1960年代、英国には素晴らしいグループがひしめきあっていた。しかしブリティッシュ・ロックの黄金期といえるこの時代にあっても、真に重要なバンドは2組しかいなかった――ビートルズとローリング・ストーンズである。
この2グループは音楽シーンのみならず、社会全体に強烈なインパクトを与え、20世紀にその名前を刻み込んだ。1965年の英蔵相の名前を思い出せる人が果たして何人いるだろう?一方で、この年にビートルズが主演映画『Help』を作ったこと、ローリング・ストーンズが「Satisfaction」でヒット・チャートのトップを獲得したことは、現在もなお我々の記憶に鮮明なのである。
1960年代に、ロック・ミュージックがどれほど勢いに溢れていたかを理解するには、1962年当時の英国の様子を思い起こす必要がある――この年の7月12日、ローリング・ストーンズは初めてロンドンはマーキー・クラブのステージに立った。
チャールズ・マクミランが首相の座にあった1962年当時、投票権は21歳以上の者に与えられていたが、英国社会を支配していたのは階級制度と学閥主義だった。有名サッカー選手の週給が約20ポンド、クリケットの競技者は、それぞれ"ジェントルマン"と"プレイヤー"に区別されており、競技会場への入り口も、各人が属する階級によって、ふたつに分けられていた。ロンドン市内にはまだトロリーバスが走っていた。
古めかしい慣習と階級意識に縛られた、かくも息苦しく保守的な時代にローリング・ストーンズは登場した。若き彼らは、傲慢といってもよいほど自信に溢れており、権威主義なるものに盲従する気など毛頭なかった。そしてローリング・ストーンズの音楽なくしては、社会的/文化的な改革もありえなかったかもしれないのである。
もちろんビートルズもローリング・ストーンズと同様の役割を果たした。とはいえマネージャーであるブライアン・エプスタインの指示に従いスーツとネクタイを着用し、上品な微笑を浮かべていたビートルズの面々に対し、ローリング・ストーンズのメンバーは好きなだけ髪をのばし、無作法に騒々しい振る舞いを見せていた――彼らは決して妥協することはなかった。ローリング・ストーンズの5人はバッキンガム宮殿で女王からMBE勲章を与えられることはなかったし、そのイメージは、マネージャー、アンドルー・ルーグ・オールダムが、グループを売り出すために用意した文句に集約されていた。これは"あなたの娘さんとローリング・ストーンズのメンバーとの結婚を許しますか?"というもので、当時、あらゆる新聞に掲載されている。この問いに良識ある親たちはもちろん"ノー"と返し、娘たちは親の考えに反駁した――そして、この親たちの反応も、また娘たちの反応も、まさにバンドとオールダムが求めた回答そのままだった。
当初、ローリング・ストーンズは、チャック・ベリー、マディ・ウォーターズ、エルモア・ジェイムズ、ハウリン・ウルフらを敬愛する、粗野なリズム・アンド・ブルーズ・バンドで、およそ洗練とは無縁だった。「俺たち自身は、ビートルズとは何の接点もないと思っていた。」後年、キース・リチャーズが語っている。「俺たちはブルーズを演奏していた。そして連中はポップ・ソングを書いていたんだ。スーツでめかしこんでね。」
1964年にリリースされたファースト・アルバム『The Rolling Stones』(アメリカでは、これに代えて『England's Newest Hit
Makers』が発売された)には、グループのステージおけるパフォーマンスさながらの生々しく粗野なサウンドが詰め込まれていた。彼らには「Route 66」、「Can
I Get A Witness」、「Walking The Dog」といったカヴァー曲に新しい魅力を加味できるだけの勢いと情熱があった。
