BIOGRAPHY

THE FEELING / ザ・フィーリング


Bio (写真左から)
ケヴィン・ジェレマイア (G)
リチャード・ジョーンズ (B)
ダン・ギレスピー・セルズ (Vo&G)
キアラン・ジェレマイア (Key)
ポール・スチュアート (Dr)

 

 

 

 

●サセックス出身(ダンのみロンドン)のロック・クインテット。メンバーが出会い音楽活動を共にして約15年。
●2000年初頭にはアルプス地方でカヴァー・バンドとして数シーズン演奏を活動を行い、80年代のヒット曲などのエッセンスを習得。キャリアに裏付けられた技術を持つミュージシャンの集合体である。
●ダン(Vo&G)は卓越したメロディ・センスを持つソングライター。例えるなら1人レノン&マッカートニー、1人ベッカー&フェイゲン、1人ゴドリー&クレーム。彼の作品を完璧に体現するのがザ・フィーリングなのだ。
● バンド名は、アルプスからロンドンに車で戻る途中、パリで見かけたバーのネオン・サインから取ったそうだ。

― 2006年、デビューと同時に音楽シーンの中心に躍り出る!―
シングル「ソーン」(全英初登場7位)、「フィル・マイ・リトル・ワールド」(同10位)&デビュー・アルバム『ザ・フィーリング』(全英初登場2位)
「捨て曲がひとつもない、全部が強力なナンバー。歴史に残る傑作だ」(ダン)。また「華麗なる大作」(リチャード)でもあるが、「無駄なものを削ぎ落としたアルバム」(ダン)でもある。このアルバムでは、エルトン・ジョンの初期のレコード、ビートルズのラスト・アルバム、カーペンターズ、を理想として目指した作品。

― 2007年、ファースト・アルバムがもたらした大きな勲章とセカンド・アルバム制作 ―
ザ・フィーリングのセカンド・アルバムの制作は長期間に亘るアメリカ・ツアーから舞い戻ってきた2007年5月に始まった。6週間で30公演のツアーはコーチェラ・フェスティヴァルで最高潮に達する素晴らしいものとなった。イギリスのフェスティヴァル出演と野外で開催されるヘッドライン・ショウは残されているが、16ヶ月にも及ぶ途切れること無く続いたツアーはようやく終わりを迎えたのだ。

ザ・フィーリング旋風が巻き起こる中(を迎える喝采の中)、イギリスで最も人気があるバンドへと上り詰めた。200を超える公演を行い、音楽的に高い評価を得たデビュー・アルバム『ザ・フィーリング』(Twelve Stops And Home’)は100万枚以上のセールスを記録した。豊かな心を表現し、ベロクロ・テープのようにくっついたら離れないキャッチーな「ソーン~君でいっぱい」、「フィル・マイ・リトル・ワールド」、「ネヴァー・ビー・ロンリー」、「ラヴ・イット・ホエン・ユー・コール」の4曲は正真正銘のヒット・シングルとなり、ラジオ番組の制作者たちからバンドにとってヒーローであるエレクトリック・ライト・オーケストラ、スーパートランプ、クイーン、そして10CCと同じように重要な存在だと称えられた。事実、ザ・フィーリングは2006年イギリスのラジオで最もプレイされたバンドとなり、97,436回という驚くべきオン・エアを記録した(一日平均267回)。

世界中をツアーで廻った際にバンドは、インスピレーションの源となるようなアーティストであるカーペンターズのリチャード・カーペンターとの夕食を楽しみ、ラスヴェガスではエルトン・ジョンの楽屋に招かれ、日本ではメタリカの4人とバックステージで談笑した。若死にする前にトップ・オブ・ザ・ポップスに何とか3回の出演を果たし、2007年のブリット・アワーズの最優秀シングルにノミネート、そしてザ・フィーリングのファンにはデビー・ハリー、ヘレナ・クリステンセン、キーファー・サザーランド等の著名人が名を連ねる。「僕らはデビュー・アルバムで素晴らしい経験(時)を過ごしたんだ」、フロントマンのダン(Vo&G)は微笑みながら回想する。

狂想曲の様な日々を終えて一段落したザ・フィーリングは仕事から離れた完全休養を取ることを決めた。「だから12日間の休養をとったんだ」、ダンは説明する。「しかし、正直なところたったの12日間のオフで何十年も仕事から離れている感じがしたよ。僕らは新しい音楽制作にどうしても取り掛かりたくて仕方がなかったんだよ」

