年代別ストーンズLIVEの目撃者たち:ピーター・バラカン氏

2017.11.17 TOPICS

『オン・エア』発売記念企画
年代別ストーンズLIVEの目撃者たち

 
12月1日に発売される最新作『オン・エア』。このストーンズ初のBBC音源作品の発売を記念して1962年にバンドを結成して以来、2017年の現在に至るまでライヴ活動を続けているストーンズの
LIVEの魅力を実際に見ている方々の言葉で語っていただく企画がスタート。

第1回目はピーター・バラカン氏。
『オン・エア』には1963年~1965年までのBBC番組からの音源が収録されているが、ピーター・バラカン氏はその1964年と1965年のライヴをイギリス・ロンドンでその目で見ている方。ファンからするとこれほどうらやましい話はなく、しかも1969年のハイド・パークでのフリー・コンサートにも参加されたという。
氏が所有されている貴重なチケット半券とパンフレットの写真とともに、デビュー間もないストーンズのエピソードも踏まえて語っていただいているのでお楽しみください。


ピーター・バラカン(1964, 1965, 1969)

ストーンズのデビューから魅せられていた

――デビュー・シングルの「カム・オン」(1963年6月7日発売)をリアルタイムで買われていらっしゃるんですね。

出てすぐくらいですかね。63年の夏だったと思います。母と弟と3人で、車でロンドンからちょっと離れていたところに住んでいた叔母の家に向かう途中、レコード屋さんに車を止めてもらって買ったのを覚えています。

――事前にストーンズの情報を得られていたんですね。

テレビに出てましたからね。『Thank Your Lucky Stars』という番組で観た記憶があります。まだ、みんなチェック模様のお揃いのジャケットを着てね。ストーンズは悪者のように描かれますけど、まだ全然そんな感じじゃなかったです(笑)。おそらく、それがレコード購入のきっかけでしょう。ビートルズがデビューしてから、ほかにもレコードを買っていたし、「New Musical Express」紙を読んでいて、そこには新しいレコードの広告が必ず載っていたので、そういう情報もありました。

 
64年のライヴ初体験

1964年9月5日(土)フィンズベリー・パーク・アストリアでのライヴ・チケットの半券(ピーター・バラカン氏所有)

同ライヴのパンフレット(ピーター・バラカン氏所有)

――それで気に入られて、ライヴも観に行こうとなられたんですか。

そうです。初めて観たのが64年9月5日のフィンズベリー・パーク・アストリア(映画館。のちにレインボー・シアターに改名。現在はライヴ会場などには使われていない)公演です。これ、チケットの半券にファースト・パフォーマンスってなってるってことは、1日2回公演だったんですね。ぼくは1回目を観たので6時半スタートです。2回目は8時半からですね。このころはパッケージ・ショウですから、そんなに長くないんです。トリのストーンズでさえも30分やってるか、どうかというくらいだと思います。このときはストーンズのほかに、マイク・ベリー、サイモン・スコット、モージョーズ、そうそうアイネズ&チャーリー・フォックスも出てましたね。このコンサートで「モッキンバード」を初めて聴いたんですよ。それぞれ3曲くらい演奏したんですかね。長くても15分でしょう。だから、全部で1時間半。このころぼくは13歳でしたね。

――これで、さらにストーンズを気に入られたんですね。

すぐに好きになりました。シングルが出ればみんな買うようになりましたね。「カム・オン」もそうだし、ビートルズから贈られた「I Wanna Be Your Man」とか。あと64年は結構次々と出たんですよ。「ノット・フェイド・アウェイ」「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」や、4曲入りEP盤『ザ・ローリング・ストーンズ』とかね。全部うちにありました。デビュー・アルバムも母が買ってましたから(笑)。本当に好きでしたね。

