モータウン50 / MOTOWN50

ARTISTS

マーサ&ヴァンデラス Martha Reeves & The Vandellas

マーサ&ヴァンデラス Martha Reeves & The Vandellas

ポップ路線を敷いていたモータウン創設時、最もダイナミックでソウルフルなガール・グループだったのがマーサ&ヴァンデラス。リード・ヴォーカルのマーサ・リーヴスは、当初、秘書としてモータウンに雇われたが、その歌唱力を買われてシンガーとして契約し、1962年、ハイスクール時代の友人だったアネット・ビアード、ロザリンド・アシュフォードと共にグループを結成した(1964年にアネットが脱退し、ベティ・ケリーが新加入)。彼女たちのお披露目はマーヴィン・ゲイの「スタボン・カインド・オブ・フェロー」('62)のバック・コーラスで、マーヴィンのアルバム『ザット・スタボン・カインダ・フェラ』('63)の裏ジャケには、彼女たちの写真が掲載されている。

最初のヒット曲は「カム・アンド・ゲット・ジーズ・メモリーズ」('63/R&BチャートNo.6、全米No.29)だが、マーサ&ヴァンデラスが人気ガール・グループの座に就くきっかけとなったのは、「ヒート・ウェイヴ」('63/R&BチャートNo.1、全米No.4)だった。ホランド=ドジャー=ホランドによる明朗快活なリズムとメロディに乗せて、マーサの迫力あるヴォーカルが炸裂する。同曲以降、「クイックサンド」('63/全米No.8)、「ダンシング・イン・ザ・ストリート」('64/全米No.2/ゴールド・ディスク)、「ノーホェア・トゥ・ラン」('65/R&BチャートNo.5、全米No.8)、「アイム・レディ・フォー・ラヴ」('66/R&BチャートNo.2、全米No.9)、「ジミー・マック」('67/R&BチャートNo.1、全米No.10)とヒット曲をコンスタントにチャートに送り込み、モータウン黄金期を支えるグループのひとつとして活躍した。また、「ダンシング・イン・ザ・ストリート」は、アメリカ全土で公民権運動の機運が高まっていた時期のヒット曲であり、そのため、同曲の内容(みんな、通りへ出て踊りましょう)が暴動を煽るとして、放送を自粛するラジオ局が多かった、というエピソードが残っている。

1969年〜'71年の頃にグループに不協和音が生じ始め、1972年にマーサがグループを脱退してソロ・シンガーに転向したため、グループは自然解散。その後、マーサはライヴ活動を地道に続けて、ステージで往年のヴァンデラスのヒット曲をパワフルに歌い続けている。

メアリー・ウェルズ Mary Wells

メアリー・ウェルズ Mary Wells

デトロイト生まれのメアリー・ウェルズは、もともとソングライター志望で、モータウンの創設者ベリー・ゴーディ・Jr.と偶然知り合うという幸運に恵まれてモータウンと契約した。自作自演の「バイ・バイ・ベイビー」('60/R&BチャートNo.8、全米No.45)がヒットし、ソングライターの才能も兼ね備えた彼女は、デビュー当初からアイドル的人気を博していた。その証左となるのは、1963〜'64年にニューヨークはハーレムにあるアポロ劇場で行われたモーター・タウン・リヴュー(モータウン所属アーティストによるライヴ・ショウ)の映像で、メアリーのバック・コーラスを務めていたのが何とテンプテーションズ、そして彼女が歌ってる最中に、最前列の客席にいた若い男性が彼女に抱きつき、警備員に制止される、という場面まであったほど。その映像は、メアリーがモータウンの女王様的存在で、当時のR&B界のアイドルだったことを今に伝えてくれる。また、マーヴィン・ゲイとインスタント・デュオを組み、アルバム『トゥゲザー』('63)をレコーディングしているが、それは、メアリーの人気にあやかってマーヴィンを売り出そうとしたゴーディの策略だったとも言われている。それほど、メアリーの人気は凄まじかった。

「ザ・ワン・フー・リアリー・ラヴズ・ユー」('62/R&BチャートNo.2、全米No.8)、「恋のパンチ」('62/R&BチャートNo.1、全米No.9)、「トゥ・ラヴァーズ」('62/R&BチャートNo.1、全米No.7)とヒット曲を連発し、そのふんわりと包み込むようなハスキー・ヴォイスで大人気を博し、遂に初の全米No.1ヒット曲「マイ・ガイ」('64/テンプテーションズの「マイ・ガール」は同曲へのアンサー・ソング)を放つのだが、マネージャーの入れ知恵もあって“もっと条件のいいレーベルへ移籍したい”と彼女がモータウンへの不満を募らせるようになり、「マイ・ガイ」が大ヒットしたその年のうちに20世紀レコードへの移籍を敢行してしまった。が、モータウンを離れてからは大ヒット曲に恵まれず、次第にミュージック・シーンから姿を消してしまう。1992年7月26日、咽頭ガンのために49歳という若さでこの世を去った。モータウンでの活躍期間が短かったためか、ともすれば見過ごされがちのシンガーだが、彼女がモータウンで果たした役割は大きい。

