BIOGRAPHY

SKYLAR GREY / スカイラー・グレイ


Skylar Grey アー写Photo _C'MON スカイラー・グレイはこの一年で、最も記憶に残る曲を共作したシンガーソングライターであり、マルチ・プレイヤーでもある。2部門のグラミー賞にノミネートされたエミネムの”Love The Way You Lie”、今年のグラミーセレモニーでドクター・ドレー、エミネムと共演もした”I Need A Doctor”、今シーズンのアメリカン・アイドルでディディ 率いるグループと共演したディディ-ダーティ・マネーの”Coming Home”、ルーペ・フィアスコの”Words I Never Said”やT.I.の”Castle Walls”など、数多くのヒット曲に関わり、彼女の作品はビルボード・ホット100やiTunesのセールス・チャートを賑わした。

彼女が作ったコーラスをリアーナが歌う”Love The Way You Lie”は世界中で1,000万回のダウンロードを記録し、U.S.ポップチャートで7週間も上位を占めていた事実は25才のグレイにはっきりとしたメッセージとなった。「世の中は感情を込めた音楽に飢えていることがわかった」と彼女は言う。「近年ポップ・ラジオに欠けている要素、情熱と脆弱性を私や同じような考えを持つアーティストが取り戻せるように、何か革命を起こしたい。」

イギリスのソングライター兼プロデューサーのアレックス・ダ・キッド (ニッキー・ミナージュ、B.o.B、U2)とレコーディングした「INVINSIBLE」のリリース(来年初頭予定)で彼女はそのチャンスを手にするはず。ダ・キッドの会社、KIDinaKORNERとグレイはプロダクション契約を結び、エミネム、リアーナ、ドクター・ドレー、ディディ、ルーペ・フィアスコやT.I.とのつながりができた。2人がアルバム「INVINSIBLE」のために生み出した音楽は映画のような、ヒップホップの影響を受けたオルタナティヴ・ポップ。グレイの暗めで優美な声や心に取り憑くようなメロディにダ・キッドは独創的で歯切れのいいビートを合わせている。

歌詞の内容に関して、”Invisible”、”Weirdo”、”Building A Monster”や”Dance Without You”はグレイが変化をして世の中に居場所を捜している頃を物語っている。

「アルバムを作り始める前、人生が思い通りにならなくなり、もう自分が誰なのかわからなくなっていた」と彼女は説明する。「地に足をつけないといけないと思い、独りの時間を過ごし、その過程で自分の心の中のスーパーヒーローを発見した。このアルバムは”Invisible”という曲から始まり、私が感じてきたことをストーリーとして伝えている。”Building A Monster”は透明な存在だった自分から無敵になるプロセスを歌っている。だからこのアルバムは二つの言葉を合わせて「INVINSIBLE」にしたの。」

確かにグレイの旅は浮き沈みが多かった。グレイはウィスコンシン州の信号もない小さな村、マゾマニーでホリー・ブルック・ハファーマンとして生まれた。「マディソンまで45分運転しないと食料品が買えなかった」と彼女は言う。6才の時に母親とフォーク・ユニットを組んで、プロのパフォーマーとしてデビューし、14才になる頃には3枚のインディペンデント・アルバムをリリースしていた。「みんながポップ・ラジオでかかる音楽を聴いていて、私の音楽がカッコ良くなかったからよく虐められた。中1の時、バカにされるのが嫌で母にもうやりたくないと言ったの。その時、自分の曲を作り始めて、乗り越えられたわ」。グレイが高2の時にハイスクールを中退して、ロサンゼルスに写り、アーティストになることに真剣に取り組んだ。