――コンサートで印象に残ってらっしゃることは。

1階席でしたね。そんなうしろの席ではなかった気がします。当時、まだPAがなくてギター・アンプだけでやってました。ビートルズと同じように“キャー!”という歓声も聞こえていましたけど、ビートルズと違ってアンプからの音がはっきり聴こえたんですよ。それで、誰のギターかまではわからないけれど、チューニングが合っていなかった(笑)。何故かそれをすごく覚えています。弟とふたりですでにギターも始めていましたので“あ、これはギター、合っていない”って(笑)。このときはカヴァー曲ばかり演奏したんですね。面白い。このころのストーンズはカヴァー・バンドだったわけですから。

――やはり、女性ファンが多かったのですか。

両方ですね。もちろんアイドル的に観ていた女の子もいたけど、演奏が聴こえたということは、ビートルズに比べたらそれほどではなかったんでしょう。もちろん男性も観に来ていたし、バンド自体が“男っぽい”イメージを持っていました。ぼくなんかはまだ子どもでしたが、13歳なりの男心をくすぐる何かがありましたね。カッコいいと思った。ミック、キース、ブライアンは特に目立っていました。ビルとチャーリーの存在は、ちょっとうしろの方だったでしょうか。特にミックでしょうけど、キースもブライアンも憧れの存在でした。

――テレビなどでもこのころのストーンズの演奏をご覧になっているんですよね。

『Ready Steady Go!』に出ていましたね。あれは、毎週金曜日の夕方の番組でぼくらの世代はみんな観ていました。金曜だけは、学校のあとも遊ばずにしっかり帰ってきてね。ほとんどが口パクでしたが、ライヴ演奏以前にその姿が観たいという感じでしたね。

 
2回目のライヴ体験とハイド・パーク・フリー・コンサート、ブライアン・ジョーンズの思い出

1965年9月24日(金)フィンズベリー・パーク・アストリアでのライヴ・チケットの半券(ピーター・バラカン氏所有)

同ライヴのパンフレット(ピーター・バラカン氏所有)

――65年にもコンサートをご覧になられているんですね。

9月24日です。場所は同じアストリアでした。バスですぐに行けたんですよ。このときは6回目のブリティッシュ・ツアーだったんですね。ぼくらは、そんなことはまだわからずに、近くの会場でやるというので観に行きました。このときはオリジナルもやんたんですね。その次、生でと言えば69年7月5日のハイド・パークになるんですかね。あれはフリー・コンサートだったので、甘く見て……(笑)。それでも始まる前に行きましたよ。朝の11時くらいに着いたと思うんですけど、そうしたらもう、とんでもない状況になっていて。ものすごいひとの数でした。ステージの近くには行けそうにないから、仲間とうしろの方でお祭り気分でいましたね。音はなんとか聴こえましたが、あれを観たとは言えないかもしれない(苦笑)。ただ、映像(『ストーンズ・イン・ザ・パーク』)がありますからね。それが脳裏に焼きついていて。ミックのひらひらの白の衣裳とか……。実際には、遥か彼方に“あ、いるなぁ”という感じでした。

