Digital Mini Album『BOARDING PASS』全曲セルフライナーノーツを公開!
Digital Mini Album『BOARDING PASS』全曲セルフライナーノーツを公開!
【00. BOARDING PASS】
お恥ずかしい話、僕はまだ飛行機に乗った事が無いです。
出身は新潟の森の端、もはや中と言っても過言では無い程の田舎です。唯一の飛行チャンスだった修学旅行もコロナと時期が被って白紙に。ショックの余り、紙飛行機にして飛ばしたら沖縄に着いていたかもしれません。
高校を卒業後、その慣性に乗ってズルズルと地を這って東京へ。瞬く間に時が経ち、気が付いたらこのEPが完成間近でタイトルを付けるタイミングとなってました。
そうして、この曲達を思い返した時に僕は感じました。これは‘自分を作り終えた人′が作ったEPではなく‘自分を作っている人′が作ったEPだったのだと。これから僕が音楽を続ける中での中核になるのだと。そして、これから飛行機に乗って旅立つ為の大事な、大事な搭乗券、即ち‘BOARDING PASS′になるのだと。
曲単体の気持ちは一つ一つ別に書いたので気が向いたら読んでいただけると幸いです。編曲、その試みとしては今のDTM世代である自分と各生楽器本来の美しい仕草を混ぜ合わせる事でした。最たる例には生楽器主体の楽曲、その楽曲自体のチョップがあると思います。
何はともあれ、次のEP?アルバム?がいつになるのかは自分でも分かりませんが、それが世に出るまでには飛行機に乗って何処か遠くにでも行きたいものですね。もしかしたら、喜びの余り月に着くかもしれませんが。
それでは是非、お楽しみ下さい。
【01.喩えて】
「〇〇みたいだな」僕は作詞中、よくそう考えたりします。
‘喩える′という行為は創作する人間にとって非常に身近に感じる行為でしょう。比喩表現は含みを生みます。間接的だからこそ、そこに情緒が、関係が、二人の日々が見えます。
僕は思いました。この‘喩える′事は相手を理解しなくては出来ない事だと。そして同時に、これを曲にしたいと。
ただ、制作は少し困難だった記憶があります。なぜなら、喩えるモチーフから曲が発展してゆくのが通常の流れだった中で今回の曲は‘喩える′がモチーフの曲だったからです。
‘喩える′=相手への理解、その未来には喜びも悲しみもあります。どちらをこの曲で語るのか悩んだ末、ふと腑に落ちた一節は、「貴方を好きでいるよりも貴方の好きでいる方が私は大切だった」でした。
理解が互いの未来を分かつ事も時としてあるでしょう。大事な事は‘相手の全てを理解する′など出来ないと理解する事。別れたからこその再会も、新たな出会いも驕りなく行きたいものです。
【02.ユダ】
「これは偶然なんかじゃない」時折、僕はそう感じます。
ただ、僕らは悲しい事に映画や小説、漫画の世界に生きている訳ではありません。必然的ではなく、運命的ではない。この世に起承転結、予定調和は仕込まれていないのです。
それなのに僕たちは出会いに必然を、別れに運命を何処か遠くにでも感じてしまいます。だからこそ逆に仮想の世界、曲の中に偶然を、‘ただの非日常′を描きたかったのです。
いつか現実は軽やかに別れを、そして裏切りを突き付けてくるのかもしれないです。そんな時に溢れた涙の着地点はきっと神様にさえ身に覚えがない。ただ一つ、その涙は‘誰かを愛した証である′それは確かな事なのだと僕は思います。
【03.メイラード】
「これは焼きすぎてしまったなぁ」自炊中、そう思う事が度々あります。
ただ、食べてみると一転、普段よりおいしかったりするんです。この現象の正体を今回、『フェルマーの料理』という作品から知り得る事が出来ました。
〈メイラード反応〉聞き慣れない単語だと思いますが、端的に言えば加熱により焼き色や香ばしさが付与される化学反応を指します。
僕が一瞥して‘焦げ’と軽断していたそれは料理をより美味しくさせていたのです。
愛読中、この〈メイラード反応〉という言葉に主人公である岳が重なりました。数学という道を挫折し、新たに料理へ先を見た岳。料理の世界に没頭する最中、苦悩や葛藤の縁で彼を助けるのもまた数学でした。岳の人生にとって数学は‘焦げ’だったのでしょう。
この楽曲を聴いて下さった方々にも同様に、‘悲しい過去は悲しさしか残さない′そんな事はないんだと心にそっと留めておいて欲しいです。
【04.Reverse】
「ただいま」「おかえり」そんな言葉を気張って言いたくないのが僕ら人間です。