数々の名曲を生むことになるミック・ジャガーとキース・リチャーズの共作活動が始まったのも、このアルバムと前後してのことだった。グループのキャリアの初期、リーダーと目されていたのはブライアン・ジョーンズだった。しかし、ジョーンズにはヒット曲を書くことはできないと考えたオールダムは、ジャガーとリチャーズに目を向けたのである――曲作りのコツを掴ませようと、オールダムはふたりを部屋に閉じ込めたこともあった。「Tell
Me」と「Little By Little」はジャガー&リチャーズの最初期の作品に当たるもので、この2曲を含む『The Rolling Stones』は、『With
The Beatles』からアルバム・チャート1位の座を奪取した。
1964年の6月に初渡米したグループは、年内に再度の渡米を果たし、ツアーの合間にかのエド・サリヴァン・ショーに出演している。聴衆の騒乱を受けて、司会のサリヴァンは「彼らを番組に招くのはこれが最後だ」と宣言した。しかしその8ヵ月後、彼らの作品がアメリカのヒット・チャートを上昇したことで、サリヴァンは屈辱感を味わうことになった。ダスティ・スプリングフィールド、トム・ジョーンズらを招いた"ブリティッシュ・インヴェンジョン"特番のメイン・アクトとして、ローリング・ストーンズは再び番組に登場したのである。
アメリカでは、ちょうど同じ頃に『The Rolling Stones Now!』がリリースされた。60年代半ばに至るまで、ローリング・ストーンズのアルバムはアメリカとイギリスでまったく異なった内容でリリースされている(たとえばアメリカでリリースされた『12×5』、『The
Rolling Stones Now!』の2枚は本国でのセカンド・アルバム『The Rolling Stones Vol. 2』の収録曲を2枚に振り分け、シングル、EP等々からの楽曲を追加した内容だった)。とはいえウィリー・ディクスンの「Little
Red Rooster」(この曲はシングルとしてもリリースされ、英米両国でヒット・チャートのトップに輝いた)、ソロモン・バークの「Everybody Needs
Somebody To Love」といった厳選されたカヴァー曲と、急成長を遂げつつあったソングライティング・チーム、ジャガー&リチャーズのオリジナル曲を織り交ぜた選曲になっていた点は、(イギリス盤であれアメリカ盤であれ)当時の彼らのアルバムに共通した特徴だった。
1965年7月に発表された「(I Can't Get No) Satisfaction」は、"ジャガー&リチャーズ"のソングライティングの手腕が充分に成熟したことを、広く世間に示した。また同じ時期、グループの面々は、"侮辱的な振る舞い"をしたことによるばかげた裁判沙汰で、その悪名をさらに高めたることにもなった――イースト・ロンドンのガソリン・スタンドで立小便をした彼らは"侮辱的な振る舞い"をしたかどで訴えられたのだった。
不思議なことに『Out Of Our Heads』のブリティッシュ・ヴァージョンには「(I Can't Get No) Satisfaction」」とそのB面曲「Play
With Fire」が含まれていなかった。一方、この2曲のオリジナル・ナンバーを収めたアメリカ版『Out Of Our Heads』はアルバム・チャートの首位を獲得、その後、シングルとしてリリースされたジャガー/リチャーズ作品「Get
Off My Cloud」、「19th Nervous Breakdown」、「Paint It Black」も、続けてヒットを記録した。
次いで1966年初頭にリリースされた『Aftermath』は、収録曲すべてがジャガー/リチャーズ作品で構成されたきわめて重要なアルバムである。ほぼ同時にリリースされた『Big
Hits (High Tide & Green Grass)』は主要なヒット曲を纏めたもので、収録曲の多くはイギリスではアルバムから漏れたままになっていた。
