

GARY LIGHTBODY INTERVIEW 13NOV 2009
<取材:高野裕子>
――『アップ・トゥー・ナウ』は素晴らしいベスト・アルバムですね。現在所属するレーべルの作品だけでなく、インディー時代やレインディア・セクション時代の曲も入った、あなたの歩みを総ざらいした深い内容ですね。
実はね、選曲はメンバーそれぞれが入れたい曲のリストを作り、それを見て会って話し合い決めたんだ。驚くことに全員のリストが非常に似通っていたんだよ。違ったのはほんの数曲だけだった。
――どうしてだと思う?
多分、初期のころはあまり良い曲がなかったから(笑い)最近はもっと曲の質が向上しているけど。だから古いアルバムの選曲は皆が同意した。最近のアルバム
のヒットは顕著だから、また皆が同意したし。そこに面白いカバーを付け加えたんだよ。スノー・パトロールの歴史と言える内容だよ。単なるベストアルバム
じゃないんだ。
――バンド活動を始めたのは94年ですよね。
そうだね。
――まさか毎日過去を振り返るようなことはないと思うけれど、こうやっていったんここで15年を振り返ってみた感想は?
確かに、振り返ったことはなかった。僕ら常に未来に目を向けてきたから。新曲、次のポロジェクトetc。だから1枚目2枚目のアルバムなんてずっと長い間
聞いたことがなかったんだ。ちょっと立ち止まって振り返るって、良かったね。プラス、新曲を入れるのも重要だった。『アップ・トゥー・ナウ』というタイト
ルが示すように、ここでおしまいなんじゃなくて、これからも続くよっていう意味がこめられているんだ。
――ポリドールと契約するまでの下積み生活は大変だったようですね。家賃が払えなかったり、自分のレコード・コレクションを売って生計の足しにしたり。苦難を乗り越えてやってこられた秘密は?
自分では幸運だったと思うよ。でも僕らひとりぼっちじゃない。僕らと似たような苦労をして現在に至ったバンドが幾つかいる。数は少ないが。インディーと契
約して、そこから解雇され、メジャーに移る。まれなことだよね。15年の殆どのキャリアは陰の時代だった。似たようなバンドは、例えばエルボウ。ここ数年
やっとレコードが売れるようになって。こんなにゆっくりと時間をかけて成功に至る、ってまれだよね。その秘密は、やっぱりメンバー同士が愛し合っているか
らだよ。簡単なことのように見えるが難しいんだ。5人の男が毎日顔をあわせて生活するって。僕らツアーが終わった2日後には、また一緒にパブに行ったりす
るんだよ。僕ら真の意味で友達なんだ。それは多くのバンドがメンバー同士会話も交わさない、なんて話も聞くからね。僕らだって喧嘩はするが、常に話あうよ
うにしている。問題は解決できてる。
――さてはじめてブレイクしたアルバムが『ファイナル・ストロー』。最後の頼みの綱、っていう意味のタイトルも可笑しいですね。あれで駄目なら、あきらめるつもりだったんですか?
笑い。ほんと、最後の頼みの綱だったのは事実だよ。今振り返れば可笑しいけれど、当時は可笑しくも何でもなかった。あそこで泳ぐか溺れるかの境界線だと
思ったんだよ。リリースされた最初の6ヶ月は、イギリスじゃあほとんど売れなかった。1枚目、2枚目と同じ数くらい。それでバンドに幕が下りたと思ったん
だ。ところがアルバムに入っていた6分間もある曲が、イギリスであの年の最大のヒットになったんだ。”ラン”が一人歩きし始めたんだ。アンサムになって。
まったく予想しなかったね。驚きだった。
――「ラン」のヒットがバンドの運命を変えたわけですね。
そうなんだ。もしあれがなかったら、僕らは今バンドとして存在していなかったはずだ。いや活動しいたとしても、プロじゃなく、昼間はバンドをやるために働らかなければならなかったはずだ。背広を着て。それをやってないのは嬉しいことだ。
――アルバム『アイズ・オープン』はより大きな成功をつかむわけですよね。アメリカでの成功によって。
確かに『アイズ・オープン』の成功はマッドネスだった。ただ正直なところ現実的な理由は、”チェイシング・カーズ”が大ヒットしたからだ。イギリスで”ラ
ン”がヒットした以上の大ヒットになったんだ。だって”チェイシング・カーズ”のヒットは世界的な規模だったから。世界各国でヒットして、それの成功に夢
中で追いつこうとした。
――『グレイズ・アナトミー』(米TV病院ドラマ)がきっかけだったんですよね。
番組についてはあまり知らなかったんだ。テレビ番組に曲を使わせてくれという依頼はよく来るし、また来た、くらいにしたか思っていなかったんだ。ところが
あの反響はすごかった。『グレイズ・アナトミー』でかかる前はビルボート100位の外側にいたんだ。ところが『グレイズ・アナトミー』のエピソードが終
わったのが11時半で、12時までにはダウンロードでナンバー1になっていたんだ。クレイジーだよね。
――サウンドの変化についてですが、サード・アルバムからプロデューサーにジャックナイフ・リーを起用していますね。これもまた成功の鍵の一つだとも思いますか?
