BIOGRAPHY

Damone


Bioノエル:ヴォーカルとギター
マイク・ウッズ:リード・ギター
ダスティン・ハインガスト:ドラム壊しと飲酒
ヴァズケズ:ベースをぶちかますこと

どんなロック・バンドにもそれぞれの歴史がある。解散や、喧嘩や、レーベルとのいざこざや、金銭問題や、健康問題等々。そんなのクソくらえ。
ダモーンはその全てを経験した。その10倍もの経験を。
ベーシストのヴァズケズから話を始めよう。
彼は死んだのだ。死にかけたのだ。
「レコーディングっていうのは公園を散歩するようなものなんだ」と彼は言う。
「だけどニュー・アルバムは、やっている最中に僕は道を見失ってしまった。全然寝てなくて、酷かったんだ。だからある日、僕は(ヴォーカルの)ノエルに電 話して、言ったんだ。『ちょっとジムに行って発散しないか?』って。それで僕は単調な仕事から離れたんだけど、そうしたら突然頭の中におかしな感覚が走っ たんだよ」
次の瞬間に、ヴァズケズは失神し、救急車で運ばれた。
「その時僕達にはお金も保険もなかったから、目覚めた時にまっさきに頭に浮かんだのは、いくらかかるんだろうってことだけだったんだ。そしたら、牧師さんが僕に向かって最後の儀礼を読み上げてるのに気づいたんだよ」
幸運にも、このベーシストは脳内出血による2日間の昏睡状態とそれに伴う発声障害から回復した(「どうってことなかったよ。それでもスピン・ザ・ボトルと かやって遊べたからね」)。とはいえダモーンにとっては、これも彼らが最新作を作る際に直面した100の障害のひとつにすぎなかったのだ。
問題は2年前に始まった。マサチューセッツ州ボストン出身のこのバンドは、デビュー・アルバム『フロム・ジ・アティック』のリリースにともなう1年半に渡 るツアーを終えようとしていた。当時18歳のリード・シンガー、ノエルの印象が鮮烈なパンク・メタルの秀作となった『フロム・ジ・アティック』は優れた作 品だったが、一般的なリスナーにとっては少々消化しにくいものでもあった。結局のところ、リック・スプリングフィールドやダイナソー・Jr、デフ・レパー ドやジョーン・ジェットから音楽的なヒントを得て、その上に強烈なガール・シンガーをかぶせるなんていう芸当は、誰にでもできることではないのだ。
「僕達はとにかく、優れたロック・ミュージックのスピリットを取り戻したかっただけなんだ」ドラマーのダスティン・ハンガストは言う。「僕達は(モト リー・)クルーとか、クイーンとか、アンドリューW.K.とか、そういう音楽が大好きなんだ。ロックン・ロールを賛美する、それが僕達のやってることなん だよ。80年代のヘア・メタル・バンドだって、僕達は大好きだしね。もちろん、彼らはエアロスミスやツェッペリンからあらゆることをパクってるけど、でも 彼らはソングライティングに身を捧げてた。史上最高にクールな曲を何曲も作ったんだ。今って全てが型にはまってるか、イライラするような惨めな自己満足ば かりなんだ」
残念なことに、誰もがダモーンの天才的ピュア・ロックやカリスマ性のあるリード・シンガーを理解できるわけではない。
「多くの人になかなか理解されなかったわ、特に昔のレコード・レーベルの人達にはね」とノエルは認める。「私は市場にとってはポップさが足りなかったのよ。それにロック専門のラジオ局は女性ヴォーカルものをかけるのが好きじゃないの」
ダスティンは今もそのことに関して憤慨している。「ノエルは驚異的なシンガーで、ギタリストなんだ。作曲家やプロデューサー、個人トレーナーに操られてる だけの今時のいんちきなガール・ロッカー達とはわけが違う。誰でも彼女と競わせられるよ。どんなシンガーでも彼女と対決させられる」そこでダスティンは言 葉を切って、笑う。「アクセル・ローズとかじゃなければ、ね」
小さいながらも熱心なファン・ベース、多少のラジオでのオンエア、それから少しのレーベルからの助けや不確かな将来、こういったことに直面していたバンド が新作で向かう方向は百万通りぐらいあった。だが、一番起こりそうだったことが起こったのだ。ダモーンを支えていたものが完全に崩れたのである。
