BIOGRAPHY

JOHN SYKES / ジョン・サイクス


◆ ’59年7月29日、イギリスのレディングで生まれる。10代前半、両親の仕事の都合でスペインのイビサ島に移住。ここでギターを学び、ブルースに熱中する。

◆ ’70年代後半、イギリスに戻り建築関係の仕事に就くが、コロシアムⅡでのゲイリー・ムーアのプレイを観てミュージシャンになることを決心。ローカル・バンドで活動を始める。

◆ ’81年、タイガース・オブ・パンタンに加入。若手実力派ギタリストとして一躍脚光を浴びる。アルバム「スペルバウンド」と「クレイジー・ナイツ」に参加したが、翌年脱退。オジー・オズボーン・バンドのメンバー候補として渡米するが、実現せずにイギリスに戻る。

◆ ’82年夏、MCAとソロ契約を結び、初のソロ・シングル「プリーズ・ドント・リーヴ・ミー」をリリース。この曲はシン・リジィの故フィル・ライノットとの共作で、フィルがヴォーカルも取っている。

◆ ’82年秋、シン・リジィに加入したが、数ヶ月後バンドは解散を宣言。結局シン・リジィ最後のギタリストとして、最後のスタジオ・アルバム「サンダー・アンド・ライトニング」と、ライブ・アルバム「ラスト・ライブ」に参加。最後のワールド・ツアーの一環として、初めて日本でプレイする。翌年8月、シン・リジィ正式解散。

◆ ’83年末、ホワイトスネイクに加入。すでにレコーディングが終了していた「スライド・イット・イン」をアメリカ向けにリミックスするために、ジョンが録音をし直す。翌年8月『スーパーロック’84』に参加するため来日。

◆ ’85年、ホワイトスネイクのニュー・アルバムのレコーディング中、ジョンが再びフィル・ライノットと行動をともにしたため、ニュー・バンド結成が噂されたが、フィルは’86年1月に死亡。ホワイトスネイクはレコーディング終了後、デイヴィッド・カヴァーデール以外のメンバー全員を解雇。このアルバムが「白蛇の紋章」(ほとんどの曲がジョンとデイヴィッドによる共作)であり、翌年リリースされ驚異的なセールスを記録。

◆ ’87年、この頃から本格的に活動の拠点をロサンゼルスに移し、コージー・パウエル、トニー・フランクリン、レイ・ギランとブルー・マーダー結成。ゲフィン・レコードと契約を結ぶが、レイとコージーが共に脱退してしまう。

◆ ’88年、カーマイン・アピス(ds)がブルー・マーダー加入。結局ジョンがギター&ヴォーカルを担当し、トニー(b)を含めたトリオで活動することになる。’89年4月、デビュー・アルバム「ブルー・マーダー」をリリース。8月には来日公演を行う。しかし、ジョン自身は思い悩み、沈黙状態に入ることになる。その間、カーマイン、トニーが別のプロジェクトに参加。ブルー・マーダー解散説が流れる。

◆ ’93年9月、アルバム「ナッシング・バット・トラブル」をリリース。ジョン(g&vo)、マルコ・メンドーサ(b)、トミー・オースティン(ds)、ニック・グリーン(key)、ケリー・キーリング(b-vo)というラインナップになる。12月に来日公演を行い、その模様を収めたライブ・アルバム「スクリーミング・ブルー・マーダー」を翌年3月にリリース。

◆ ’94年8月、イギリスで行われたシン・リジィのトリビュート・イヴェントに参加。11月にはシン・リジィのヴォーカリスト&ギタリストとして来日公演も行っている。

◆ ’95年8月、マーキュリー移籍第1弾アルバム「アウト・オブ・マイ・トゥリー」を自らの名前”サイクス”のバンド名でリリース。内容的にも心機一転、自らのルーツに戻ったギター・オリエンテッド・アルバムで、12月に来日公演。翌年初め、アイルランドのダブリンでのフィル・ライノットの没後10年を記念したシン・リジィ・リユニオンに出演。

◆ ’97年10月、初のソロ名義によるフル・アルバム「ラヴランド」(ストリングが加わったバラード・アルバム)をリリース。12月には、サイクスでのアルバム「20thセンチュリー」をリリース。ベースのマルコを残し、ドラムスはサイモン・フィリップス、トミー・アルドリッジ他のセッション・ミュージシャンで固めた意欲作。翌年来日ツアーを行う。

◆ 2000年10月、3年ぶりとなるアルバム「ニュークリア・カウボーイ」をリリース。ブルー・マーダー時代のメンバー、カーマイン・アピスやトニー・フランクリンも参加し、ドラム・ループやプログラミングといった今までジョン・サイクスのアルバムにはなかったようなサウンドを取り入れている。