ジャックナイフ・リーはこのバンドの歴史の中でもっとも重要な人物だ。まるで兄のように愛している。それは多くのことを教えてくれた。その中でも最大の事
と言えば、コーラスを恐れるなということだった。最初の3枚のアルバムには殆どコーラスが入っていない。昔はコーラスの入った曲を書いたら、セリングアウ
トしたような気持ちになったんだ。
――どうして?
若いときインディー・キッドで、今だにインディー・ミュージックは大好きだ。若いときは奇妙な音楽じゃないと満足できなかったんだ。曲をノイズの壁でかぶせてみたりとか。
――でもスノー・パトロールの強みってメロディーとコーラス?いつその考え方が変わったんですか?
2枚目にもメロディーやコーラスはあったんだが、盛り上がりに欠けるんだよ。平坦なんだ。”ラン”はセカンド・アルバムがリリースされる前に書いたんだ。
セカンドは6ヶ月リリースが遅れたんでね。それでやきもししながらいろいろ曲を書いた。”ラン”も最初は、なんかコードの外れた曲で、友達に曲にすること
を破棄しようとしているような曲だなって、言われたんだよ(笑い)多分それは真実かもな、って思ったんだ。そのときからマイナーじゃなくてメジャーなコー
ドで曲を書こうと思ったんだ。2002年エジンバラでギグをやった後のことだった。ポリドールと契約する前のことで、『ファイナル・ストロー』がリリース
される前数年間あの曲をライブでやっていたんだ。あのショウのことは良く覚えている。あの頃からライブを楽しんでやれるようになった。それ以前はお酒をラ
イブの前の飲みすぎて、楽しくなかった。僕は観客を屈辱して、大馬鹿者だったね。最初はライブが怖くて少し飲むようになったんだけれど、それがエスカレー
トして、飲んだら化け物(笑い)まったく別人なったというか・・・。今ではリラックスして自分自身になれるようになった。最近はお酒はいらないね。”ラ
ン”のコード事件とお酒をやめたのがほぼ同時期だったんだ。2002年2003年ころかな。僕のあの姿勢が変わったせいで、バンドの成功の助けになったと
思うよ、自分をサボタージするのをやめたんだ。
――ライブ・バンドとしての成長についてどう思いますか?
信じられないくらい成長したと思う。それは沢山のギグをやったから、当たり前だよね。上手くなるのは。長いプロセスだったが。最終的に僕らは偉大なライ
ブ・バンドになったと思う。これまでそれは多くのライブ・バンドを見てきたし、U2やオアシスやRAMや。
――去年は他にもコールドプレイの前座をやったり。世界最大の2バンドと同じステージに立っていますね。
そうだね、彼らからそれは多くのことを学んだ。
――次なるU2をめざしている?
U2の後継者になるのは、意図的なんじゃなくて、時間がくればそうなる、という状況じゃないのかな。でも僕らがだそういう風には思えない。難しいね。多分
U2はあの種のレコードを凄い数のレコードを売る、最後のバンドかもね。バンドのあり方は現在変わったと思うよ。
――あなたは自称インディー・キッズだけれど、影響を受けた人は?
最初はマイケル・ジャクソン。ACDC、メタリカなんか聞いてたんだ。そのうちニルヴァーナに出会い、インタビューを読んでカート・コベインから多くのこ
とを学んだ。ティーンエイジ・ファン・クラブやブリーダーズと一緒にやったニルヴァーナのライブは僕が見た中で最高のギグだったな。ピキシーズなんかから
も大きな影響をうけてるよ。
――レインディア・セクションでサマソニに出たり、またスノウ・パトロールとしてフジロックで来日もしていますね。日本の印象は?
フジ・ロックには2回出ているんだ。2回目は山を望むステージで凄かったな。あまりにも美しい景色で目を奪われたな。本当なら演奏に集中すべきなのに(笑
い)フジ・ロックは大好きさ。日本は好きだし。バンドとして日本でもっと成功したいと思うよ。もっと長く日本に滞在したいしね。東京は凄くクレイジーな都
市で、大好きさ。感覚がオーバーロードしちゃうほど。行く度に凄く楽しい思いをしている。グラスゴウもそうだけれど、都市と大自然がとなりあってるとこ
ろって大好きさ。
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