BIOGRAPHY

JoJo 


BioJOJOのニュー・アルバム『Jumping Trains』は、”強さ”と”弱さ”との折り合い地点を絶え間なく探りながら、同時に元気の出る心地良いヴァイブを放っている作品だ。「私は自分の音楽を、”怒りを他人にぶつけないよう抑えることに手を焼いているポップ”と呼んでいるの。少しイラっとした感じの、高ぶった気持ちが表現されてるから」と語る、現在20歳のシンガーソングライター。「本気でキレるつもりなのかはともかくとしてね。でも若い女性達が実際に体験しているリアルな物語を描くことが、私には重要なのよ。私だって、何でもお見通しなわけじゃない。間違った判断を下して失敗することもあるわ。でも正しい判断をすることもあるから、私は他の人々のことも、そういった旅路に連れ出したくなるの。音楽がすごく助けになるってことを私は知ってるから。人々が自分の思いを表現できずにいる時は、私がそれを代弁したい。例えば、ジョニ・ミッチェルやジル・スコット、ディアンジェロ、ジョン・メイヤーといった、大好きなアーティスト達が私にそうしてくれたようにね」。 自ら紡いだ物語と魅力的なメロディが展開される『Jumping Trains』を制作するにあたり、多数の一流プロデューサー陣に協力を求めたJOJOJ。そこには、ロドニー・ジャーキンスや、ダ・インターンズ(Da Internz)、ダンジャ(Danja)、マリオ・マルケッティ(Mario Marchetti)、そしてザ・メッセンジャーズといった顔ぶれが含まれている。そして彼らは、悲痛なほど正直であると同時に、徹底して現代的なサウンドを鳴らす作品を創り上げるために、JOJOのソウルフルでエネルギッシュなヴォーカルを、フレッシュかつシャープなビートでしっかりと支えた。そして完成したのが、マサチューセッツ出身のこのアーティストの堂々の復活を示す本作である。彼女は13歳の時に自らの名を冠したアルバムでデビューし、同アルバムでプラチナを獲得。ゴールドに輝いた次の『The High Road』をリリースしたのは、15歳の時だった。本アルバムの幕開けを飾る、第一弾シングルの「ディザスター」は、才能溢れる新進気鋭のマリオ・マルケッティがプロデュース、JOJO自身とジーノ・バレッタ(Gino Barletta)が作詞・曲を手掛けている。 「私には、新人アーティストの渇望感があると同時に、この業界で8年間を実際に過ごしてきた経験があるのよ」とJOJO。「そのことを私は何よりも大切にしてるわ。それって強みだものね。私と同年代のほとんどの女の子は、『自分が何をしたいのか』ってことで悩んでるでしょ。私には、もうそれが分かっていて、しかも長い間それをやってきてるってことは、すごく幸運だと感じてるのよ。『The High Road』を出して以来ずっと、私は途切れることなく曲作りとレコーディングを続けてきた。だから『Jumping Trains』に収録されている曲は、進化しながら形になってきたものなのよね。どういったサウンドにすべきか、また作品全体として何を表現すべきかに焦点を絞るまでには数年かかったわ。これほどまで時間がかからなければ良かったのに……とは思うけど、でももしここまで待たなかったら、自分自身ものすごく気に入っている曲が収録されることもなかったでしょうしね」。 JOJOがこれまでたどってきた旅路は、常に音楽で満たされていた。「歌わないで過ごしていた記憶がないのよ。母が言うには、私は生後2日目から、何か声を発していたんですって。もちろん生まれたばかりの赤ちゃんは泣き叫んでいるのが普通だけど、母ったら、私が意思に基づいてそうしていたんだって主張したがるのよね」と、JoJoは笑いながら語る。音楽好きの両親のもと、ヴァーモント州ブラトルバロで誕生したJOJO。本名はジョアンナ・レヴェック(Joannna Levesque)。そして両親の離婚後、4歳の時に母親と共にマサチューセッツ州フォックスパロに引っ越した。「母と私は、1つの部屋で同じベッドを共有して暮らしていたの。壁の塗装が剥げて、私の食べるシリアルの中に落ちてきたこともよくあったわ」と、幼い頃のことを回想する彼女。「裕福じゃなかったけど、母は決して、私に『愛されていない』とか『ちゃんと面倒を見てもらっていない』とか感じさせることはなかったわ」と、彼女は言う。「私が安心して暮らせるよう、母は必死に働いていたし、どんな課外活動にも参加させてくれたのよ」。