10代でザ・フィーリングを結成して13年、彼らは長期間レコーディングの作業から離れることは殆ど無かった。「スタジオに戻りたくて本当にうずうずしていたんだ」、リチャード(B)は語る。

ザ・フィーリングは不機嫌振りを装ったり、現在の生活がどれだけ大変かということを歌にして成功を勝ち得たバンド群の1つではないことに気付くだろう。最終的に彼らが過去に幾つかのスキー・シーズンをカヴァー・バンドとしてアルプスで過ごし、一晩に2つのバーで2ステージを機材運搬など全てをこなしてきたバンドだからだろう。「それは凄くキツイ仕事だったよ。鼻くそみたいなお金のためにさ」、ダンは当時を振り返る。「それでもやったんだ。だって好きだったからね。今でもやるよ」

ザ・フィーリングは、アメリカから戻って来てからの2週間後にはウィルトシャー州へセカンド・アルバム制作を始める為に向っていた。ファースト・アルバムの殆どはジェレマイア兄弟の両親が所有する倉庫(小屋)で制作されていた。「今回はあの現場での作業/経験を再現したかったんだ。いろんなスタイルに挑戦しながら(前作よりもより幅広い音楽スタイルと共にね)。自分たちの機材を全て持ち込めて、いつでも好きなだけ大きな音が出せる人里離れた、隔離されたような場所が欲しかったんだ」、ダンは説明してくれた。

バンドがようやく見つけたのがブラッドリー・ハウス。寝室を10も擁するチューダー様式の歴史的な家(ケヴィン(G)はヘンリー8世がかつて所有していたという曰くつきのベッドで寝たことがあり、キアランはある晩幽霊を見たと確信している)。驚くべきことに、予算上の選択でブラッドリー・ハウスをスタジオとして使用することを決定したのである。そこの1週間賃貸料金は大きな伝統的なスタジオを2日間使用するよりも安かったのだ。

ブラッドリー・ハウスに着くと、バンドは直ぐにダンがファースト・アルバム完成後に書き溜めた20を超える大量の作品群の作業に取り掛かった。「プロデューサー、エンジニア、食事の手配をしてくれる人、マネージメント・スタッフ、レーベル・スタッフも誰一人居なかった」、リチャード(B)はどんな環境だったのか説明してくれた。「本当に僕らだけだった。夜はぐでんぐでんになるまで飲んで、深夜3時から演奏を始めるようなことがやりたかったんだ。本能的で、直感に従って音楽を作り上げる感じだった」、ダンは付け加えた。「凄く楽しかったよ」

受けるに値するアイヴァー・ノヴェロ・アワードの授賞式で最優秀ソングライター賞を受け取るために1日のオフを撮ったにもかかわらず、高い生産性の保った2週間の内にザ・フィーリングは4曲のレコーディングを済ませた。2007年夏、週日はブラッドリー・ハウスでのレコーディング、週末にはギグを行うという週を繰り返しながらレコーディングは進んで行った。ソールド・アウトとの森林ツアーを含むライヴのハイライトは、大成功に終わったワイト島フェスティヴァルでのパフォーマンスとウェンブリー・スタジアムで開催された故ダイアナ妃追悼コンサートで話題を独占したパフォーマンスだろう。(バンドのパフォーマンスに感銘を受けたアメリカのテレビ局の重役の一人は、2007年10月ウェンブリー・スタジアムで開催された北米以外の国で初となるNFLゲームにザ・フィーリングを招待、ゲームがスタートする前の演奏を依頼したのである。)

ショウ自体は凄く楽しかったのだが、バンドはいつもレコーディングに戻りたくてうずうずしていた。「とても刺激的な時間だったね」、リチャードは語る。「ファースト・アルバムでは僕らは5人編成のバンドに特化したアレンジを維持するよう努力したつもりさ。何故なら僕らは小さな会場で演奏していたし、自分たちだけで再現できないサウンドなんて欲しくなかったからね。でもセカンド・アルバムではその考えは全て取っ払ったんだ。ツアーに出たら変わったキーボード、新しいギター、音楽制作のためのへんてこりんなものを集めるために多くの時間を費やしたんだ。それら全てがレコーディング・セッションで現れてたね」