ジャクソン5 Jackson 5

ジャクソン5 Jackson 5

インディアナ州ゲイリー出身の兄弟グループ。長男ジャッキー、次男ティト、三男ジャーメイン、四男マーロン、そして五男のマイケルから成るJ5は、モータウンからデビューする1年前の1968年、地元のインディ・レーベル(スティールタウン)からシングルをリリースしているのだが、全く話題にならずに終わってしまった。そこでモータウンのオーディションを受けたところ、既に大人顔負けの歌唱力を備えていたマイケルにモータウンの創設者ベリー・ゴーディ・Jr.とスタッフが狂喜し、即座に契約成立。モータウンからのデビュー曲「帰ってほしいの」('69)、2ndシングル「ABC」、3rdシングル「小さな経験」、4thシングル「アイル・ビー・ゼア」(以上の3曲はいずれも'70年リリース)と、4曲連続で全米No.1ヒットを放つという快挙を成し遂げた。マイケルの愛らしさと卓越した歌唱力がJ5の人気の原動力だったが、加えて、ジェームス・ブラウンばりのマイケルの踊りの妙も多くの人々の心を捉えた。J5の当時の人気ぶりは筆舌に尽くし難く、単なる子供向けのバブル・ガム・ソウルの域を超えて幅広い年齢層にアピールしたものだ。

J5の活動と平行していち早くソロ活動を開始したのはマイケルで、ソロ名義では「ガット・トゥ・ビー・ゼア」('71/R&B、全米の両チャートでNo.4)、「ロッキン・ロビン」('72/R&B、全米の両チャートでNo.2)、そしてマイケルにとって初の全米制覇を成し遂げた曲「ベンのテーマ」('72/R&BチャートではNo.5/映画のテーマ曲)と、ソロ・シンガーとしても爆発的な人気を博した。途中、マイケルの声変わりもあって、デビュー当初のようなJ5の快進撃はみられなくなっていたが、バブルガム・ソウル・グループから大人のグループへと変身を遂げた後、J5名義でモータウン最後の大ヒット曲「ダンシング・マシーン」('74/R&BチャートNo.1、全米No.2)を放って、1975年にモータウンを去った。当時ゴーディの娘ヘイゼルと結婚していたジャーメインをモータウンに残し、残る4人に末弟ランディを加えてジャクソンズと改名し、1976年にエピックからジャクソンズとして新スタートを切っている。また、ご存知の通り、マイケルはエピックでもソロ活動を開始し、1979年の名作『オフ・ザ・ウォール』に続く『スリラー』('82)が''世界で最も売れたアルバム''としてギネス・ブックにも認定され、その人気は世界的規模のものになった。『スリラー25周年記念盤』がリリースされ、昨今、その業績が再評価されている。

コモドアーズ The Commodores

アラバマ州タスキーギで1968年に結成されたコモドアーズは、そのグループ名の誕生秘話が面白い。もともと違うグループ名だったが、ある時、メンバーのひとりが無造作に辞典(日本でいう国語辞典)を開いて指を差した場所に"commodore(海軍、アメリカ沿岸警察隊の准将という意味)"があったため、それをグループ名として名乗ることに決めたという。モータウンからの初ヒット曲「マシーン・ガン」('74/R&BチャートNo.7、全米No.22)を聴けば判る通り、デビュー当初はファンク色を打ち出したバンドだったが、サックス担当のライオネル・リッチーがグループの中心として頭角を現してからは、バラッド路線のヒット曲を量産し、それがグループのカラーとして定着した。

「ジャスト・トゥ・ビー・クロース・トゥ・ユー」('76/R&BチャートNo.1、全米No.7)、「イージー」('77/R&BチャートNo.1、全米No.4)、「永遠の人に捧げる歌」('78/R&B、全米の両チャートでNo.1)、「スティル」('79/R&B、全米の両チャートでNo.1)といった甘いバラッドの大ヒット曲は、ライオネル抜きには生まれ得なかった名曲である。その間も、アップ・テンポの「ブリック・ハウス」('77/R&BチャートNo.4、全米No.5)というヒット曲もあり、バラッド路線を前面に打ち出しながらも、バラッドの立脚点を垣間見せる楽曲もしっかりレコーディングしていた。ライオネルが1982年に脱退してソロ・シンガーとなり、残党だけで活動を持続させ、故ジャッキー・ウィルソンと故マーヴィン・ゲイに捧げた追悼曲「ナイトシフト」('85/R&BチャートNo.1、全米No.3)を大ヒットさせた。