BIOGRAPHY

1 (124)ロンドンから車で約1時間あまり走ると、長く続いていた郊外の景色が田舎の草原の景 色に変わる場所がある。そこがヒッチンだ。リズムズ・オブ・ザ・ワールズ・フェスティバルで知られるヒッチンは、25歳のシンガーソングライター、ジェイムズ・ベイの故郷でもある。まさに、美しい旋律と生々しい感情を表現した歌詞が魅力的な、イギリスの歴史に残るヴォーカリストやソングライターを生み出す 雰囲気のする土地だ。「僕は人々の心の琴線に触れ、感動させられるような音楽を作っていきたい」とベイは言う。

ジェイムズ・ベイは年齢に似合わず落ち着いた物腰の、才能豊かなアーティストだ。ギタリストとしての腕もすばらしいが、それ以上にソングライターとしての才能が際立つ。魂を込めて歌うスタイルが特徴的で、マイルス・デイヴィス、ブルース・スプリングスティーン、ジェイムス・ブレイクといったアーティストのように、リスナーの心を激しく動かす音楽を追求している。「人間らしさや情緒を大切にしたい」と本人が言うとおり、彼は自らの内面を深く表現した曲を私たちに聴かせてくれる。「さじ加減が難しいけど、音楽を聴けば分かってもらえると信じている。曲作りのプロセスはとても個人的なものだから、人と共有しにくい時もあるだろうけどね」とベイは言うが、彼の世界観や、人生における愛と喪失といったテーマは、リスナーの心に直接訴えかける力がある。

ベイがギターに熱中し始めたのは11歳頃のことだ。ある日、ベイは父親に、ギターを見せてほしいと頼んだ。15年も前にベイの父親が叔父から買いとったものの、全く使わず、ずっと食器棚の中でほこりをかぶっていた古くてみすぼらしいギターだ。「それまでにも2、3回見たことはあったけど、何もしなかった。だけどあの日、僕はあのギターを食器棚から出そうと心に決めた。5本の弦は全部さびていたけど、食器棚を開けてギターを手に取った瞬間、それまで味わったことのない喜びを感じた」とベイは回想する。「最高の気分だった」と。そして、当時まだ10代前半だったベイは、「音楽を作ったり聴いたりしてみたい」という思いを強く抱き、父親と地元のギターショップに行ってギターを修理してくれるよう依頼した。「具体的にどうしてほしいのか分からなかったけど、とにかく、今よりもいい状態にしてくれ、とお願いしたよ」。彼はそう言った。ベイはまず学習用CDを使ってギターを練習しようとしたが、耳で聴いたものを真似する方がずっと楽しいことが分かり、その練習法は挫折。ヴァン・モリソンやデレク・アンド・ザ・ドミノスの『いとしのレイラ』などに合わせてギターをかき鳴らすようになった。「カッコいい音だと思ったものを勝手に弾いていただけさ」とベイは笑う。また、グリニッジ・ビレッジフォークやモータウンのレコードコレクションを両親から勝手に拝借し、練習に使っていたそうだ。当時の彼にとってギターはもはや単なる趣味ではなく情熱の対象だった。近所の人たちは「アンプの音量を下げろ」といつも彼に文句を言っていたらしい。「とにかく刺激を求めていた」とベイは回想する。「窓が揺れるほどの興奮が欲しかったんだ」。

その後、思春期にさしかかったベイは兄弟と友人たちでバンドを組むようになった。そのバンドでベイがフロントマンになることはなかったが、彼は「このままじゃ終わらない」とずっと思っていたという。「いつか前に立ってパフォーマンスができるような人間になってやるってずっと思っていた」と彼は言う。そして16歳の頃、バンドではなくソロアーティストとして、自作曲をパブで歌うことにした。「僕の歌で酔っ払いを黙らせることができるかどうか試したかった」そうだ。ベイは、自身と兄弟が所属するバンドのライヴの前座として、初めてソロパフォーマンスを行った。「何人かの酔っ払いは黙らせることができたけど、しゃべり続けてるヤツらもいた。だけど楽しくて、“また絶対にやりたい”と思ったんだ」。

18歳の時、ベイはヒッチンを出て、海沿いの町ブライトンの学校でギターを学び始めた。ブライトンは、ベイのソロ・アーティストとしての道のりが本格的にスタートした場所だ。画家および製図家としての才能も発揮していたベイは、長い間、美術を学びたいという思いも持っていたが、最終的には美術ではなく音楽の道を選んだ。「ギターを弾く手を止めて、“これはただの趣味だ”なんて言えなかった。自分の気持ちに嘘はつけないと思ったんだ」とベイは振り返る。ブライトンに引っ越して間もなく、ベイは町に点在する小さなライヴハウスで週に5日、演奏したりオープンマイクでパフォーマンスをしたりするようになった。「最初の場所がイマイチでも、少し通りを歩けば、次の場所でまたパフォーマンスができた」と彼は言う。ベイはブライトンで心地よい暮らしをしていたものの、3年という学校の長いコースを最後までやり遂げることはできなかった。ある日、学校主催のライヴに出演したベイが、レコード会社の人々の目に留まったからだ。ライヴ前日の夜、ベイのパフォーマンスをインターネットで見かけた彼らは学校に連絡を取り、ベイの出番がいつなのか聞きだした。ライヴ出演者は25組で、ベイは1曲だけ披露する予定だった。そのたった1曲を聴くために、彼らはわざわざ翌日、ロンドンから車を走らせたのだ。

