み合っている、と考えている)。その数多い芸術的業績により、マエストロ・ゲルギエフは多くの肩書きや賞を与えられているが、その中にはロシア

人民芸術家の称号(1996年)、ロシア最優秀音楽家賞(1994、1999年)も含まれている。また、1999~2000年の年明けにはアルメニア共和国政府による最高の賞、Mesrop Mashtots Orderを受賞。2001年には”Grand Ufficialeal Merito”の階級で、イタリア政府から贈られる最高賞を受賞した。

  ワレリー・ゲルギエフは、多くの国際フェスティバルの創作者、芸術監督である。ミッケリ音楽祭(フィンランド)、ロッテルダム・フィル・ゲルギエフ・フェスティバル(オランダ)、紅海国際音楽祭(イスラエル、エイラート)、キーロフ・シーズン(ロンドン)、コーカサスの平和のためのフェスティバル(ロシア、ウラディカフカ)がその代表である。マリインスキー劇場においては、ガリーナ・ゴルチャコワ、オリガ・ボロディナといった多くのワールド・クラスの歌手を排出している。だが、彼の最高といえる音楽業績は、とりわけロシア人作曲家作品のレパートリーの幅を広げ、新風を与えたことであり、この点で彼は他の20世紀後半の指揮者たちと一線を画している。プロコフィエフを熱愛している彼は、「(プロコフィエフは)無視され続けてきていた」と考えている。1999年の白夜祭ではゲルギエフは歌劇《セミヨーン・コトコ》の新演出を舞台に上げたが、このオペラ作品はスターリンによってイデオロギ一的に疑わしいとされたため、ぽとんど上演されたことがなかったものである。ゲルギエフが望んでいたことは、音楽は政治的主旨をも覆すことが可能であるということを実証してみせることであり、そのような作品はロシアの歴史の一部分であったことを強調することであった。聴衆はこれを大いに気に入ったのである。

  ムソルグスキー、チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチらによる大作オペラは、今やレパートリーとして名を連ねており、ストラヴィンスキーのパレエもそれに加わりつつある。今ではゲルギエフがオーケストラを再建し、その評判をも取り戻したので、彼はかつて無視されていた西側諸国の作品を取り入れるようになっている。彼の最大の業績の一つに挙げられるのが、80年ぷりにロシアで公演されることとなった1997年の《パルジファル》の上演である。2000年にはマリインスキー劇場においてワーグナーの《二一ベルングの指環》の新たな演出を開始したが、これもロシアのカンパニーによる上演としては初めてのものであった。メトロポリタン歌劇場での彼のデビューは、プラシド・ドミンゴを迎えての《オテロ》の新演出で、その後《スペードの女王》、《ボリス・ゴドウノフ》、《ホヴァンシチナ》の上演を同歌劇場でおこなっている。

 1998~99年のシーズンには、ゲルギエフと彼のカンパニーにとって記念となる節目がいくつか重なった。マリインスキー劇場に加わって20年、芸術監督となって10年、フィリップスでの初レコーディングから10年を迎えたのである。フィリップスーマリインスキー盤は、言うなればカンパニーの様子を鏡に映したようなものであった。オーディオ、あるいはピデオという形で、ほとんど全ての主要なプロジェクトがレコーディングされたのである。ディスコグラフィーには1990年代初期に2つのプロジェクトが見られるが、これらはカンパニーとそのレパートリーに影響を与え続けているもので、サンクトペテルブルグの音楽的遺産の巨匠リムスキー=コルサコフとプロコフィエフに捧げられたフェスティバルである。リムスキーの2つのオペラ《プスコフの娘》と《サトコ》は既にカタログに掲載されているが、今年《見えない町キーテジと乙女フェブローニャの物語》、《不死身のカスチェイ》、《皇帝の花嫁》に加わることになっている。また、現在発売されているプロコフィエフの3つの作品(《修道院での婚約》、《炎の天使》、《戦争と平和》)に、第4作《賭博師》が間もなく加えられる。

さらに《ルスランとリュドミラ》、《イーゴリ公》、《ホヴァンシチナ》、《ボリス・ゴドゥノフ》の両バージョン、《スペードの女王》、《マゼッパ》、《イオランタ》を含むロシア・オペラの作品は、フィリップスーマリインスキー盤のなかで最も重要なリリ一ス作品の中に挙げられることを売り物にしている。それと同様に重要であるのが、ヴェルディの《運命の力》のサンクトペデルブルグ・パージョンのオリジナルとしての初レコーディングである。《眠れる森の美女》、《ロメオとジュリエット》はこの共同制作品の初期の成果である。1988年の《くるみ割り人形》と《火の鳥》(スクリャーピンの「プロメテウス」とのカップリング)のリリースは、マリインスキー・バレ工におけるゲルギエフの新たな責務を反映している。

  ワレリー・ゲルギエフは、ここ数年マリインスキー劇場にて公演されたプレミア作品《ラインの黄金》、《戦争と平和》、《ドン・ジョヴァンニ》、《サロメ》、バレエ作品《くるみ割り人形》に関しても、全責任を持って監督及び指揮をした。

劇場人としてのゲルギエフの力量はこれらの録音作品に顕著であるが、彼のオーケストラでの仕事も同様に重要である。彼はボロディン、グリンカ、ハチャトウリアン、リャードフ、プロコフィエフ、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、チャイコフスキーらの作品を録音しているが、これらは主にマリインスキーのオーケストラを率いたもので、いくつかはロッデルダム・フィルとの共演によるものである。1999年には、ゲルギエフが指揮するウィーン・フィルの1998年ザルツブルグ音楽祭でのライヴ録音によるチャイコフスキーの交響曲第5番がリリースとなった。

ニューヨーカー紙の記事は、ワレリー・ゲルギエフの魅力と彼の実り多い発表作品の意義を証明するのに一役買っている一「ゲルギエフは、彼がよくそうするように、より奥深いものに触れている。彼と同世代の他の指揮者らは、自己認識的な個人的解釈によって、名を馳せてきた。ゲルギエフは、本能的な感情の激発、音との共同的祝賀を作り上げている。彼は音楽の情感的な構造のアイディアを形にし、本能的に生命をもたらすことができるのである。」

 

マリインスキー劇場資料より