家に帰って、ご飯を食べて、お風呂に入って眠る。そこに折り挟まる会話や動作、さらにその行間に見える二人の些細なズレはいつしかお互いを違うページへと追いやって行きます。決して嫌いになった訳ではない、一つ屋根の下で他人へと変わって行きます。
そんな‘よくある異常′は自分の為なのか、それとも相手の為なのか、それは分かりません。しかし、二人の為にはならない事が多い筈です。
幾百、幾千のページを捲るのは惰性からではなく、自分から心を持ってしたいですよね。
数えるのも億劫な日々の隙間にいつまでも‘素敵なお帰り′はいらないのです。言いたい事は全て吐いてぐっすりと夢の中へ、そんな日もあったっていいんじゃないでしょうか。
【05.ダサめのステップ】
「かっこ悪い」好ましく想っている相手からは聞きたくない台詞かもしれません。
働いて、働いて、働く。食う寝る所に住む所とはよく言ったもので、生きていくには自ずとそれらが必要になります。そして、その殆どが金銭によって賄われており、金銭を稼ぐ為に僕らは日々身を粉にして働いてます。
疲れて、疲れて、疲れ果てて、帰った先の貴方に格好をつけるのもそれはそれで一つの美しさではあるでしょう。ただ、もう一つの活路に目を向けてあげたくなりました。それがこの曲を生み出した理由でもあります。
互いにかっこ悪ければ、互いにダサければそれで良かったんです。家の中にまで、気にするルールや枷は本来ない。
貴方と間違って、貴方とぶつかって、そして貴方にもう一度一目惚れしたい。
帰宅して‘ダサめのステップ′を踏んで下さい。幼さを、拙さを二人で笑い合いましょうね。
【06.花札】
「春だ」「夏だ」「秋だ」「冬だ」季節には変わり目があります。
ゆったりと、滑らかに移りゆく景色を横目にそれでも僕らはある時ふと「春だ」と確信します。感情も同じです。四季折々な世界、その毎日を歩いてゆく途中でふと「幸せだ」と知ります。
僕がこの曲で語りたい事には捻りも意外性も、奇想天外な意見もありません。ただ‘ずっと隣にいたい′それだけなのです。それだけですが、よくよく考えてみるとそこには注ぎ続ける水が、飽くなき愛情が無くてはならないように感じます。
「単なる愛を掠れるまで」と言うのは簡単そうに見えてそれは中々難しい事のようです。
歩けば歩くほど平になってゆく人生の節目にふと貴方を見る。そして、そのそばで咲き誇っている花にまで目を向けれた時に初めて僕らは様々な色を、また歩き出す力を得るでしょう。
【07.オッドアイ】
「さよなら」から逃れる手段を僕らはまだ見つけられていません。
人間に限らず生命の多くはある種の‘別れ′から逃げる事は出来ないです。その最大たる壁が死別です。どんなに健康的に、気力的に生きていようが人はいつか死にます。
絶対的な別れ、何にも変え難く悲しい事です。それなのに僕らは出会う事をやめようとはしません。‘別れ′が見える中でそれでも誰かと居ます。それはきっと、光る上で影が立つ事の必然性、そして重要性に無意識下であれ気付いてしまっているからでしょう。一緒に居て嬉しいのは、日々が輝いているのは‘別れ′があるお陰なのだと。
喜びと悲しみは表裏一体、出会いと別れも同様に。二つの目に重なって見えるのです。
いざ、その日が来た時には僕らは結局どうしようもなく苛立ち、落ち込み、悲しんでしまうでしょう。
ただ、その後に‘別れ′を優しく受け入れて深く感謝を。目を閉じた貴方に「もういいよ」と、そっと言うべきです。
【08.モナリザ】
「いいな」それだけを言える心は片隅にだろうと残しておきたいものです。
創作をしていて常々思う事は得る知識があれば手に乗らず零れ落ちる感動もあるという事です。誰かの曲を聴いて「いいな」の一言だけで表す勇気が、思考回路が減り、理論や文化の扱い方、先進性や意味の入れ方が頭をよぎります。無論、そこに憂いや戸惑いはありません。自分には必要であり、これからも手を伸ばし続けるでしょう。
しかし、それ故に映画や小説、漫画、そして絵のような創作物に酷く焦がれてしまいます。無知だからこその高揚が、感動がそこにあります。であればその中の一つである‘絵′を音楽という自分のテリトリーに持ち込んでみたらどうなるんだろうと考えました。それがこの曲を生み出す原動力でした。
「モナリザ貴方は誰を見ていたんだろう」曲を完成させた後に感じましたが、そんな風に楽曲内で歌詞として絵の中に想いを馳せる無垢さが僕にもまだあったようです。そして、この二人には「モナリザよりも互いを見ていた」と言える程の純愛が。
僕は妄想します。音楽の中で生きている二人のどちらかがもしかしたら絵描きになり、相手を描きます。きっとそれはどんな時間が経っても何処かに残って行くんだろうなと思います。忘れられないその絵となって。