20年前の担当者が回想する「NEVER MIND」日本発売記

11.11.1  第4回

 

 B誌の編集長が電話をかけてきた用件は「NIRVANAの記事は当初モノクロ2ページでやる予定だったが急遽カラー2ページでやることにした。今後も引き続きよろしく!」ということだった。
すなわち、雑誌の中でのNIRVANAのランクが上がったのだ。まあ、こんなもんなのだろうなと。音を聴いたり、私のプレゼンを聞いたりなどの曖昧な情報 では反応しなかった雑誌としてのアンテナが、セールスやチャートという具体的な情報でググッと反応したのだ。さらに、読者や周囲の反応もあったのだと思 う。海外の音楽誌などでの取り上げ方も大きさもあったのかもしれない。ともかく、B誌だけではなく、洋楽を扱うメディアは俄然NIRVANAに注目し始め た。その”勢い”は凄まじかった。その凄まじい”勢い”を象徴するかのように、かのB誌での扱いはさらにカラー2ページから4ページへと今度はページ数が 増えた。記事を掲載する前にあれよあれよとまたランクがあがった。
 短期間の間に『普通の新人、モノクロ2ページがやっと』が『期待の新人、カラー4ページでバーンとやります!』へと変わったのだ。私と同じような仕事を している方や雑誌の編集に関わっている方でないとあまりピンとこないかもしれないが、これはすごい格上げだ。わかりやすいと言えばわかりやすいし、節操が ないなあとも正直思った。しかし、それがNIRVANAの”勢い”だった。世界中のロック・シーンでそんな怒濤の”格上げ”が繰り広げられていた。そこで 私は節操がないついでに、だがちょっと無謀かなと思いつつこんなことを持ちかけてみた。「いっそのこと表紙でやっちゃいませんか?」と。しかし、さすがに これは「いくらなんでも表紙はまだ早い」とやんわり却下された。そりゃそうですよね、まあ表紙は調子に乗り過ぎですよね、などと納得していたら、意外なこ とがおきた。
 なんとC誌が突然NIRVANAを表紙にしたのだ。C誌はいわゆる楽器系の雑誌で、NIRVANAをプロモーションするうえで大事ではあるが、まさかそ れほど早く表紙で取り上げてくれるなどとは思ってもいなかった雑誌だ。その雑誌が日本で一番早く、NIRVANAを表紙にしてしまった。これには驚いた。 「表紙にします」という連絡をC誌からもらったときも思わず「なんでですか?」などと、担当者としては不適切なことを言ってしまった記憶がある。だが、C 誌の編集部に迷いは無かったようだった。編集部の現場とそれを管理する人との思いも一致したのだろう。この雑誌のこのときの決断→実行の早さは、いち会社 員として、学ばせて頂きました。
 話が横道にそれるが、私はNIRVANAの『ネヴァーマインド』を担当させてもらったおかげで他にも本当にいろいろなことを経験し学ばせてもらった。そ れは、単に『業務上のスキル』ということだけではなく、それ以上のもっと何か、うまく説明できないが普通ではなかなか得難いいろいろなこと、である。『ネ ヴァーマインド』というアルバムは、私のような世界の隅っこの末端で関わっている人間の内面にも影響を与えてくれた、凄いアルバムだったのだ。いまさらで すが。
 そんな折、NIRVANAの来日公演が決定した!1992年2月。東京、大阪、名古屋、川崎。東京は中野サンプラザ、川崎はクラブ・チッタだ。会場は適正?などと思いながらも、盛り上がることは間違いない。期待は膨らむばかりだ。唯一の懸念を除いては。
 その懸念とは、当初リリース日がバッティングしていたガンズ・アンド・ローゼズの来日東京ドーム公演とNIRVANAの来日公演の日程がばっちりバッティングしてしまっていたことだった。(つづく)

 

11.10.14  第3回

 

