“シングル「心の瞳」について” by 田家秀樹.

2018.01.19 TOPICS

その頃のことはあまり語られていないのではないだろうか。
殆どの方がご存じないのではないだろうか。

 12月6日、彼のシングル「心の瞳」が発売になった。
 オリジナルは1985年5月22日発売。その三か月後、8月12日に彼はこの世を去ってしまった。
つまり、生前最後にレコーデイングされた遺作シングルだった。
 作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかし、編曲・川口真というクレジットがされている。発売はファンハウスである。
 特別な音楽ファンでなくてもお気づきになるのではないだろうか。作詞・永六輔、作曲・中村八大、レコード会社は東芝というおなじみの図式ではない。84年4月に発足した新しいレコード会社、ファンハウスへの移籍第一弾。「懐かしきLove-Song」のカップリングだった。

「B面曲というはどうしても立ち上がりが遅くなるんですね。何でもっとプロモーションしなかったか、悔いがある。九ちゃんに申し訳ない気持ちで一杯でした」

 というのは今回の「心の瞳」のプロデューサー&デイレクターの元ファンハウスの代表取締役社長、新田和長である。東芝EMI第二制作部長だった彼が部署を丸ごと独立させる形でスタートしたのがファンハウスだった。この時、坂本九は第一制作部に属していた。

「東芝にとって九ちゃんは大スターでした。でも、時代の変わり目でレコードが出せなかった。シンガーソングライターの時代になって職業作家の歌をうたうのが流行らなくなった。九ちゃんも周りから厳しいことを言われたりしてたんです」

 坂本九のデビューは1959年。坂本九・ダニー―飯田とパラダイスキング「題名のない唄だけど」がヒットせずにビクターから東芝音工に移籍。その一作目が「悲しき60才」だ。当時TV放送が開始され親しみやすい風貌とキュートな歌声で一躍人気者になる。61年にはシングル11枚を発売、その中に「上を向いて歩こう」があった。63年に「スキヤキ」として全米一位。英語圏以外の曲で初の全米一位がどのくらい歴史的なことか説明するまでもない。その63年には10枚、65年7枚、66年には7枚のシングル盤を出している。東芝と言えば坂本九。洋楽が日本語の歌として親しまれたカバーポップスに始まる60年代の新しい流れの象徴が坂本九だった。
 とは言え、70年代になって彼のリリースは目に見えて少なくなっている。「心の瞳」の前に東芝EMIから出たシングルは83年11月発売の「ぶっちぎりNO 文句」。作詞・阿久悠、作曲・井上大輔、歌手は「坂本九」ではない「XQS(エクスキューズ)」だった。
今回のプロデューサーの一人、マナセプロダクションの社長、山田道枝はこう言った。

「歌手としての崖っぷちと思っていたんですね。レコードは出してもらえない、担当はいない。永さんからも坂本九という名前に頼っているから売れないんじゃないかと言われて覆面歌手で出ました。プロモーションもスーパーの袋を被るくらいの気持ちでやろうと九ちゃんは思い切ってくれました。新田さんは部署を超えて制作して下さったんです」

 「心の瞳」は単なる移籍第一弾ではなかった。
新田和長は、トワエ・モワやチューリップ、サデイステイック・ミカ・バンド、オフコース、甲斐バンド、RCサクセションら70年代の東芝EMIを築いたニューミュージックの担い手を送り出した新時代のシンボル的プロデューサーだった。彼が自分の部署を率いて独立する。そして古巣となった本体の看板アーテイストがそこに移ることがどのくらいの軋轢を生むか想像するのは容易い。
「心の瞳」は、様々なしがらみを超えて新しい音楽を求めるシンガーと制作者の新しい旅立ちの証しだった。

「これからどうするか、どんな音楽をやってゆくか。新しい坂本九の音楽をどう打ち出してゆくか、色んな話をしました。私の家にも来てくださったり、彼の自宅にも何度も行きました。彼は、自分はギターも弾いてるし、詩も書いている、自作自演もやっていきたいと言ってくれて。その中で挙がったのが荒木さんと三木さん。九ちゃんがお二人にこういうことを歌いたいという話をして生まれました」