――あれは、ブライアン・ジョーンズの追悼コンサートでもあったわけですが、当時の彼の印象は。

ブライアンが死んだという情報は、コンサートの直前ぐらいに流れたんですよ。コンサート自体は、ブライアンが亡くなる前に企画されていたはずですが、彼はすでバンドをクビになっていて。でも、そのような情報はあまり流れていなかったように思います。そんなタイミングで死んじゃったもんだから、すごい衝撃でした。ほかのメンバーとうまくいっていないのは何となくわかってはいたけど、そういうこともメディアにはそれほど取り上げられてなかった気がしますね。ジャン=リュック・ゴダールの映画『ワン・プラス・ワン』(68年11月英国公開)があるでしょう。当時、ぼくは観ていなかったんですよ。高校生としては、あまり優先順位の高い映画ではなかったから(笑)。いまあれを観ると、ブライアンとほかのメンバーとの隔たりがよくわかる。「悪魔を憐れむ歌」のセッションのシーンで、ブライアンが阻害されている姿がとらえられているわけですが、ぼくはそれを知らなかったので、“え、ブライアンがクビになった? そして死んだ?”というダブル・パンチを食らった感じでしたね。いまは、彼がストーンズの最初のリーダーだったっていうことを当たり前の知識としてみんなが知ってると思いますが、当時はそれもある程度の認識でしかなかったんです。もちろんそもそもブライアンの呼びかけによって始まったというのは、なんとなく知っていました。彼がすごいブルーズ狂だということも知っていた。あとからわかったことですが、ストーンズを長生きさせるためには“やっぱり自作がなくてはいけない”ということで、アンドルー・ルーグ・オールダムの判断でミックとキースに曲を書かせて、彼らをリーダーに持ち上げたわけでしょう。ブライアンは曲を書かないひとだったし。そこからブライアンの地位が下がっていったわけですよね。でも、ブラインは、ダルシマーからシタール、マリンバ、スライド・ギターといったふうに楽器は何でもできちゃうし、とても音楽性のあるひとだったと思いますね。実際に彼がいろんな楽器を演奏するところをテレビでも観てましたし。ぼくはストーンズの2作目の『ザ・ローリング・ストーンズ No.2』に収録されている「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」で生まれて初めてスライド・ギター(ブライアンが弾く)を聴いたはずなんですが、あれはすごい衝撃でしたね。彼はいつも無口だったし、64年ぐらいの時点ではもうミックがフロントマンになってましたが、ブライアンはその後もやっぱり気になる存在でした。

 
60年代初期のストーンズの革新性

――60年代初期のストーンズのライヴもまた特別ですよね。

だんだんうまくなっていきましたよね。63年はまだ素人っぽいところもありましたけど、いま振り返って聴くからそう思えるのであって、当時11、12歳だった自分が聴いたときにはまったくそうは思わなかったです。すごくカッコいい! と感じました。デビュー・アルバムをいま聴いても、演奏はうまくないかもしれないけれど、そんなに下手ではないし、勢いはスゴイし、素晴らしいレコードだと思います。ライヴとしては、ビートルズはレコード・デビュー前にハンブルクで2年間、山ほどライヴをやっていたから、ライヴ・バンドとしてのまとまりがすごかった。ストーンズの方は、まだバンドを組む前にそれぞれがアレクシス・コーナーのクラブ(でのR&Bセッション)に出ていましたよね。あれ、週に1回しかやらないものだったんですよ。ブルーズ好きがみんなそこに集まるというもので、演奏したいというひとが手をあげると、アレクシスがステージに招き入れるというものだったらしいですけど、そこで各メンバーがステージに立ったりして、そのあとはリッチモンドのクローダディ・クラブで週1のレギュラーでやっていたわけですが、当初、ストーンズとしてのライヴは、ビートルズと比べてかなり少なかったはずなんです。でも、この『オン・エア』のころにはたくさんツアーもやっていたから、丁度こなれてきたところじゃないでしょうか。彼らが演奏していたのはリズム&ブルーズですが、ぼくらの世代はみんな知らない曲ばかりでした。それは全部、ストーンズで知ったと言ってもいいくらいです。オリジナルのレコードなんて手に入らなかったんですよ。ぼくがブラック・ミュージックにはまったのはストーンズがきっかけです。ポップ・グループでこんな音楽をやっているひとたちはほとんどいなかったですからね。とにかくライヴはカッコよかった。ぼくが64年に観たころは、髪も伸ばしていたし、スーツはもうやめちゃって、わりと普段着に近い感じでやっていたと思うんですが、そういうスタイルもストーンズが初めてだったんじゃないですかね。そういうファッション的な部分でもすごくカッコよかったです。もう、どれだけ影響を受けたか。シャツをオープン・ネックにしたりとか、とても画期的でした。それが、いまでもライヴを続けているなんて、彼ら自身もまさかそうなるとは思ってなかったでしょうね(笑)。