 音楽専門誌B誌の副編集長Sさんは「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を聴き終わった後、私に向かってこう言った。
「普通っすね」
それが、その時のNIRVANAに対する、紛れもない彼の評価だった。
 のちにロックの潮流を激変させてしまうことになるまさに歴史的な曲に、それ相応の評価を瞬時に下せなかった人を責めるつもりは全然ありません。むしろ、 そういう場面に当たってしまい、たまたまそれが自分の好きなタイプの曲では無かったがために、20年経った今も私のような人間にそのエピソードを語られて しまうことに、私が言うのもなんだが、少し同情をしてしまうんです。
 しかし、彼はロックやポップスを評論したり選別して人に薦めたりすることを職業にしてしまっていたので、外してしまったときはそれなりのリスクを負って しまうのは仕方のないことだ、とも思う。彼なりの言い分はあるのだろうが、普通のリスナーが好きだ嫌いだと言うのとはわけが違うのだからこのように語り継 がれてしまうのだ、と私は申し訳なく思いつつも、あの時のことをこうしていまだに書いてしまう。自信たっぷりに言った、彼の表情も忘れられないし。
 「スメルズ・ライク~」が圧倒的に素晴らしい!と最初から思った人は本国アメリカでもあまりいなかったはずだ。ゲフィン・レコード内部でも、はじめは評 価があまり高くなかったらしく初回プレスの枚数もとても少なかったことは有名な話だ。音楽産業の中におけるロックは、レコーディングやプロモーション・ビ デオなどに巨額の制作費や宣伝費を投じ、大ヒットによって回収する、といったビッグ・マネーが横行する巨大ビジネスになっていて、その権化とも言えたのが ガンズ・アンド・ローゼズだった。だから、NIRVANAに同じようなスケールを感じていた人が少なかったのも当然の話だ。だが、巷のロック・ファンや関 係者の中には、そうして肥大化していくロック・シーンに違和感を持っていた人たちが確かにいたんだろう。そして、そういう彼らが飛びついたのが、 NIRVANAであり、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」だったのだ。
 ラジオやMTVが「スメルズ・ライク~」をオンエアすると、その都度リスナーからの反応がすぐさま表れたらしい。リクエストがくる、曲をかける、またリ クエストがくるというヒット誕生の正しい循環により、曲のオンエア回数、チャートは毎週ぐんぐん上がっていく。アメリカだけではなくイギリスを始めヨー ロッパ各国で同じ現象が同時に起こり始めたため、ゲフィン・レコード内部でも新しいスターの誕生に期待が膨らむ。と同時に、私たちのような末端の人間に は、その期待に比例したプレッシャーが大きくのしかかってくる。ほとんど注目されていなかった新人バンドは、レーベルのプライオリティ・リストの筆頭に挙 げられ、毎日のようにマーケットのリポートを要求された。
 前回も書いたように、日本での洋楽ロックのプロモーションのベースは、専門誌を中心とした活字媒体だった。なので、そのジャンルではラジオやMTVなど の電波媒体はいまひとつ影響力を持っていなかったが、それでも、いち早く海外の状況をキャッチしたDJの方々が曲をオンエアしてくれたりビデオを流してく れたりした。その反応はCDセールスにも表れNIRVANAのセールス・チャートは、ここ日本でもじわじわと上がり始めた。
海外でのNIRVANAの爆発的な成功に遅れること約2ヶ月ほどして、私の元にはバンドに関する問い合わせも俄かに増え始めた。そして、かのB誌も、今度は編集長自らが私に電話をかけてきたのだった。(つづく)

 