成長していく過程でJOJOは、エタ・ジェイムズやアレサ・フランクリンから、ジョニ・ミッチェルやジェイムズ・テイラーまでといった、母親が所有していたソウルやフォークのレコードに夢中になり、またホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリーにも傾倒。「イン・シンクやバックストリート・ボーイズも良いと思ってはいたけど、聴いていたのはエラ・フィッツジェラルドやジョージ・ベンソンだったのよね」とJOJO。「私はひどい変わり者だったのよ。自分で初めて買ったアルバムは『ベスト・オブ・ジョージ・ベンソン』だったわ」。 様々なショーケースやコンテストでステージに立ち、経験を重ねていったJOJOは、7歳の時にビル・コスビーが司会する米CBSの人気オーディション番組『キッズ・セイ・ザ・ダーンデスト・シングス』に出演。8歳の時には初のレコード契約をオファーされたが、「娘はまだ若過ぎる」と感じた母親が、そのオファーを断っている。11歳になって有名オーディション番組『アメリカズ・モスト・タレンティッド・キッズ』に出演した後、JOJOは<Da Family Entertainment>と契約。2004年に<Blackground/ユニバーサル・モータウン>を通じ、デビュー・アルバムをリリースした。『JOJO』と題したそのデビュー作は、全米ビルボード・チャート(トップ200)で4位にまで上り詰め、米国ではプラチナ・ディスクを獲得。そして同作収録の「Baby It’s You」や、トップ40チャートで1位を飾りゴールド・ディスクにも輝いた「Leave (Get Out)」といったヒット・シングルの成功に後押しされ、世界中で300万枚を売上げた。その時、JOJOは13歳。”全米チャートでNo.1を獲得した最年少ソロ・アーティスト”という記録も樹立している。2006年には、セカンド・アルバム『The High Road』をリリース。同アルバムはビルボード・トップ200で3位にチャートインし、ヒット・シングル「Too Little Too Late」を世に送り出した。このシングルは、前週の66位から一気に3位にジャンプアップを果たし、ビルボード史上における”上位3位への1週間での最大ランクアップ記録”を新たに塗り替えている。そしてJOJOは2010年、初のミックス・テープ『Can’t Take That Away From Me』をリリース。これは発売初週だけで、18万5000ダウンロードを達成した。 才能豊かな女優でもあるJOJOは、シットコム『バーニー・マック・ショウ』やドラマ『アメリカン・ドリームズ』といったテレビ番組にも出演。また映画『RV』(主演はロビン・ウィリアムズ)や『愛しのアクアマリン』にも出演を果たし、後者では『ティーン・チョイス・アワード』(※米『ティーン・ピープル』誌が主催する賞)の『チョイス・ブレイクアウト(女性)』部門にノミネートもされた。また彼女は、「Leave (Get Out)」でビルボード音楽賞の2部門にもノミネート。そしてMTVビデオ・ミュージック・アワード(VMA)では『ベスト・ニュー・アーティスト』部門にノミネートされ、VMA史上最年少の候補となった。 「成功に備えて、前もって心の準備をしておくことなんてできないものなのよね」と、幼くしてスターダムを駆け上った自身の経験についてJOJOは語る。「自分自身がもっと深く関わっていたら良かったのに……とは思うわ。でも13歳の子が、世界中を飛び回りながら自分で稼いでいたりしたら、周りが見えなくなってしまっても無理はないのよ。私は自分を見失ったりはしなかったけど、でもそれがどれほど素晴らしい、またとない機会だったかってことを、きちんと理解していたとも思ってないのよね」。 アルバム『Jumping Trains』(Blackground-Interscope/Streamline)のリリースを前に、JOJOが最も感謝しているのは、彼女を支えてきてくれたファンに対してだ。「私のファンの人達は、打たれ強くて粘り強いのよ」とJOJO。「そんなファンが大勢いてくれて、彼らのメッセージのおかげで、私は辛い時期も乗り越えられた。彼らに対して私は責任を負っていると感じてるから。ずっと私を信じて付いて来てくれた彼らに、この作品を届けたいのよ。彼らはそれに値するわ。私と一緒に待ち続けていてくれた、本当に熱心な人達は特にね。私は彼らに、誇らしい気持ちになってもらいたい。『Jumping Trains』は待った甲斐のあるアルバムだ、と感じてもらいたいのよ」。