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イタリア生まれのロマンティック・クール・ヴォイス パトリツィオ デビュー!
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スタイル、洗練、エレガンス・・・。あっという間に使い捨てられる芸能界の消費者文化の中で、かつての昔かたぎのクールさを探しているのであれば、パトリツィオ・ブアンネを聴くべきである。彼は、長身、褐色の肌、ハンサムな顔立ち、完璧に身なりを整え、洗練された服装の、豊かなバリトンの声を持つ端正で謎めいたイタリア人である。

往年の歌手に影響を受けたパトリツィオは、スーツを着用し、靴は磨かれ、きれいにひげを剃り、髪はきれいになでつけられ、耳の後ろにコロンをたたくことなしに、舞台に立つことなどありえなかった時代にさかのぼっている。

それ自体それほど驚くことではない、と思うかもしれない。しかし、パトリツィオはたったの26歳で、ひたすら自分の芸風、ロマンティック・クルーニング(crooning:croon=低い声で感情を込めて歌う)に情熱を傾けている。

ディーン・マーティン、ポール・アンカ、トム・ジョーンズ、それに伝統的なイタリアのシンガーたちが彼のアイドルである。時代遅れ?一見そうかもしれない。しかし人は言うだろう、スタイルは一時的なものだが、気品は永久のものである。

過ぎたるは及ばざるがごとし。「これらのアーティストたちはすばらしいメロディを奏でる。ステージに立ってオーケストラをバックに美しいメロディを奏でるのは、最高の気分だ。」

パトリツィオの人生は驚くべきものである。彼は数え切れないほどのオーディション・イベントで優勝し、エルヴィスをステージで演じ、ローマ法王の前で歌った。すべて20歳になる前に。

ナポリで育ち、彼の父がオーストリアで最初のピッツェリアを開いたのを機に6歳のときにワルツと白馬の街ウィーンへ引っ越す。非常に愛国心の強い父は、家でイタリアの音楽ばかりをかけていた。

4歳のときからパトリツィオは、彼の父の子供時代のナポリ民謡を一緒に歌った。「イタリアの音楽しか聴いたことがなかった。フリオ・イグレシアスも聴いたけど、彼の2枚のイタリア語のアルバムだけ。ディーン・マーティンは唯一イタリア語の「ザッツ・アモーレ」だけ。エルヴィス・プレスリーは「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」だけ、なぜならこれは曲が「オー・ソーレ・ミオ」だから。そしてもちろんイタリア系アメリカ人のクルーナーたち、ペリー・コモ、ジェリー・ヴェイル、バディ・グレコ、トニー・ベネット、アル・マルティーノ。パパがレストランのために音楽をダビングしているとき、おもちゃで遊びながらよく聴いて一緒に歌ったよ。」

5歳のころには、リビング・ルームでそれらの曲を家族の知り合いの前で披露して見せた。「しゃれた服を着て、かつらを被るか髪を水でなでつけるかして、テレビで見た古いシナトラやビング・クロスビーの映画のクルーナーの真似をしていたんだ。」

8歳のとき、両親は彼にギターを買い与えた。そして11歳で学校のコンテストに出場し、初めて人前で演奏する。父の白いタキシードを借りて、「オンリー・ユー」を歌った。「それまで父のように料理人になりたかった。でもステージで大勢の人の前に立ったとき、本当はプロの歌手になりたかったんだと気付いたんだ。」

同じ年、パトリツィオは初めてコンサートを見る。ドゥーワップ・グループ、ザ・プラターズ(「オンリー・ユー」のオリジナル演奏者)のショーで、頼み込んで彼らに会いにバックステージに入れてもらった。「彼らの楽屋で“オンリー・ユー”を歌った。そしたら、もし僕が黒人だったらグループに入れるのにって言われたんだ!」

また13歳のとき、パトリツィオは小学校の卒業パーティで、主役を演じた。白いタキシードに、母が特別に買ってくれた蝶ネクタイをして。「すごかったよ。楽しかったし、みんな楽しんでくれた。生まれて初めてお金を稼いだ。女の子と過ごすのも初めてだったし! 17〜18歳の女の子がたくさんバックステージに来て、どうしていいかわからなかった。その夜、初めて女の子とダンスしたんだ。」

