| THE BEE GEES |
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ギブ兄弟にとって、一緒に歌うということは呼吸をするように自然なことであり、基本的なことだった。イギリス・マン島に生まれた兄弟達は1950年代後半には寝室で合唱をし始めていた。長男バリー(当時9才)、そして双子のロビンとモーリス(当時まだ6才)はその頃ヒットしていた曲をものまねして歌うという形で、初めて地元の映画館で人前に登場したのだ。
1958年、一家がオーストラリアに移住すると、じきにビー・ジーズと名づけられた彼らはオーストラリアのナイト・クラブで13才未満ながら成功を収めるようになっていた。そしてティーン・エイジ・ポップ・グループへと成長した彼らは1964年、「ダウン・アンダー」で国民的スターダムを手に入れた。1967年には「スピックス・アンド・スペックス」でナンバー1に踊り出て、このヒット曲の収益のお陰げで、67年にはロンドンに里帰りすることが出来たのだった。
イギリスでは彼らはすぐに伝説的な興業主ロバート・スティグウッドの目に止まり、即座にレコーディングが開始され、『ビー・ジーズ・ファースト』が“ポスト・サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(ビートルズ)”として67年にリリースされた。
初めての世界的ヒット「ニュー・ヨーク炭坑の悲劇」に始まった5年間、ビー・ジーズは他の追従を許さないポップ・スターだった。特筆すべき作曲能力に刺激され、イギリスで発表された最初の4枚のアルバムでは彼らの才能と野望が見事に開花していた。この初期の成功期間に彼らは「マサチューセッツ」「トゥ・ラヴ・サムバディ」「ホリデイ」「獄中の手紙」「ジョーク」「ロンリー・デイ」「傷心の日々」などのヒット・シングルを立て続けにリリースしている。
79年初め、2つのナンバー1ヒットを出したにもかかわらず、ビー・ジーズの人気は衰えてしまった。折りからのグラム・ロック・ブームの中で、兄弟達はリスナーとの接続点を探すのに苦悶しつつ、新しい音楽的アイデンティティを再確立するためにマイアミへと移住することになった。そして伝説的プロデューサー、アリフ・マーディンと組み、彼らが受けた影響を反映しているソウル色の濃いレコードを作り始めたのだ。
事実、兄弟達は常に偉大なR&B音楽(レイ・チャールズ、スティーヴィー・ワンダーが特にお気に入り)に影響されていた。そして彼らにとっての初めてのダンス系ナンバー1ヒット、「ジャイヴ・トーキン」で始まった75年のカム・バックは前例のない第2のスーパー・スターダムの引き金となった。その後彼らは今まで以上にビッグになっていくのだった。
75年に発表されたアルバム『メイン・コース』(「ブロードウェイの夜」「ファニー」収録)に続き76年には大ヒットとなった『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』(「ナンバー1ヒット「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」、ナンバー3ヒット「ラヴ・ソー・ライト」を含む」が立て続けにリリースされた。77年に出された「サタデー・ナイト・フィーヴァー」は文化的現象としてだけではなく、歴史上最も売れたサウンド・トラック・レコード(4000万枚の売上げ)となりその後も「愛はきらめきの中に」「ステイン・アライヴ」
「恋のナイト・フィーヴァー」といった一連のナンバー1ヒット・シングルが続々と生まれたのだ。
78年、ビー・ジーズは夢にまで見た絶頂に君臨していた。しかし彼らはその座に甘んじることなく、チャレンジ精神を持ってスタジオに戻り、結果としてファルセット・ヴォイスが散りばめられた、今までにない最高のアルバム『失われた愛の世界』が出来あがり、2000万枚という信じられない数を売り、3枚の100万枚ヒット・シングル(「失われた愛の世界」「哀愁のトラジディ」「ラヴ・ユー・イン・サイド・アウト」)を生み出したのだった。77年から80年の間、実にシンプルに、ビー・ジーズは世界で一番ビッグなグループだった。
80年代初期、今度は休息を取る番だった。兄弟は多作のペースを落としつつも、暇な時間には作曲活動を続け、バリーが彼らのお気に入りのシンガー達の為に一連のヒット曲をプロデュースするという活動が続いた。バーブラ・ストライザントのアルバム『ギルティ』(彼女のキャリアの中で1500万枚という最も売れたアルバムとなった)、ダイアナ・ロスのイギリスでのナンバー1ヒット「チェイン・リアクション」、ディオンヌ・ワーウィックの「ハートブレイカー」、83年のナンバー1ヒット・シングルであるドリー・パートンとケニー・ロジャースのデュエット曲「アイランド・イン・ザ・ストリーム」などが挙げられる。こういったコラヴォレーションのひとつひとつが、それぞれのアーティストのキャリアにとっても画期的な出来事になっていったのだ。
90年代もグループにとって世界的な成功を収めた時代だった。91年の『ハイ・シヴィレイション』93年の『サイズ・イズント・エヴリシング』 といったヒット・アルバムを発表したのに加え、96年テイク・ザット、ニュー・トランス、ボーイゾーンといったアーティストにカバーされた楽曲がそれぞれイギリスでナンバー1ヒット・シングルとなり、彼らの作品がいかに息が長く、質が高いかを明白にした。注目に値することは、彼らが過去40年間、10年ごとにナッバー・ワン・UK・チャート・ヒット曲を書いてきたということだ(60年代、70年代、80年代、そして90年代と)。
偽りなくトップ・チャートに30年間君臨し続けた後、ビー・ジーズのキャリアにおける統計は比類のないものとなった。彼らはいつの時代においても最も成功したレコーディング・アーティストとしてプレスリー、ビートルズ、マイケル・ジャクソン、ポール・マッカートニーに続いて5本の指に入り、かるく1億枚を超えるレコードを世界中で売ってきたのだ。アメリカだけでも、彼らはシングルを700万枚売り、他の5枚のシングルも200万枚以上売れ、ゴールド・アルバム9枚、プラチナ・アルバム3枚、発売と同時に初登場1位に踊り出たアルバムを3枚生み出している。
それでもまだ、ビー・ジーズは満足していない。97年には初めて1枚のアルバムに様々なプロデューサー(デヴィッド・フォスター、ラス・タイトルマン、ヒュー・パジャム、ラファエル・サディークといったヒット・チャートに常連の面々)を迎えて制作した素晴らしいアルバム『スティル・ウォーターズ』をリリースしている。
2001/03/01更新
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