BIOGRAPHY

DERYCK WHIBLEY/ デリック・ウィブリー  (Vo./G)    
STEVE JOCZ/ スティーヴ・ジョックス (Ds)  
CONE McCASLIN/ コーン・マッキャスリン (B)
TOM THACKER/ トム・タッカー (G)


  パンクの巡業型フェスティバル、ワープド・ツアーがライヴ・バンドのリアリズムとともに北米各地に伝えた新しいパンク・ロックの価値観に刺激された若者がカナダ東部の大都市トロントにもいた。
デリック・ウィブリー(ヴォーカル&ギター/80年3月生まれ)とスティーヴ・ジョクス(ドラムス/81年7月生まれ)。トロント近郊の町、エイジャック スで暮らしていた2人の高校生は96年の夏、ワープド・ツアーを観にいき、そこでパンクの教条主義はもちろん、何にも縛られないパンクの新自由主義と解放 感に大いに刺激され、パンク・バンドの結成を思い立った。パンク・バンドを組み、世界を見てやろう。当時16歳だった彼らがそこまで考えていたかどうかは わからない。しかし、それまでやっていた放課後バンドやコピー・バンドのレベルとは違い、少なくともはっきりした目的意識を持って、バンド活動に取り組も うとは考えていたにちがいない。バンド名はワープド・ツアーを訪れた日がたまたま夏休みの41日目だったからという理由で、SUM 41に決まった。その後、何度かのメンバー・チェンジを経て、デリック、スティーヴ、デイヴ・バクシュ(ギター)、コーンことジェイ・マクキャスリン (ベース/80年9月生まれ)というラインナップが揃い、99年には、それまでせっせとさまざまなレコード会社に送っていたデモテープやホームビデオが認 められ、いきなりアメリカのメジャー・レーベル、アイランド・レコードと契約がまとまった。
  00年6月、『ハーフ・アワー・オブ・パワー』と題したミニアルバムを北米でリリース。SUM 41はレコード・デビューを飾った。当時のバンドの姿を、そのままとらえた全11曲30分弱の作品はそれほど話題になることはなかったものの、リリース 後、彼らはオフスプリングやブリンク182といった人気バンドと行ったツアーを通して、そのフレッシュな存在感をアピール。やがてバンドに吹きはじめた追 い風は、01年5月、彼らが1stフルアルバム『オール・キラー・ノー・フィラー』をリリースしたとき、全米チャートと表現されることが多いビルボードの アルバム・チャートの23位に食いこむという快挙に結実した。
  グリーン・デイ、ブリンク182を手掛けたプロデューサー、ジェリー・フィンと完成させた『オール・キラー・ノー・フィラー』は、言ってみれば、メタル だってヒップホップだって何だって、自分達がかっこいいと思えば、何でも取り入れる何物にも縛られない感性を、グリーン・デイ、ブリンク182以降の新世 代パンク・ロックとしてアピールした作品だった。「ファット・リップ」のシングル・ヒットとともに『オール・キラー・ノー・フィラー』は、その後、全米 チャートの最高13位を記録。全世界で300万枚のセールスを達成。米ローリング・ストーンや英ケラングといった一流のメディアからも絶賛された。
  輸入盤から人気に火がついたここ日本でも01年10月、『オール・キラー・ノー・フィラー』の日本盤が「かっ飛び新生児パンク・ロッカーズ」というキャッ チフレーズとともにリリースされると、髪を逆立てたツンツン頭が『ザ・シンプソンズ』のバート・シンプソンを思わせるデリックをはじめ、やんちゃな悪ガキ キャラを打ち出した4人は大歓迎された。それが現在も続いているバンドと日本のファンの蜜月の始まりだった。
翌02年2月に実現した初来日ツアーもソールド・アウトになった東京公演をはじめ、すべて大盛況だった。01年のロンドン公演を収録したDVD『イントロ ダクション・トゥ・ディストラクション~快楽と破滅への道』のリリース(02年9月)を挟んで、その8ヵ月後の10月には東名阪に加え、福岡にも足を延ば した2度目の来日ツアーが早くも実現した。そして、11月には2ndアルバム『ダズ・ディス・ルック・インフェクテッド?』をリリース。彼らだけの功績と は、もちろん言わない。しかし、快進撃という言葉がふさわしい当時の彼らの活躍が日本のパンク・シーンのすそ野を広げることに果たした役割はあまりにも大 きかった。