パトリツィオは、オーディション・イベントに参加するようになる。そしていつも優勝した。彼はエルヴィスの物まねコンテストでも優勝した。賞品はグレースランド旅行。「ほかの出場者はみんな年上で、ジャンプ・スーツを着て70年代のエルヴィスの真似をしていた。でも僕は50〜60年代が好きだったから、ロカビリーの格好をして、“ハートブレイク・ホテル”を歌ったんだ。」

この優勝がきっかけで、16歳のとき、オーストリアのエルヴィスを題材にした舞台への出演オファーを受ける。「友達がディスコに行っているときに、僕は宿題をしてから劇場に出かけた。楽しかったよ、女の子たちがバックステージに来て。」

17歳のとき、パトリツィオはポーランドでローマ法王の前で歌うよう招かれる。ローマ法王が故郷ポーランドを訪れ、ミサを行ったとき、彼にとって最大のオーディエンスとなった85,000人の前で演奏した。それがきっかけで17歳にしてパトリツィオはレコーディング契約を結び、ポーランドで名声を得るようになる。

「月曜から金曜までウィーンで学校に通い、毎週金曜にポーランドに行っていた。向こうではシングルがチャートに入っていた。週末にコンサートを2回行い、日曜の夜に、夜行列車で宿題をしながらウィーンに帰ったよ。月曜の朝6時半に母が駅に迎えにきてくれて、そのまま学校へ送ってくれたんだ。」

パトリツィオの17歳の誕生日の直後、最愛の父の死という悲劇が襲う。悲しみにくれたパトリツィオは潰瘍を患い、命を落としかける。しかし、あることが彼に病気に負けない決意をさせる。

「スーパースターになって名を成すと、父に約束したんだ。父の名前を有名にするとね。音楽はいつも父を思い出させてくれて、幸せな気持ちにさせてくれる。」

1999年(19歳)、パトリツィオは叔父の勧めでイタリアに戻り、またしてもオーディション・イベントで優勝した後、TV出演のオファーを受ける。まもなく彼は、イタリアのTVでもっとも人気のある若いタレントの一人となり、ローマの大学で言語を学ぶかたわら、番組のホストを務めるようになる。「契約金も大きく、ローマの中心にすてきなアパートがついた大きな契約だった。でもやっぱり僕の夢はレコードを出すことだったんだ。そして何より、イギリスとアメリカで成功すること。」

2003年、パトリツィオは音楽プロデューサーのクリスチャン・サイツに紹介される。

二人は同じ音楽への情熱と展望を共有していた。そこで、彼は勇敢にも有望なテレビのキャリアを捨て、彼らはアルバム作りに取りかかった。夢をかなえるため、世界的に有名なロンドンのアビー・ロード・スタジオで、ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとともにスタジオ入りした。18ヵ月後、出来上がったアルバム『L’Italiano』は、伝統的なナポリのロマンスと、50年代と60年代のイタリアのスタンダード音楽の伝統を混ぜたもので、イタリア以外では知られていない曲だが、新しい世代に気に入られることは間違いないだろう。

「フリオ・イグレシアスやリッキー・マーティンなど、ラティーノ・ラヴァーは有名だろう。このアルバムのコンセプトはイタリアン・ラヴァーなんだ」とプロデューサーのクリスチャン・サイツは言う。

「人々にイタリアン・ロマンスを提供したい。イタリアの外で育ち、イタリア人以上に自分はイタリア人だと感じる。パスタ、大げさなジェスチャー、アルファ・ロメオを乗り回す、といった典型的なイメージで育ったからね。父は、イタリア・キッチンとパスタの大使だった。そして僕はイタリア・ロマンスと甘い生活の大使なんだ」とパトリツィオは言う。

パトリツィオの音楽を聴くということは、フェデリコ・フェリーニ、ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジーダから、ゴッドファーザー、グッドフェローズ、ソプラノズなど映画やテレビで世界的に有名なサウンドトラックにどっぷり浸かるようなものである。「イタリアのキッチンのパスタがイタリア的であるのと同じくらい僕の音楽もイタリア的だ」とパトリツィオは言う。「これらの曲は、永遠のクラシックだ。僕にとって、クルーニングは単なる歌い方ではなく、生き方なんだ!そして、これを新しいリスナーと共有したいと思っている。」
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