BIOGRAPHY

THE CRANBERRIES


Cranberries _bioメンバー:ドロレス・オリオーダン(vo, g, key)、ノエル・ホーガン(electric & acoustic g)、マイク・ホーガン(b)、ファーガル・ロウラー(ds, per)

弱冠18歳にしてメジャー・レーベルと契約し、音楽的に高い評価を得て商業的な成功を収めたクランベリーズが2001年に結成10周年を迎える。

ドロレス・オリオーダン、ノエル、マイク・ホーガン(兄弟)、ファーガル・ロウラーの4 人の熱心なミュージシャンは、アイルランドのリメリックにてインディーズ・レーベルのXeric Recordに見出され、初めて作ったデモのひとつを きっかけに発掘された。そのデモが、アイランド・レコーズの設立者であるクリス・ブラックウェル(U2、ボブ・マーレー)、そして伝説的なプロデューサー であり実業家のデニー・コーデル(レオン・ラッセル、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ)の目に留まったのだ。ラフ・トレードでザ・スミスなどを担当 していたジェフ・トラヴィスを新マネージャーに迎えると、彼は1991年初頭にクランベリーズの4人にザ・スミス、モリッシー、ブラーなどのプロデュース で知られるスティーヴン・ストリートを紹介した。その出会いから1年弱で、クランベリーズとスティーヴン・ストリートは後に数百万枚の売上を記録したデ ビュー・アルバム『ドリームス』の共同プロデュースを手掛ける。

1992年12月にイギリス、アイルランドでリリースされたアルバムは、商業的に失敗し、評論家の間でも不評に終わる。だが、この失敗にも彼らは挫けず、 1993年3月にアメリカへ向かうことを決意する。アメリカで、ザ・ザのオープニング・アクトやスエードと共にヘッドライナーを務め9ヶ月間のツアーを行 い、その年をUKポップ・グループ=デュラン・デュランとのツアーで締め括った。そして年末には、地元リムリックのシアター・ロイヤルで”北米で最も成功 したアイリッシュ・グループ”として凱旋コンサートを行い、90,000人の市民から暖かい歓迎を受けながら、アメリカでの成功を大いに祝った。

1993年、精力的に行ったツアーとプロモーション活動が功を奏し、ビルボード誌シングル・チャート、ラジオ・チャートのトップ10にクランベリーズ初の 大ヒット・シングル=「リンガー」がランク・インする。デビュー・アルバムは同年12月までに全米で100万枚のセールスに達し、イギリスのアルバム・ チャートで初登場第一位を記録、翌年末までにイギリス、アイルランドだけで更に80万枚ほど売上を伸ばすこととなった。

1994年2月、セカンド・アルバム制作のためにプロデューサーのスティーヴン・ストリートとスタジオに入る。ドロレスが休暇中に南フランスで深刻なス キー事故に遭ったためにレコーディングの作業が遅れ、その結果、アルバムのリリースや、クラウデッド・ハウスとのイギリス・ツアーも延期になる。完成した セカンド・アルバム、『ノー・ニード・トゥ・アーギュー』はリリースから1年間(’94年10月~’95年)で1,200万枚の売上に達し、25カ国のア ルバム・チャートで第一位に輝いた。アルバムにはビデオ「ゾンビ」と、1994年の最大ヒットの1曲となったファースト・シングル「ムーヴィング」を収 録。そして続くセカンド・シングル「オード・トゥ・マイ・ファミリー」のリリースと、ツアーに励むことを原動力に、1996年5月にサード・アルバムがリ リースになるまで、前2作のアルバムは共に3年間、常にチャートにランク・インされることとなった。

1995年10月、クランベリーズはブルース・フェアバーン(エアロスミス、ボン・ジョヴィ、AC/DC) とサード・アルバム『トゥ・ザ・フェイスフル・ディパーテッド~追憶と旅立ち』 をレコーディングする。アルバム・レコーディングに要した時間はたった5週間、前作のワールド・ツアーが終了して8ヶ月のことだった。この急速なリリース のペースと、アルバム・プロモーションの厳しいスケジュールが重なり、バンドは解散の危機に瀕する。そのアルバムのプロモーションには、バンドにとって過 去最長の世界ツアーが含まれていたが、リード・シンガーのドロレスはハードなツアー・スケジュールと膝を治療するためのトレーニングがたたり、過労のため にドクター・ストップをかけられる。そして全117日間に及ぶはずだったコンサート・ツアーは中断されたのだった。

その後、クランベリーズは2年間のあいだツアー活動やメディアへの露出等を一切行わず、休暇を取ることを表明。それから1年経った1998年、バンドは初 のセルフ・プロデュース作品となる4枚目のアルバム『ベリー・ザ・ハチェット』を手掛ける。そのアルバム用のデモ曲が書き終わった時点で、バンドは共同プ ロデューサーにエンジニアのベネディクト・フェンナー(ブライアン・イーノ、ローリー・アンダーソン)の起用を決めた。サード・アルバムの”作り込むアプ ローチ”に対し、4枚目のアルバムでクランベリーズ自身が挑んだ”新鮮なアプローチ”は賞賛され、この作品は全世界17カ国でナンバー・ワンに輝いた。そ して、このアルバムは3曲のヒット・シングルを生み、5年間振りに行われることとなった最大規模のワールド・ツアーの基盤を築いたのだった。

“ベリー・ザ・ハチェット”ワールド・ツアーでバンドは6大陸、110回の公演を行い、南アフリカ、イスラエル、チェコ共和国、ギリシャ、プエルト・リコ など今まで訪れたことの無かった国々へも足を伸ばし、100万人を超えるファンと素晴らしい時間を共有した。このツアー中に新作の曲作りを開始したクラン ベリーズは、スティーヴン・ストリートにプロデュースの依頼をすることに決定。

1999年12月にクランベリーズとスティーヴン・ストリートは再会し、スティーヴンのプロジェクトが終了する2000年8月に作業に取り掛かることで合意したのだった。 ツアーの継続を決めたクランベリーズは、1995年以来初めてのフェスティヴァル出演を果たす。そのツアーの半ば、ドロレスが2番目の子供を妊娠していることが判り、4ヶ月に及ぶツアーは200年7月末に終了した。

通算5枚目となるアルバムの最初のセッションは2000年8月から9月にかけてダブリンのウインドミル・レーン・スタジオでドロレスの出産前に行われた。 2001年1月にはドロレスにはモーリーが、そして3月にはノエルにはソフィーが故郷リムリックで誕生し、共に2人の子を持つ親となった。5月末にミキシ ングが終了、それから直ぐにパッケージ、ビデオの製作に取り掛かる。そして8月上旬、10月にリリースされる『ウェイク・アップ・アンド・スメル・ザ・ コーヒー』のためのワールド・プロモーション・ツアーを開始。クランベリーズは2002年春には新旧の都市を織り交ぜたワールド・ツアーを行う予定だ。