一度、決まっていたサマーソニック出演をキャンセルしてレコーディングに専念した、その2ndアルバムは前作の延長と言える作品ながら、グリーン・デイを 経てザ・フーに遡ったようなダイナミックなロック・サウンドとともに、以前よりも明らかにタフになったバンドの姿をアピールした。前作発表後、世界を見て 回ったことによって、歌詞で取り上げるテーマも自分の身近な事柄から戦争や青少年の自殺など、より広い視野を感じさせるものに変わりはじめた。彼らが SUM41であることに変わりはなかったものの、前作までのやんちゃなワルガキ達はもう、そこにはいなかった。すでに、この頃、デリックはバンド版のボー イズ・グループと見られることに苛立ちはじめていた。そんなバンドを、日本のファンは変わらずサポートしつづけ、彼らも日本のファンに会うため日本に足を 運ぶことを惜しまなかった。03年5月には、国内外のバンドをサポートに迎えた「SUM41フェスティバル」が東名阪に加え、福岡、札幌、仙台でも開催さ れた(その時のライヴの模様は、03年9月リリースのDVD『酒・ボム&ハッピー・エンディングス~ライヴ・イン・トウキョウ』に日本滞在中の爆笑オフ ショットとともに収録されている)。
そして、03年と04年、2年連続でサマーソニックに出演を果たした彼らは04年9月、3rdアルバム『チャック』をリリース。前2作以上にメタルの影響 を思わせるヘヴィー・サウンドを全編で繰り広げる一方で、「サム・セイ」「スリッピング・アウェイ」「ピーシズ」といったバラード・ナンバーでは、バンド の成熟を印象づけるこれまでとは明らかに違うメロディー志向をアピール。映画『ゴジラ FINAL WARS』の挿入歌に使われた本作からのヒット・シングル「ウィア・オール・トゥ・ブレイム」は、その2つの要素を1曲の中で両立させようという野心を感 じさせた。
バンドがチャリティー活動のため、04年5月にアフリカのコンゴを訪れた際、運悪く内戦に巻きこまれたメンバー達を救い出した国連職員に敬意を表して、彼の名前をタイトルにした『チャック』は全米チャート10位という前2作を上回るヒット作になった。
05年2月、2回のさいたまスーパーアリーナ公演を含む計7公演の来日ツアーが実現。バンドは、北は札幌から南は福岡まで、日本列島を縦断した。同年12月には日本限定のライヴ・アルバム『ハッピー・ライヴ・サプライズ~SUM41ライヴ・ベスト』がリリースされた。
翌06年7月、デリックは2年の交際期間を経て、同郷カナダのロック・スター、アヴリル・ラヴィーンとゴールイン。しかし、同じ頃、肝心のバンドは危機を 迎えていた。長年、活動を共にしてきたギタリスト、デイヴ・バクシュが音楽性の相違からバンドを去っていった。さらにバンドはマネージメントとも別れ、新 作のレコーディングはデリックが自らプロデュースしなければならなかった。しかし、苦境に立たされたことで、デリック、スティーヴ、コーンの3人は改めて 結束を固めると、「SUM41はもう終わりなんじゃないか」という周囲の予想を裏切って、アルバム『アンダークラス・ヒーロー』を完成させた。
メタリックなギター・プレイを得意としていたデイヴが抜けたせいか、軽快なメロディック・パンク・サウンドとともに原点回帰をアピールしつつ、ポップ・ ミュージックの影響やストリングスを使ったアレンジを取り入れることで、前作とはまた違った形でバンドとして、またソングライターとして成熟した姿を印象 づけた『アンダークラス・ヒーロー』は07年7月にリリースされ、全米アルバム・チャート7位というバンド最高のチャート・アクションを達成。日本でも前 作同様、オリコン・チャートの2位に食いこむ大ヒット・アルバムになった。
アルバム・リリース直後にはサマーソニックに出演。翌08年4月には国立代々木競技場第一体育館ライヴを含むジャパン・ツアーを行った。11月には日本だ けでシングル全曲に新曲「オールウェイズ」を加えた『ザ・ベスト・オブ・SUM41‐出血暴飲感涙ベスト‐』をリリース(その後、『All The Good Shit』と改題され、海外でもリリースされた)。翌09年4月にはパンクスプリングに出演するため来日。ヘッドライナーという大役を見事、務め上げた。
その後、デリックとアヴリルの破局を経て、バンドはついに新作に取り組みはじめた。2010年の8月には、アメリカ各地を回っていたワープド・ツアーを中 抜けして、サマーソニックに出演するため来日。その際、デリックが大阪のバーで暴行を受けケガを負ったものの、東京公演では熱演を披露。ガッツを見せつけ た。
そして、2010年の夏から何度もリリースが延期されてきたニュー・アルバム『スクリーミング・ブラッディ・マーダー』のリリース日がついに2011年3月23日に決定した。
日本デビュー10周年を迎え、かつていかにもやんちゃな悪ガキだったデリックは眉間の皺が似合う苦みばしった大人の男に成長した。バンドのサウンドもアル バムを重ねるごとに変化していった。しかし、何にも囚われずに自分達が作りたい音楽を作るという姿勢は今も何一つ変わっていない。『スクリーミング・ブ ラッディ・マーダー』を聴けば、誰もがそれを実感するはずだ。  ― 山口 智男

 
 
 

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