グレイが17才だった2004年、ユニバーサルミュージック・パブリッシング・グループと出版契約し、ワーナー・ブラザーズ・レコード傘下のリンキン・パークのレーベル、マシン・ショップレコーディングとレコード契約した。ホリー・ブルックとしてフォート・マイナーの曲”Where’d You Go”に参加し、デビューアルバム「LIKE BLOOD LIKE HONEY」をリリースした。しかしアルバムは成功せず、グレイは契約解除を頼み、そのプロセスに1年かかり、その間は法律上音楽をリリースできない状態にあった。そんな彼女が音楽的に、芸術的に自分を表現できる唯一の方法が他の人を通して、であったので、ダンカン・シークのバンドでキーボードを弾いて、ツアーに出て生計を立てていた。「待機状態だったので、鬱になってしまった」と彼女は言う。「生まれて初めて音楽の道に進んで正しかったのかと疑問に思ってしまった。突然しっかりしていないただの23才の女になってしまった。生涯何がしたいかわかっていたつもりで有利な立場にいたと思っていたので、自分が失敗したような気持ちになっていたの。」

それからというもの、グレイは自分の将来を考えるために沿岸を北に、カリフォルニアのベンチュラにしばらくしてから南オレゴンの沿岸の小さな町に辿り着いた。ベンチュラとオレゴンの間、ベッドも無かった彼女はヨガマットの上で寝て、パートの仕事をして過ごした。「本屋で働いたり、体操を教えたり、お金がなくて車にガソリンが入れられなくて家から出られない時もあった」と彼女は言う。グレイはアパートの近くで食料を探し、近くの木からオレンジやグレープフルーツをもいでしのいだ。「今までいろんなことをしてくれたし、音楽のキャリアを信じてくれていたので両親にお金の相談はしたくなかった。彼らの期待に応えられないような気がして辛かった」と彼女は話す。

後にオレゴンまで辿りついた彼女は芸術家の静養所に受け入れられ、部屋代と食事代の代わりに雑用をしていた。「へんぴな場所の森の中の小屋住んでいて、トイレも外でしないといけなかったけど、基本だけで生きていけることがわかって、自立した気分だった」。そして思いがけない事態の展開で、彼女はマイスペースを通して裕福なファンから連絡があり、ロサンゼルスのプライベート・パーティで演奏の依頼がきた。彼女の話を聞いたファンはレコーディング・スタジオを作る資金を出し、彼女は森の中の家にスタジオを作った。「毎日音楽を作って、力強くなっていき始めて、曲がポンポンと飛び出てくるようだった。その進歩によって自信がついた彼女はニューヨークに飛び、出版担当のジェニファー・ブレイクマンに自分の音楽を聞かせた。ジェニファーはその音楽をすぐに気に入り、UMPと新しく契約したアレックス・ダ・キッドと音楽的に合うと思った。「ジェニファーはリリース前のB.o.B.のアレックスがプロデュースした”Airplanes”を聞かせてくれて、「この人だ」と思った」とグレイは言う。「とても商業的だったけどポップ・ラジオにはないオルタナティヴな要素があった。彼がアーティストとして私を理解してくれると思った。彼にメールを送って、一緒に仕事をしたいと頼んでみたら、彼はビートを送ってきて、それにフックをつけて送り返すと、それが”Love The Way You Lie”になった。数週間後、エミネムがその曲のヴァースをレコーディングし、リアーナのボーカルをフィーチャーして、アルバム「RECOVERY」に入ることがわかった。」

“Love The Way You Lie”が成功するとエミネムはグレイとダ・キッドをドクター・ドレーの待望のアルバム「DETOX」に参加するように招いた。そのコラボレーションの結果がヒット曲となった”I Need A Doctor”だった。「初めてエミネムのヴァースを耳にした時は涙が出た。その上、彼はポップ・スターを使うより私のヴォーカルで行こうと戦ってくれたの」とグレイは話す。「どん底にいた私にあんなことができるなんて、驚いたわ。」

最近ではいくつもの大ヒット曲にクレジットされ、シングル”Invisible”に続いて、アルバム「Invinsible」もKIDinaKORNER/Interscope Recordsから2012年初頭にリリースされる予定だ。グレイは音楽をやめないで本当に良かったと思っている。「他に選択肢がなかったの。これが私にできること、例え客席に一人でも私の音楽を聞いて泣いたり、感情的になってくれる人がいたら、正しい道に進んだんだとわかる。辛かった時もあったけど、その価値は充分あったと思う。」