BIOGRAPHY

Duffy / ダフィー


ダフィーが還ってきた。デビュー作の『ロックフェリー』でグラミー賞(3部門にノミネートされ、『ベスト・ポップ・ヴォーカル・アルバム』賞を受賞)やブリット・アウォーズ(4部門にノミネートされ、『ベスト・アルバム』を含む3部門を制覇)を獲得し、650万枚のセールスを記録(近年ではごく稀な快挙)、そしてヨーロッパ各国でナンバーワンを達成しただけでなく、全米で本格ブレイクを果たした彼女。そんな彼女が『ロックフェリー』の”続編”を引っ提げて戻って来るかもしれない、そう考えたとしても尤もなことだろう。だが実際、彼女は決してそのようなことはしなかった。現在のシーンにおいて、最も大きな成功を収めたソウル・シンガーの1人であるダフィー。2010年11月にリリースしたセカンド・アルバム『エンドレスリー』は、彼女の新しい面が随所に表われた傑作である。「あの(ファースト・アルバムの)頃の私とは、違うのよ」とダフィー。「あの頃はまだ、ほんの少女だったから」。

英ウェールズにあるスリン半島出身の26歳。今回の『エンドレスリー』はまた、これまで彼女が手掛けてきたどの曲よりも、アップテンポかつダンスフロア仕様になっていると同時に、実に達観した風情の彼女が歌う、装飾を剥ぎ取ったアコースティック主体のナンバーがちりばめられている。「一時は、『これって、インディー風アルバムになるのかしら?』と思ったこともあったわ」と、笑う彼女。「そんなサウンドになりつつあったの」。歌詞は前作より力強く、真情に溢れ、世情に通じた内容になっているが、同時に以前より小生意気(「私は彼の恋人/彼の母親じゃないわ」というのが冒頭の一説だ)で、面白さが増してもいる。「曲が軽々しいもの、おふざけの入ったものになってしまったりしたらどうしよう、って心配になる人もいるでしょうね」と彼女。「とにかくただ楽しむのが大事な時もあるのよ」。しかし彼女は、不要なものと一緒に大切なものまで捨ててしまっているわけではない ー 「マーシー(Mercy)」や「ウォリック・アヴェニュー(Warwick Avenue)」でおなじみの、圧倒的なストリングスや粋なブラスは今回も健在。だが今作は、正真正銘の”ダフィー:第二章”となっている。ソングライターとして名声を誇るアルバート・ハモンド(「The Air I Breathe」や「はるかなる想い(When I Need You)」「カリフォルニアの青い空(It Never Rains In Southern California)」といった特大ヒットで有名)と共に3週間でレコーディングし、ザ・ルーツ(The Roots)が演奏を担当した本作収録の10曲は、世の人々を驚かせること間違いなしだ。

ダフィー自身、2作目のアルバムを作りたいのかどうか分かりかねていたことを思えば、これは驚くべき作品だ。「(この世界から)身を退くことも考えていたのよ、真剣にね」と彼女。「それは何も『やり切った』と思ってたからじゃなくて。ただ、人生における当たり前のことを失ってしまっていたのが分かったからなの。人生がすごく複雑なものになってしまっていたのよ」。何ヶ月にも及ぶ『ロックフェリー』のツアー終盤、アメリカで名が知れ渡り、グラミー賞を受賞、またウェールズの国花である水仙の新品種に彼女の名前が付けられるようにすらなった頃、ダフィーは重要な岐路に立たされていた。

「あの一つの周期が終わりを迎えた時、自分が何をするためにここにいるのか、私は自分で自分に思い出させなきゃいけなくなっていた。自分の仕事が何なのか、しばらく忘れてしまっていたのよ。つまり、私の役目は何なのかってこと。モデルでもないし、セレブでもない。じゃあ私って何?って。何もかもが、すごくややこしくなってしまった。誠実さを保ち続けるのって、とっても難しいことでしょ? 望むものが何でも手に入るっていう状況……それってすごく不健康よ」。