ブルーズのカヴァーからスタートしたローリング・ストーンズの音楽性は、しかし次第に発展しつつあったことが『Aftermath』を聴くと良くわかる。「あのアルバムはきわめて画期的なレコードだった」と、数年後にミック・ジャガーも語っている。「アルバムに収める曲すべてを自分たちで書くっていうのは、初めての試みだった――ようやく古いR&Bナンバーのカヴァーから離れることになったんだ。」カヴァー曲に取って代わったのは「Mother's
Little Helper」(この曲で、ブライアン・ジョーンズはシタールを弾いている)、「Out Of Time」(クリス・ファーロウの歌唱で大ヒットを記録している)といったポップな編曲を伴った創意溢れるオリジナル・ナンバーである。
"サマー・オブ・ラヴ"の年、1967年になると、ローリング・ストーンズ周辺には、かつて以上の争議が起こり始めた――「Have
you Seen Your Mother Baby, Standing In The Shadow?」のプロモーション用に配布されたメンバーの女装写真が、偽善的なタブロイド紙の多くから非難を浴びたこともそのひとつである。ダニー・ラ・ルーの女装を健全なエンターテインメントとして受け入れた英国人たちは、しかしローリング・ストーンズが同じことをすると下劣で悪趣味と攻撃したのだった。
次なるシングル「Let's Spend The Night Together」の歌詞も、大方の予想通り道徳的な人々を憤慨させることになる。こうしたかたちで物議を醸すことはまさにグループの狙いに適っていたが、ミック・ジャガーを薬物使用者と断じたニューズ・オブ・ザ・ワールド紙の記事は、決して歓迎できるものではなかった。テレビ番組"Sunday
Night At The London Palladium"の一件では、グループはさらに世間の顰蹙を買うことになった――番組のエンディングでは、視聴者に向けて出演者がステージから手を振ることになっていたが、彼らはそれを拒んだのである。
「あれは連中の犯した最大の過ちだった――それをたくさんのイギリス人が目撃したんだからね。」アンドルー・ルーグ・オールダムが回想する。「彼らはクスリで逮捕されることになる。だから、あそこで印象を悪くするべきじゃなかった。由緒正しい"Sunday
Night At The London Palladium"で、ローリング・ストーンズは人々の感情を大いに損ねてしまったんだ。」
こうした大変な混乱の最中にリリースされた『Between The Buttons』もまた注目すべきアルバムである。ビル・ワイマンは語る。「アルバムの制作を念頭において、1枚分の楽曲のレコーディングに臨んだのはあれが初めてだった。」ローリング・ストーンズのディスコグラフィーに、この『Between
The Buttons』ほどストレートなポップ・アルバムは見当たらない。収録曲の歌詞からは、社会に向けた鋭い視線も窺い知れる――こうした点については、ソングライティング・チーム、ジャガー&リチャーズは、未だ正当な評価を受けていないように思える。
かつて、ボブ・ゲルドフはこんな風に指摘している。「ストーンズが偉大なロック・バンドだってことは誰もが認めているし、実際、その通りだった。しかし彼らは素晴らしいポップ・グループでもあった。60年代半ばの、たとえば「Mother's
Little Helper」みたいな曲は過小評価も甚だしい。レイ・デイヴィスは、ありふれた生活のスケッチともいうべきコンパクトなポップ・ナンバーを書いた。で、ストーンズも、それらのキンクス・ナンバーと同質の優れた楽曲を残したんだ。」
ローリング・ストーンズを巡る騒動は収まらなかった。1967年は、若者たちの間にカウンター・カルチャーの波がいよいよ拡がった年である――既存の国家と社会の秩序を疑問視する声が高まり、自由への手段として、幻覚剤がもてはやされもした。混乱を鎮めるために"みせしめ"を必要としていた旧体制にとって、ローリング・ストーンズ以上に相応しい対象があっただろうか?
