<連載>『パワー・トゥ・ザ・ピープル』各フォーマット詳細 第5回目

2025.09.22 TOPICS

『パワー・トゥ・ザ・ピープル』各フォーマット詳細紹介 第5回目

2025年8月14日に発売情報が解禁されたジョン&ヨーコ『パワー・トゥ・ザ・ピープル』(10月10日発売)。この作品はジョンとヨーコが1972年8月30日にニューヨーク/マディソン・スクエア・ガーデンで行ったライヴがフィーチャーされている。

第5回目はジョン&ヨーコのコメントを紹介します。

 
ジョン、ヨーコのコメント

“POWER TO THE PEOPLE(民衆に力を)” - ジョン&ヨーコ

 
ジョン・レノン:
マディソン・スクエア・ガーデンでの演奏はキャヴァーンやハンブルク以来、一番楽しめた。ザ・ビートルズとして音楽にのめり込んでいたころと同じような感覚になれたんだ。

面白いことに、俺はほかのどんな時期より、ザ・ビートルズが一大現象になる前のころのことをよく思い出すんだ。ハンブルクではこんなことをした、キャヴァーンではあんなことをした、ダンスホールではこんな風だったな、ってさ。あのころは単なる”エンターテインメント的なこと”だけをやったり、俺たちに求められるよく分からない役割をただ演じたりしていたわけじゃなかった。当時の俺たちは純粋に音楽をやっていたんだ。あの時期はそれが楽しかったし、記憶にもよく残っている。俺たちミュージシャンにとって何より大事なのは演奏することなんだ。

エレファンツ・メモリーとマディソン・スクエア・ガーデンで演奏して、あのころと同じ気持ちになれた。彼らはすごく良いバンドだよ。特にテナー・サックスのスタン・ブロンスタインは稀有な存在だね。個人的にはキング・カーティス以来、最高の名手だと思う。(72年に)ツアーをやろうと思ったのは、純粋に楽しむためだった。カネのためのツアーはしたくなかった。俺はその前にもアッティカの犠牲者遺族の支援ライヴでギターを持ってアポロの舞台に立ったり、ジョン・シンクレア・ラリーのステージに立ったりしていた。だからツアーに出て、音楽をやりたいと思った。きっかけはチャリティーでも、なんでもよかったんだ。それなのに連中は、俺を法廷に何度も引きずり出した――入国管理の問題でね。俺は舞台に上がって、気持ちよく演奏したいだけだった!力のあるバンドは誰の言いなりにもならないんだ!

オノ・ヨーコ:
ジョンと私は1972年、ジェラルド・リヴェラの胸を締め付けられるような調査報道を目にした。そこにはウィローブルック州立学校における劣悪な環境が告発されていた。それを見た私たちは使命感を抱いて、マディソン・スクエア・ガーデンで”ワン・トゥ・ワン”というチャリティー・コンサートを開催することにした。そうして1972年8月30日、知的障害を抱える子どもたちの生活環境改善を支援すべく、昼と夜に2公演を行った。

その報道を見たあと、私たちはしばらく何も話せなかった。あまりに酷い状況――本当に悲しい映像だった。私も子を持つ母だから、気持ちがよく分かる。あの施設にいる児童やその家族の心の痛みは、自分のことのように感じられる。私たちは多くのことを先延ばしにし過ぎたと思う。そして、何かを変えたいと心から願えば、実際に変化をもたらせると思う。共有したこの苦しみに対して、何か行動を起こす必要があった。

ジョンはいつも「いいかい、俺は30歳を過ぎてもパフォーマンスしているような下らない人間になるつもりはない。ステージに上がって<I Wanna Hold Your Hand(抱きしめたい)>を歌うなんてごめんだ」と言っていた。とはいえ彼は30歳になっても演奏をしていた。しかもこのときは誰かの役に立つ大義があったから、彼も使命感を持っていた。

ジョン・レノン:
重要なことだよ。俺たちが少しでも彼らの役に立てるなら、それだけで一歩踏み出せたことになるだろう?俺たちも力になりたかったんだ。俺はまだ「イマジン」の成功の波に乗っていたし、やる曲には困らなかった。でも「カム・トゥゲザー」で会場が沸いた瞬間、みんなが何を聴きたがっているのかよく分かったんだ。

左派の連中は、民衆に力を与えようと言う。でもそれはナンセンスだ――民衆にはもともと力があるんだから。俺たちがやろうとしているのは、民衆に力があることをみんなに気づかせて、暴力的な革命に意味はないと分からせることなんだ。俺たちが伝えたいのは、気に入らないことをやめさせる力が人びとにはあるってことだ。戦争はその最たるものだね。一部の革命家グループによって民衆に力が与えられるなんて話はまったく下らない。民衆にはもともと力がある――それを俺たち自身が忘れてしまうなら、誰が忘れずにいられるっていうんだ?そのことを一番声高に叫んでいるのが俺たちなんだから!

オノ・ヨーコ:
1969年のトロント・ピース・フェスティヴァルを皮切りに、ジョンと私はロック・コンサートにいくつか出演した。それは愛と平和のメッセージを届けるためであり、色々な社会問題への関心を効果的に集めるためだった。だからそれらのコンサートの出演料は受け取っていない。収益は全部、それを必要としている人たちに寄付していた。

72年には、ベトナム戦争に対する反戦運動が最盛期を迎えていて、女性解放運動も広がりを見せ始めていた。コンサートで披露したのは主に、その年の春にリリースしたアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』の収録曲だ。これはベルトルト・ブレヒトのように、政治的なメッセージを歌にした作品だった。

マディソン・スクエア・ガーデンでライヴをやったころ、私たちに対する圧力はかなり高まっていた。だからいまになって、なぜあのときマディソン・スクエア・ガーデンのステージに立ったのだろうと考えると、実に私たちらしい答えに行き着く。

愛、である。

ジョンは愛の力をよく理解していたし、それと同じくらい不正や偽善を嫌っていた。

ジョンは、助けを必要とする人に手を差し伸べること、自分の手に入れた情報を世界中に広めることをいつも大切にしていた。つまり、真実を広めるということだ。人間社会における問題であれば、彼はどんなものでも関心を向けた。彼は”ブルー・ミーニーズ”たちが私たちやこの世界にどんな害を及ぼしているか、隠すことなく語った。でもそれには代償が伴った。そのせいで彼は事あるごとに攻撃対象にされた。それなのに彼は驚くほど、そして危険なほど正直な発言を続けた。彼は言いたいことをありのままに話すことに取りつかれていた。その話しぶりは簡潔で力強かった。

 ”Gimme Some Truth(真実が欲しい)”――それが彼の信条だった。

 コンサートの会場は、仲間同士の愛に満ち溢れていた。私たちは”You are the Plastic Ono Band(あなたもプラスティック・オノ・バンド)”のスローガン通り、観客にタンバリンを配った。最後には、みんなをステージに上げて「平和を我等に」を歌った。終演後には、興奮を抑えきれない観客たちが「平和を我等に」を歌いながら5番街を練り歩いていた。

舞台裏に行くと、車が用意されていた。私たちはその車に乗って「やったぞ!大成功だ!」と言いながら抱きしめ合った。分かるかしら(笑)?とても素敵な時間だった。

このコンサートは、私たちの”草の根政治”の取り組みの一環だった。あれは、ジョンと私が強く信じていた”平和と啓蒙のためのロック”を体現したものだった。そしてあのマディソン・スクエア・ガーデン公演は、ジョンと私が一緒に演奏した最後のコンサートになった。

“Power To The People(民衆に力を)!”


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