聖域なんて何もない。「音楽を作っている時には完全に怖いもの知らずにならなきゃいけないと思うんだ」、ダンは言う。事実、『ジョイン・ウィズ・アス』の「ウォンゴ・ゴー・アウェイ」では狂ったようなサックスのソロがフィーチャーされている。「僕らはひねくれていて、あまのじゃくな考えで一杯だった。流行を取り入れるのは考えうる最小限に止めようって感じだった」、ダンは理由を補足する。

新作がほぼ完成という段階で、バンドは2曲(「ディス・タイム」&「ウィズアウト・ユー」)にバンド・サウンドにオーケストラを加えることを決めた。「ロック・バンドは出しゃばらせないようにする傾向があって、弦楽器のアレンジは凄く退屈なものになってしまっている。」、ダンは解説する。「でも僕らは一番目立つようなものに仕上げたかったんだよ」

バンドはお気に入りのポピュラー・ミュージックに使用されている弦楽器のアレンジを見つけるために、彼らのレコード・コレクションの中を探しまくった。『それが「シーズ・オブ・ラヴ」(ティアーズ・フォー・フィアーズ)、「スレイヴ・トゥ・リズム」(グレース・ジョーンズ)、「レフト・トゥ・マイ・オウン・ディヴァイセズ」(ペット・ショップ・ボーイズ)だったんだ』、リチャードは言う。「グーグルでそれら3曲を検索したらリチャード・ナイルズがアレンジャーとして出てきたんだよ。彼は3曲全てのアレンジを手掛けてたんだ。だから彼の名前でグーグル検索をして彼のサイトで電話番号を見つけて、電話したら彼が出たんだよ!十日後には僕らはパインウッド・スタジオで30人編成の大オーケストラと一緒にレコーディングさ。リチャードは信じられないほど素晴らしい仕事をしてくれたんだ」

ロサンジェルスでスパイク・ステントとアルバムのミックス作業を行い、ザ・フィーリングのセカンド・アルバムは完成した。

ファースト・シングル 「アイ・ソート・イット・ウォズ・オーヴァー」でセカンド・アルバム 『ジョイン・ウィズ・アス』は息吹を吹き込まれた。才能に満ち溢れた5人組は、揺ぎ無い黄金のメロディと巧みな感情表現を失わずにいのである。ファースト・シングルは、ダンがベルリンの壁崩壊にまつわるラヴ・ストーリーを描いたダンスフロア向けのギター・ポップの脈動する薄片だ。ラジオで1日に267回近くオンエアされることが期待されるシングルだ。

実際、新作は『ザ・フィーリング』(ファースト・アルバム)に似ていて、ラジオから陽気な音楽として流れてきて、あなたの心に響く曲ばかりが収録されている。「ウィズアウト・ユー」は家から遠く離れることを切望する移動にまつわる物語。ヴァージニア工科大学で銃乱射事件が起きた時にヴァージニアに滞在していた時に書かれた。「ウォント・ゴー・アウェイ」はとても楽しく粋な宿命についての教え(授業)で、今まで地中に埋もれ発見されずにいたデヴィッド・ボウイの「モダン・ラヴ」とケニー・ロギンスの「フットルース」の中間の曲という位置付けだ。ザ・フィーリングらしい喜びに満ちたポップス(「ターン・イット・アップ」、「アイ・ディッド・イット・フォー・エヴリワン」)、ダンが不安と孤独を豊かな表現力で紡ごうとする姿が見出せる繊細な曲(「スペア・ミー」、「コナー」、「ロンリネス」)、希望と挑戦に支えられている高揚感に満ちた歌(「ディス・タイム」、「ジョイン・ウィズ・アス」)などが収録されている。

『ジョイン・ウィズ・アス』はデビュー・アルバムの前作より深く、もっと野心的な作品で、粋なブギー・ウギー・ピアノ・サウンドが陽気で金属的なギター・ソロへと繋がっていく。幾重にも重なるハーモニーのイージー・リスニング・コーラスがハプシコードと4弦楽奏の決闘へと急転換。怪物のようなプログレ的フィナーレ「地球最大のショウ」へとなだれ込んでいくことを何ら恥じることはない。

「僕らは沢山の愛をこのアルバム制作に注ぎ込んだんだ」、ダンは言う。「そして、最初の段階から素晴らしいサウンドだったんだよ。アルバムの仕上がりに言葉に出来ないほど気に入っているんだ」