どのように進化すればいいのか、次の方向性はどうあるべきか、彼女が迷っていた時、66歳のアルバート・ハモンドが関わるという思いがけない形で、運命は新たな展開を迎えた。もっと正確に言えば、アルバート・ハモンドの妻の介入、という形でだ。「彼がロスの自宅にいたある日、彼の奥さんが、『ねえアルバート! アルバート! テレビに出てるこの娘、ちょっと見てみて! まるで黒人女性が歌ってるみたいなの!」って言ったんですって。で、画面を見た彼は、「何てこった、信じられないな」って答えたそうよ」。その時ダフィーは米NBCの『サタデー・ナイト・ライブ』に出演、「ステッピング・ストーン(Stepping Stone)」を披露していた。ハモンドはそれまで10年間、音楽には携わっておらず、またそれを望んでもいなかった(恐らく音楽のことは、息子であるザ・ストロークスのアルバート・ハモンドJr.に任せていたのだろう)が、ダフィーを見て好奇心をそそられたのである。「彼の方から、会いたいって連絡があったの。彼のバックグラウンドについては、今回も何も知らなかったのよね(同じように前作のプロデューサーであるバーナード・バトラーと会った時も、彼女はバーナードが在籍していたバンド、スウェードのことを知らなかった)。そして彼が、『「Don’t Forsake Me」って曲があるんだ」って言って。それで私は『それって何だかまるで私の人生のサウンドトラックみたいに聞こえるわ』って言ったのよ」。

「その当時ロスでは、いつも大きなパーティーが開かれていてね」とダフィーは話を続ける。「私には選択肢があったわけ。つまり、ハリウッドでパーティー三昧するか、それともアルバートに会いに行って親交を深めるか。それで私はアルバートの家に行った。そしたら彼の奥さんが、私にお茶をいれてくれたの」。ハモンドは既に「Don’t Forsake Me」と題する曲をほぼまとめ上げていたが、ダフィーはそれでよしとはしなかった(彼女は間違いなく、はっきりとした自分の考えを持っているシンガーだ)。「彼は66歳で、この上なく高い評価をされているソングライターでしょ。なのに私には、彼の曲にケチをつけようとする度胸と図々しさがあったのよね」と、笑うダフィー。「振り返れば、『私って、なんて失礼だったんだろう!』と思う。でも私には、これは私の人生に関わる色んな要素を反映してる曲だって分かったのよ。アルバートは、『勇気のある子だ。よくやった』って言ってくれたわ」。

それを境に、次々と曲が生まれるように。『ロックフェリー』の熟成期間が4年あったこと思えば、実に注目すべきことである。「曲作りには、ロスで数日、それからスペインに渡って一週間、それからここ(ロンドン)で一週間を費やした。あっと言う間に終わったわ」とダフィー。「曲が出来上がった後、私は内心、アコースティックのデモがすごく魅力的に聴こえるなって思ってたの。私が聴きたかった音は、正にそれだったのよね。ちっとも複雑じゃない。手をかけ過ぎてる作品ってあるでしょ。皆がやり過ぎてしまうと、何か大事なものがダメになってしまいかねない。でもアルバートと私にとっては楽しい経験だったわ」。

アルバートはどうやら度々、彼女よりも楽しんでいたようだ。「朝4時に彼の姿を見ながら、こんな風に考えてたのを憶えてる。『あなたは私よりも40歳も年上よね。そんなエネルギーがどこから湧いてくるのか、不思議だわ』って。彼ったら、踊り回ってるんだもの。私の方が規律に厳しいなんて、絶対おかしいでしょ! 本当なら、その逆であるべきよね。『OK。さあ集中しましょう』『ねえアルバート、あなたが踊ってるのは分かってるわ。でも私達が今やらなきゃいけないのは、第2ヴァースをレコーディングすることでしょ!』って、私の方が言ってたんだもの」。