まず、ギタリスト(そして彼らのメイン・ソングライターだった)がバンドを辞めた。それから2度の吸収合併を経てレコード・レーベルが彼らのことなど全く気にしなくなった。とどめに資金が底をついた。
「後で考えたら、僕達にとって有意義な経験になったんだけどね」ダスティンは言う。「おかげでいろいろやる気にさせられたよ。でも……頭痛の種は耐えなかった。だけどそれによって僕達は音楽的にも感情的にも、すごく一つにまとまることができたんだ」
全く援助なしで、バンドはノエルのアパートに集い、新曲のレコーディングを始めた。問題その一:お金がない。そこでみんなが協力
してくれた。仲の良い友人でエンジニアのデイヴィッド・スプレングが沢山の機材を持ち込んでくれた。他の友人はスタジオをドラムとギターのレコーディングのためにタダで貸してくれた。
問題その二:ソングライターがいない。何のことはない。その後2年の間に、ダモーンは新しいギタリスト(ダスティンと昔一緒にバンドをやっていた、マイ ク・ウッズ)と一緒にプレイし始め、曲を書くようになった。彼らは作曲もプロダクションも自分達でやることに決めたのだ。誰かが曲のコンセプトを思いつい たら、ウッズがリフやメロディを加え、ダスティンがアレンジし、そして最後にノエルとヴァズケズで歌詞を考える。そして最終的にはこのベッドルームでのコ ラボレーションの成果が、純粋なロックの熱狂を封じ込めた35曲となってレコーディングされたのだ。
「ホーム・レコーディングはかなりやってたから、僕にとっては問題じゃなかったんだ」このバンドが様々な問題に対処する時、自らを仲介人、もしくは感情の 核とみなすマイクはこう語っている。「それにノエルのご近所さんを起こしちゃったのは一回だけだったしね。午前3時だった。僕たちはあるサウンドをレコー ディングしようとして足踏みしたり叫んだりしてたんだ」
「こういうやり方の方がずっと良かったと思うの」とノエルは認める。「全部自分達でコントロールできてたし、それによって私たちの音楽はすごく成長したしね」
驚くことではないが、彼らの新しいアルバムには、世の中のそれほどハッピーではないことに突っ込んだ歌詞もある。
「おかしな話だけど、僕達はポイズンだとか、そういうパーティ・ロックが大好きな一方で、今回はダークな歌詞も沢山書いたんだ」ダスティンは言う。「僕は 酷い失恋を経験して、レコーディングの最中6ヶ月もホームレスになって、ヴァズケズも彼女と別れて、昔のギタリストにも酷い目にあわされて、みんなが僕達 をいためつけてるような気になってた。だから今作は派手なロックととても深い感情がミックスされているんだよ」
彼らの音楽に対しての自信が育つに従って、熱も高まっていった。ダモーンは昔のレーベルに契約から離れたいと頼んだ。アイランド・レコーズが面会を望んで いて、思いかげないタイミングで、バンドは新しいオーディションの前夜に最終解雇通知を受け取った。縁起のいい事は続いて起こった。ニューヨークでのオー ディションの前に、バンドは元カーズのフロントマンで、同じボストン人で、レコーディング・レジェンドのリック・オケイセックに出会ったのだ。
「彼は入って来て、『いいサウンドだ』って言って立ち去ったの。いいサインだと思ったわ」とノエルは振り返る。そして彼の言ったことは正しかった。バンドはその夜契約を手にしたのだ。
これら全てのことに価値があったかどうかって?もちろん。全てバンドによって作曲され、プロデュースされた今作は、80年代のグラム・メタル、ランナウェ イズ級のガール・ロック、そしてギター・ソロと最高にかっこいいアティテュードを体現している。伝説的なミキシング・エンジニア、トム・ロード・アレジ (U2、ウィーザー、マリリン・マンソン等)と、マイク・シップレイ(デフ・レパード、グリーン・デイ、アンドリューW.K.等)がレコードの最後の仕上 げを手助けし、ダモーンは時代を超えたロックン・ロールのアルバム、実に快適な作品を創り上げたのだ。
新しいメンバーのマイクにダモーンについての最後の言葉を語ってもらおう。「僕が描くストーリーはこうだね、ダモーンは終わりそうだった、僕達のうち何人 かにとっては文字通り終わりかけた、でも終わらなかったんだ。だから僕たちは最高のレコードを作って、世界をこの手に収めるのさ」