BIOGRAPHY

NO DOUBT / ノー・ダウト


No _Doubt _Photo _Push And _300CMYKLA郊外のオレンジ・カウンティ出身。87年当時16歳だった紅一点グウェン・ステファニー(Vo.)を中心に結成。当初はグウェンの兄であるエリック・ステファニーがキーボードで参加していた。現在のメンバーは、グウェンの他にトニー・カナル(B)、トム・デュモント(G)、エイドリアン・ヤング (Ds, Perc.)の4人組。結成時には地元でのギグを中心に活動していたが、間もなくバンドの精神「白人と黒人との調和=2トーン」を実践する上での要であった黒人のオリジナル・ドラマー、ジョン・フランシス・スペンスが亡くなったことにより大きな挫折を味わう。

大きな試練を乗り越えたバンドは、地道なクラブ・サーキットをこなしながら、90年にレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーのプロデュースにより、デ モ・テープを2曲制作。これには、フィッシュボーンのアンジェロがヴォーカルで参加した。91年、インタースコープと契約し、翌92年にはデビュー・アルバム『NO DOUBT』をリリース(日本での発売は96年8月)。 その後精力的なツアーをこなしつつ、アルバムのために60曲以上の楽曲を用意、3年近い歳月をかけて2ndアルバム『トラジック・キングダム』を完成させ、95年10月(日本盤は96年6月)リリース。アルバムは、96年初頭には全米トップ100入りを果たし、アルバムからのシングルも「ジャスト・ア・ガール」、「スパイダーウェブス」と連続ヒットを記録。96年9月には待望の初来日公演を敢行、満員のオーディエンスをそのパワフル&カラフルなパフォーマンスで魅了。地道なライヴ活動からトップの座まで上り詰めた彼らの実力を見せつけた。この間もアルバムはチャートを上昇しつづけ、第3弾シングルとなった「ドント・スピーク」も大ヒットを記録。そして96年12月21日付の全米アルバム・チャートで、何とリリース以来14ヶ月を経てついにナンバー・ワンの座を獲得。最終的に9週連続で1位をキープし、トップ10に36週間ランクインという偉業を達成。97年6月には「エクスキューズ・ミー・ミスター」と「サンデー・モーニング」の両シングルを日本独自企画でカップリングした第4弾シングルをリリース。同年11月には、『トラジック・キングダム』用にレコーディングしたものの結局収録されなかった楽曲を加えて、インディか ら95年に発売していた幻のアルバム『ザ・ビーコン・ストリート・コレクション』を再リリース。また、97年12月には彼らのワールド・ツアーの様子を収 めた初のライヴ・ビデオ作品『ライヴ・イン・ザ・トラジック・キングダム』もリリース。

制作に2年近くを要したアルバム『リターン・オブ・サターン』は2000年4月発表され、2ヶ月足らずでプラチナ・ディスクを獲得。同年秋には2度目の来日 公演を果たす。バンドが再びアルバムの制作に入った2001年も、グウェンがフィーチャーされたEVEの「レット・ミー・ブロウ・ヤ・マインド」がロング ヒットを記録するなど話題の絶えなかった。そしてその年の最後を飾り、アルバム『ロック・ステディ』を12月リリース。「ヘイ・ベイビー」を始めシングルも続々ヒットし、アルバムもマルチ・プラチナを記録。

02年、8月にサマーソニックで来日。またこの年に発表されたグウェンとBushのGavin Rossdaleの結婚はさまざまなメディアを賑わせた。03年、グラミー2部門受賞。グウェンのファッション・ブランド”L.A.M.B.”の設立に映画出演決定等、ノー・ダウトは音楽だけにとどまらない圧倒的”カリスマ”として快進撃を続けた。

04年にはグウェン・ステファニーがソロ・アルバム『ラヴ・エンジェル・ミュージック・ベイビー』をリリース。全米シングル・チャートで4週連続ナンバー・ワンを獲得した「ホラバック・ガール」、「リッチ・ガール Feat.イヴ」、「クール」、「ラグジュアリアス」、「ホワット・ユーア・ウェイティング・フォー」といったシングルを量産。
06年にはセカンド・アルバム『スウィート・エスケイプ』(日本盤は07年)をリリース。

09年より、ノー・ダウトとしての活動を再開。ツアーを敢行、ニュー・アルバムの制作に取り掛かる。そして、2012年5月遂に、『ロック・ステディ』以来となるニュー・アルバムを9月にリリースすることを発表!!