音楽評論家の富澤一誠氏から「想送歌」へのコメントが届きました。

2012.12.28 TOPICS

音楽評論家の富澤一誠氏から「想送歌」へコメント頂きました!


『時代は今、Hilcrhymeの「想送歌」のような”文芸ラップ・ラブレクイエム”を必要としている!』

 2011年3月11日の東日本大震災以降、”死”が大きなテーマとなっている。
必然的に歌の究極のテーマは”死”と言っていい。

 死と音楽は昔から密接な関係にある。死者の霊を天国に導くために、
残された者の心を癒すための葬送曲(レクイエム)。
そんなレクイエムは14世紀に基本的な形式が確立されたが、
18世紀になると管弦楽を伴う作品が多く書かれ始めた。
日本でも太古より死は歌のテーマとして扱われてきた。
万葉集の中には亡くなった人を追悼する”挽歌”が263首もあり、
これは万葉集全体の5,8パーセントにあたるほどだ。

 しかし、死をテーマにした現在の歌はレクイエムとは違う。
万葉集の”死の歌”は親しい人の死の心の痛みを
やわらげるためのものであったのに対して、現在の”死の歌”は、
愛しい人や大切な人との別れの場合がほとんどだ。
愛しい人や大切な人の死というのはかけがえのない”愛”を失うこと。
それは想像を絶するほど悲しく、苦しいことだ。
愛とか幸せは、あるときには気づかないもので、失ってはじめて
そのかけがえのなさに気づかされる。そして愛しい人や大切な人と
過ごした幸せな日々を振り返って精算する。
この苦難を乗り越えてはじめて”死”を現実のものとして受け入れ、
次のステップに進むことができるのだ。愛しい人や大切な人の死によって、
残された者の心の中で起こるドラマティックな変化。
このドラマティックさゆえに”死”が歌の”究極のテーマ”となるのだ。

 Hilcrhymeの「想送歌」はまさに”死”をテーマにした究極のラブソングである。
人は死を迎えたとき、愛しい人や大切な人に何を伝えたいのか、
また、残したいのか?そんな自分の”想い”を何に託すのか?
形見として形の見える物として残すのか否か、人それぞれに違いない。
ただひとつ共通していることは〈想いを残すこと〉で、残す方法が違うだけだ。
ある人は”言葉”として文章で残す人もいるだろうし、Hilcrhymeは「想送歌」という
“音楽”で残した。では、あなたは”あなたの想い”を何で残すのか?
「想送歌」を聴いていると、そんなメッセージが飛んできて、
こちらの心がドラマティックに動き出すのだ。
その意味では、「想送歌」は聴き手の心に浸透してきて”波紋”を起こす
文芸度のきわめて高い純文学作品のようだ。
Hilcrhymeが生み出した〈文芸ラップ〉はさらに進化して、
「想送歌」で〈文芸ラップ・ラブレクイエム〉に昇華したようである。

 東日本大震災以降、時代が必要としているのは「想送歌」のような
〈文芸ラップ・ラブレクイエム〉である、と私は確信している。

富澤一誠