まずは、サセックスのリチャーズ宅が、あの悪名高い手入れに遭いジャガーとリチャーズが逮捕、そして次は精神的に衰弱し始めていたブライアン・ジョーンズが、やはりロンドンの自身のフラットで逮捕されている。結果的に、3人とも有罪判決を受け、少なくとも一晩は拘置所で過ごすことになった。「体制側が俺たちを目のかたきにしていることはわかっていた。で、ついに俺たちに銃を突きつけたんだ」と、昨年、キース・リチャーズは語っている。「あいつらはビートルズを持ち上げて勲章まで渡してしまっただろう。だから俺たちを狙うしかなかったんだ。」
1967年も押し迫った頃、『Their Satanic Majesties Request』が発表された。訴訟からくる疲労感、そしてドラッグの影響が顕著なこの作品は、ローリング・ストーンズの全カタログにあっておそらく最も貶され、聴かれる回数が少なかったアルバムで、それゆえ長きにわたって再評価されることもなかった。しかしその評価も、近年に至り修正されつつある。アンカット誌の特集、"Classic
Albums Revised"の記事は、その一例に挙げられよう。"ビートルズに対する競争意識が生んだ見当違いの試み"として嘲笑の種にされてきたこのアルバムを、しかしアンカット誌の記事は"見過ごされてきたサイケデリックの傑作"と断じており、さらに英国における"サマー・オブ・ラヴ"の記録として『Sgt.
Pepper's Lonely Hearts Club Band』にも優る価値があるとさえ書いている。
これ以前のグループのアルバムでは、マネージャーのアンドルー・ルーグ・オールダムがプロデューサーを兼務していたが、『Their Satanic Majesties
Request』ではグループ自らがその仕事を務めることになった。「クスリや衣装のことなら万事問題なかった。だけど音楽はすっかり変わってしまったからね。」オールダムが回想する。「僕はシングルを選ぶのは得意だったが、突然、アルバムを重視する時代になってしまった。もう僕の出る幕ではなくなったんだ。」
しかし、その『Their Satanic Majesties Request』のリリースから半年も経たない内に、ローリング・ストーンズはサイケデリックに見切りを付け、グループの最高傑作に数えられるシングル「Jumpin'
Jack Flash」をリリースしている。自らのルーツへの回帰を宣言したのシングルに次いで発表されることになっていた『Beggars Banquet』は、しかしまたも物議を醸すことになった。先ずはアートワークを巡るトラブルが発生している。落書きだらけのトイレの写真を用いたジャケットにレコード会社が異議を唱え、これにより、アルバムの発売は一旦見送られることになったのである。そして、次なる問題は収録曲に纏わるものだった。アメリカのラジオ局は「Street
Fighting Man」の歌詞に、騒乱を煽動しかねないとの危惧を抱き、結果、この曲を放送禁止処分とした。またキリスト教原理主義者の中には、「Sympathy
For The Devil」に不快感を示し、アルバムを燃やした者たちもあった。
最早、1960年代も終焉を迎えようとする頃、辛いできごとが相次いだ。最初の悲劇は1969年7月に起こった――ミック・テイラーにメンバーの座を譲ったばかりだったブライアン・ジョーンズが自宅のプールで溺死したのである。次にミック・ジャガーと、ジャガーの数年来の恋人、マリアンヌ・フェイスフルとの別離があった。フェイスフルは間もなくドラッグの過剰摂取に因り、8日間の昏睡状態に陥っている。12月には、悲惨なオルタモントのフリー・コンサートがあった。会場の警備にはヘルス・エンジェルズが雇われていたが、ビリヤードのキューを片手に聴衆を制していたそのヘルス・エンジェルズのひとりに、黒人青年、メデス・ハンターが殺されたのである。
暗い出来事が続いたにもかかわらず、その年の暮には新作の発表という明るい報せがあった。ローリング・ストーンズの1960年代を締め括る『Let It Bleed』は、グループの最高のアルバムといえるもので、悲壮感を湛えた陰鬱な楽曲群(たとえば「Gimme
Shelter」や「Midnight Rambler」など)には、この時代が集約されている。
1960年代、ローリング・ストーンズは多くのものを失い、さまざまな対価を払った。しかしこの時期は、同時に彼らの"世界で最も偉大なロックンロール・バンド"たる地位を揺るぎないものにした時代でもあったのである。
|