11.10.07  第2回

 ガンズのリリースで絶好調に盛り上がる中、私は「スメルズ・ライク~」のカセットと資料などを持って洋楽雑誌を回ること にした。おそらく、その頃の音楽雑誌の私への関心といえば、ガンズはいったいいつインタビューをやらせてくれるのか?来日するのかしないのか?したら何を やらせてくれるのか?と、たぶんそんなことばかりだっただろう。そんな中、私はほぼ無名の新人を売り込みにいくのだから、やりづらくないと言えば嘘にな る。
 彼らを売り込むポイントは、アンダーグラウンドからメジャーに移籍したばかりのソニック・ユースと、メタル界のビッグ・ネーム、メタリカが口を揃えて彼 らを当時一番気に入っているバンドに挙げていたことだ。ソニック・ユースは、ニルヴァーナと契約するようにゲフィンのA&Rに強力に勧めたらしい し、メタリカは、夏にニュー・アルバムを発表したばかりで、プロモーションで受けていたインタビューでドラムのラーズがニルヴァーナの名前を盛んに出して いたらしい。この2バンドが推しているということで、両バンドのファンを取り込むのだ。音楽誌も可能性を感じてくれるだろう。まずは、好感触を掴めるだろ うと予想したA誌に行く。音を聞いた編集長も副編集長も、一発で気に入ってくれた。期待通りのリアクションだ。有望な新人バンドとしてピックアップしま しょうと、快くサポートを約束してくれる。幸先いい。が、問題は次のB誌だ。もともとブリティッシュ・ロックよりだし、ソニック・ユースにもメタリカにも あまり関心が無い。難しい相手だ。
  当時、洋楽ロックのプロモーション、つまり宣伝は音楽専門誌が中心だった。今のようにインターネットなどがほとんど普及していない時代だったから、そ ういった活字媒体で大きく取り上げられて情報を発信していくことが重要だった。言うまでもなく、強い影響力を持つ音楽誌であれば、そのハードルは高くな る。
  私はB誌の編集長に時間を取ってもらい、会いに行くことになった。私にとっては勝負どころなので、気合が入る。ところが、私が訪ねたときにちょうど彼 は別件の用事が入ってしまったようで、音を聞いてもらう相手は急遽副編集長のSさんへと変更になった。肩透かしをくらった感じだったが、Sさんも立場のあ る方だから、気合を入れ直す。編集長からカセット・テープを手渡されたSさんは、私を打合せブースへと案内し、テーブルにラジカセを置いて私のトークを一 通り聞いた後、そこで一緒に「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を聴いた。そして、曲を最後まで聴いたあと、彼は口を開き、躊躇いもなくこう言っ たのだ。(つづく)


11.09.30  第1回

 ユニバーサル ミュージックに勤務するY田は20年前に「ネヴァーマインド」のリリースを担当していた。そして、何故か今また20thアニヴァーサリー・エディションを担当している。彼の上司H田(クイーン担当)は、Y田に昔を回想して文章を書けと言う。

1991年早々、私はあるレコード会社から新しくできたレコード会社に異動になった。担当は、当時ニュー・アルバムの発売が待たれていたガ ンズ・アンド・ローゼズも所属するゲフィン・レコード。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのレーベルだった。それまではメジャーとは無縁のポップスやらダンスもの を担当していた私だったが、いきなりガンズの担当である。いろいろな人が近寄ってくるようになる。私はちやほやされるようになり、段々いい気になってきて いた。しかし、肝心のガンズのニュー・アルバムは、春ごろから出る出ると言われながら延期を繰り返し中々発売日が決定できない。映画のタイアップが決まっ た先行シングルの「ユー・クッド・ビー・マイン」は猛烈にカッコいいし、バンドは発売日が決まる前にツアーを始めるし、世界中のロック・ファンのジレンマ はピークに達するのではないか、と思い始めた初夏ごろ、1本のカセット・テープとバイオグラフィーとモノクロのアーティスト写真がゲフィンから届いた。
 バンド名はNIRVANA。日本語に訳すと「涅槃」。路地のようなところに佇む3人のぱっとしない若者。地味だ。アー写を見つめても、売れそうなイメージが湧かない。カセットに収録された曲のタイトルは「Smells Like Teen Spirit」。音を聴いてみた。おっ、ハードロックだ。私は直感した!これはイケル!多分日本でも50万枚は売れるに違いない!ガンズの新作を待たずして俺はヒット・ディレクターの仲間入りか! と夢想した。
 というのはもちろん嘘で、キビシイかなというのが第一印象。音はハードでいいのだが、当時のHR/HM媒体のストライク・ゾーンからは外れている。かと いってUKものが強い雑誌に持っていってもあまり期待できないし、でもソニック・ユースを強力にサポートしてくれたあっちの雑誌ならのってくれるだろう、 とかあれこれ考えていたころ、突然決まった。ガンズの発売日だ。アメリカが9月17日。しかも2枚同時発売などと無茶なことを言っている。ニルヴァーナの リリースはその翌週の24日にセットされていた。吐きそうになるほど忙しくなった私は、新人バンドのニルヴァーナくんちょっと待っててくれたまえと路地裏 に佇む3人の若者に語りかけ、「ネヴァーマインド」の発売日を11月に延ばしつつ、ガンズのニュー・アルバム発売に掛かりきりになってしまう。
世界中のロック・ファンが、関係者が、この最高の話題作発売決定に沸き返る中、静かに、しかし確かにアンダーグラウンドのマグマが爆発寸前のエネルギーを蓄えていたのであった。(つづく)