そしてベイは、ロンドンに引っ越すことになった。「ロンドンはいつも僕の心の中にあった。アメリカではロスとかニューヨークだけど、イギリスじゃロンドンが音楽の中心地だからね」とベイは言う。ロンドンでライヴパフォーマンスの評価を高めると、大きなチャンスがどんどん舞いこむようになった。2013年の夏には、ハイド・パークで開催されたローリング・ストーンズのライヴの前座に選ばれた。ベイは初めてロスに滞在している時にその知らせを聞き、「椅子から落ちそうになった」と述懐している。ベイはまた、ZZ・ワード、コーダライン、トム・オデール、ジョン・ニューマン、ベス・オートンなどのツアーにも同行し、ロスのトゥルバドゥールやサンフランシスコのフィルモアなど世界的に有名な場所でライヴも行った。

ある晩、彼の人生を変える大きな出来事が起こった。ロンドンのケンティッシュ・タウンのパブで行われたベイのソロライヴに感銘を受けた観客が、ライヴの動画をユーチューブに載せたのだ。そして数週間後、その動画がリパブリック・レコードのA&R重役の目に留まった。「あれは決定的な出来事だった」とベイは断言する。「1週間後、リパブリック・レコードは僕をニューヨークに連れていってくれた。そして関係者たちに会い、その場で契約を結んだんだ。遠く離れた場所にいた人たちなのに、パブで僕のライヴを聴いてくれていたような不思議な感覚だったよ」

制作に約1年かかったベイのデビュー・アルバムが、ついに発売される。キングス・オブ・レオンの長年の共編者かつトム・ウェイツのエンジニアだった ジャクワイア・キングをプロデューサーに迎え、ナッシュビルにある有名なブラックバードスタジオでレコーディングを行った力作だ。ベイは、キングス・オブ・レオンのCDで名前を見つけた時に初めて、ジャクワイア・キングが著名なプロデューサーだったことを知ったという。「リストの一番上のところに彼の名前があったんだ」とベイは言う。もともとは、キングの知り合いがケンティッシュ・タウンのパブでライヴをするベイの動画をキングに送ったことがきっかけだった。動画を見たキングが「ぜひ彼と一緒に作品を作りたい」と返事をし、プロデューサーを務めることになったのだ。「本当にびっくりしたよ」とベイは言う。「ある日突然、ちっぽけな自分の家でジャクワイア・キングとスカイプをしているっていう状況にね」。ベイはイギリスとアメリカのツアーの合間をぬってブラックバードスタジオに通い、レコーディングを行った。「本当にぶっとんだ日々だったよ」世界一と称されるほどハイスペックなスタジオであるブラック バードスタジオを使ったベイは言う。「まだ信じられない気分だ。ウィリー・ネルソンのような大物が来る場所に僕がいるなんて!」。彼がEP『レット・イット・ゴー』をレコーディングしたのもブラックバードスタジオだ。『レット・イット・ゴー』EP は、5つの情熱的なフォークソングを収録したすばらしい作品だ。ゴスペルからドライブ向きのロックまで幅広い音楽性を感じさせるソウルフルな傑作『イフ・ユー・エバー・ウォント・トゥー・ビー・イン・ラブ』も収録されている。

2014年、ベイはイギリスで開催された様々な音楽祭に出演した。初出演となるグラストンベリー・フェスティバル、スコットランドのティー・イン・ザ・パーク、そしてロンドンのクラッパム・コモンで行われるコーリング・フェスティバルではスティーヴィー・ワンダーの前座に抜擢された。同年秋にはホージアのアメリカツアーの前座も務めた。一方、彼の美術に対する愛情も冷めておらず、ツアー中にはスケッチや絵を描いている。「音楽とは出会ってすぐ恋に落ちたけど、美術への愛はもっと前からあった」と彼は言う。最近ひさしぶりにカンバスを買い、今はお気に入りの作家であるジェイムズ・ボールドウィンを描いているそうだ。『アメリカの息子のノート』で知られるボールドウィンについて、ベイは「ジェイムズ・ボールドウィンほどカッコいい男は、滅多にいない」と 主張する。ベイは風景や静物画には興味がなく、人間の表情を描きたいと言っていた。音楽同様、美術の世界でも彼は人間との関わりを追求しているのだ。