しっかりタッグを組んだこの二人。そこにアルバートの妻が割って入り、ダフィーにファッション・アドバイスを授けることもあった。1960年代のファッションに影響を受けたダフィーの服装の慎み深そうな所を、彼女は気に入っていたのである。「彼女は私に、『そのロング・スカート、いいわね』って言うの」とダフィー。「あの世代の人達は、テレビに出てくる露出度の高い服を着たポップ・スターに慣れていないのよね。そういうのは不謹慎だって思ってるのよ!」と、ダフィーは笑う。

制作の途中、アルバートは米NBCのトーク・バラエティ番組『レイト・ナイト・ウィズ・ジミー・ファロン・ショー』で、また別の新たな音楽的インスピレーションの源を発見した(「アルバートは相当テレビ好きなんだろうな、って思うわ」と、ダフィーはクスクス笑う。「彼はテレビを見てるとアイディアが湧くのよ」)。それは、彼にとっては聞き慣れないバンド。ダフィーは最悪の事態を怖れた。「彼の息子がザ・ストロークスのメンバーなのは知ってるし、彼って多分いいセンスをしてるわよね。でも、ナッシュヴィル辺りのコテコテのバンドだったらどうしよう、って思ったのよ」。しかし実のところ、その時の番組に出演していたのは、最も優れたライヴ・バンドの一つとして広く認められているフィラデルフィアの伝説的ヒップホップ・グループ、ザ・ルーツ。ダフィーは愕然とした。というのも4年前、彼女はラフ・トレードのジェフ・トラヴィスと一緒にロンドンの『ジャズ・カフェ』に出かけ、彼らがDJを務めるのを目撃していたのである。その時、圧倒された彼女は、ザ・ルーツの創設メンバーであるクエストラヴ(Questlove)ことアミール・トンプソン(Ahmir Thompson)に、自分のアルバム『ロックフェリー』のCDを手渡してすらいた。それでダフィーは(アルバートに強く促された後)、彼女の米国での所属レーベルであるマーキュリーを傘下に置く、アイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループの会長、LA・リード(LA Reid)に電話をし、頼み事をしたのであった。「午前2時、電話の受話器を持つ手が震えてたわ!」。その頼み事とは、ザ・ルーツと会う段取りをリードに付けてもらいたいということ。それから48時間以内に、彼らとのミーティングが設定された。ダフィーとザ・ルーツはすぐに意気投合。ザ・ルーツのタイトなライヴ・サウンドは、近頃のチャートでトップ10を賑わせている大半の機会仕掛けのポップとは別世界のもので、『エンドレスリー』というジグソーパズルを完成させる最後の1ピースとなった。「アミールにこう言ったの、『何年か前、あなたに『ロックフェリー』のCDを渡したのよ。でも連絡くれなかったわよね!』って。そしたら彼は『そのアルバム、今度探しとくよ!』って言ってたわ」。

ダフィーとザ・ルーツを結びつけて考えたことのある人はいないかもしれないが、ダフィーとアルバート・ハモンドを結びつけて考えたことのある人もいないだろう。正直、彼女自身も、そうしたことはなかったはずだ。しかし彼らは手を取り合って、共に素晴らしい作品を ― 『ロックフェリー』の後継以上の価値があるアルバムを―作り上げた。このアルバムは、ダフィーの以前からのファン全員の心を捕らえると同時に、大勢の新たなファンを獲得するはずだ。

「まるで以前からずっと、こんな風になるってことが決まってたみたいに思えるのよね」と、青い瞳を輝かせながらダフィーは語る。「今度のアルバムの曲は、どれも私の内側から湧き上がってきたものなの、何年もかけてね。そして私達はそれを形にした。私はとにかく、曲の名付け親である、友人アルバートのそばを離れないようにしていたのよ」。