坂本九1941年生まれ、荒木とよひさ1943年生まれ、三木たかし1945年生まれ、新田和長1945年生まれ。いずれも40代にさしかかろうという年齢。山田道枝は「みんなが僕たちの世代の歌がないねと意気投合して作ったのがこの曲」と言った。坂本九に初めて書いた作家の二人が“作詞・永六輔、作曲・中村八大”という水戸黄門の印籠のようなクレジットにどんなプレッシャーを感じたのだろう。川口真の手元には当時のスコアが保管されていたのだそうだ。「心の瞳」は、それぞれにとってこれからの音楽への想いそのものだったのだと思う。

 改めて、彼が残した曲のリストを見ていて胸が熱くなった。
 シンガーソングライターが主流になっていった75年に吉田拓郎の「襟裳岬」などを英語で歌ったニューミュージックのカバーアルバム「ターニングポイント」をナッシュビルで自主原盤制作、南こうせつの曲をシングルで出したりしている。ヤマハ世界歌謡祭の司会を長く務めていた彼が、吉田拓郎とかぐや姫の野外イベント「つま恋」を見に来ていたのを知る人がどのくらいいるだろうか。60年代の終わりに学生バンド、ザ・リガニーズを組んでヒットを出していた新田和長は「九ちゃんは新しい音楽に関心が深くて、僕らのライブを見に来てくれて「海は恋してる」を一緒に歌ってくれて感激した」と言った。
激減しているリリースは、彼の音楽への意欲と取り巻く現実が一致していなかったことを物語っている。

 ロックは10代の音楽として誕生した。
 大人はわかってくれないという行き場のなさがその根源的なエネルギーになっていた。60年代の初めはその最盛期だった。
 どう大人になってゆくか。
 60年代の前半に若くして栄光を手にしてしまった坂本九が、その壁に突き当たらなかったはずがない。“不良の音楽”と言われたエルビスのカバーを得意にしていた少年が茶の間に親しまれる存在になる。テレビ界の寵児だった永六輔ですら「人を立てるのではなく立てられる歌手であれ」と否定的だったという司会という役割もそんな試みだったのだと思う。思うような音楽が出来ない、という中での彼の拠り所が「家族」だったのではないだろうか。坂本九は「心の瞳」が出来上がって帰宅した時、奥様の柏木由紀子さんに「ユッコすごいぜ、今度の曲は僕たちの歌だ」と言ったのだそうだ。
等身大の音楽、自分が良い曲と思える曲で本当に伝えたいことを歌う。「心の瞳」は、彼がようやく手にした理想の音楽だったに違いない。
「公と私、というんでしょうか。家族が参加することはかなり迷ったんです。一番売れているコーラスの人たちに何回も入ってもらったんですけど馴染まない。どこか違う。柏木さん、花子さん、舞子さんの歌が入った時、違って聞こえた。九ちゃんの声が幸せそうに聞こえた。後から加えた感じがしない。最初からこうあるべきだったんだね、というくらいにしっくりくる。不思議だなあと思いますね」

 新田和長は、ザ・ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーチンが日本で最も信頼していた音楽人である。彼は「原則として何も変えるのはよそうねと話しました。でも、九ちゃんのボーカルにコンプレッサーをかけたりして今の音、即ち33年前の生の声にはしてます。」と言った。
 あれから33年。「心の瞳」は、関係者の予想もしていなかった中学の合唱曲として広がり、家族の手によって歌い継がれてきた。そして、今、新たな命を吹き込まれて世に出てゆく。
 音楽は死なない。
 良い曲は時代を超える、と誰もが言う。
 でも、それが現実になる例は多くない。
 僕らもやがて九さんと同じ世界に行く。
 もし、お会いする機会があれば「心の瞳、歌い継がれてますよ」と言える自分でいたいと思う。

田家秀樹