BIOGRAPHY

BON JOVI

 ■1984年
 ニュージャージー出身のボン・ジョヴィ。デビュー当時のメンバーは、ジョン・ボン・ジョヴィ(vo, g)、リッチー・サンボラ(g)、アレック・ジョン・サッチ(b)、ティコ・トーレス(ds)、デヴィッド・ラッシュバウム(key/後に姓をブライアンに改名)の5人組。

本国アメリカで2月にアルバム『夜明けのランナウェイ/Bon Jovi』でデビューを果たし、スコーピオンズのサポートとしての全米ツアーを行なう。5月に日本デビュー。キャッチーなメロディを持つ音楽性から、デビュー後すぐに日本で高く支持され、わずか3ヵ月後に『スーパー・ロック'84』出演のため来日。若さと活気に溢れたライヴで強烈にアピールした彼らの人気は爆発的なものとなった。
日本公演後、KISSのサポートとしてのヨーロッパ・ツアーを行なう。この間、日本ではアルバムがゴールド・ディスクを獲得している。これはボン・ジョヴィにとって初のゴールド・ディスクとなった。

 


 

1985年
 年明け早々から2ndアルバムのレコーディングを開始。KISSとのヨーロッパ・ツアーを体験したことにより、内容はよりヘヴィなアプローチのものとなった。
4月に『7800°ファーレンハイト』をリリース。時期を同じくして初の単独日本公演を行なう。この日本公演は、新人バンドとしては異例の大規模なもので、全公演がソールド・アウトとなった。
日本公演の後はヨーロッパ・ツアーを行ない、その後はラットのサポートとしての全米ツアーをスタート。この長期にわたる全米ツアーが、後のアメリカでの大成功の礎となっている。しかし、まだこの時点でボン・ジョヴィは、日本&ヨーロッパでは大スター、母国アメリカではほとんど無名という状況だった。全米ツアーを終了する年末までに、『7800°ファーレンハイト』はアメリカで初のゴールド・アルバムに認定されている。

 


 

1986年
 クリエイティヴ・モードに入っていたジョンとリッチーは、リッチーの自宅地下室で曲作りを開始。今回初めて外部のソングライターとの共作も行なった。
4月からカナダのヴァンクーヴァーでレコーディングをスタート。ボン・ジョヴィを大スターの座に導いた3rdアルバム『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ/Slippery When Wet』は8月にリリースされた。このリリースに合わせる形で日本公演も行なっている。
10月からは、38スペシャルのサポートとしての全米ツアーをスタート。この全米ツアー中、アルバムが初の全米No.1を獲得。11月にはヨーロッパ・ツアーを行なうが、この間、アメリカでの状況はヒートアップするばかりで、最終的にこのアルバムは、ハード・ロック・バンドとしてはレッド・ツェッペリンの記録を抜く8週連続全米No.1に輝いている。アルバムからのシングル「禁じられた愛/You Give Love A Bad Name」「リヴィン・オン・ア・プレイヤー」も、軒並み全米No.1を獲得した。

 


 

1987年
 '86年が成功への足がかりとなった1年だとしたら、'87年はツアーに明け暮れた1年だった。年明け早々にスタートしたヘッドライナーとしてのワールド・ツアーは、この年の10月まで続いている。
各地でソールド・アウトの連続となったこのツアーでのショウは前代未聞の大掛かりなもので、特にファン心理を意識した演出が話題になった。そして9月には凱旋公演ともいえる日本公演を行ない、日本でも全公演をソールド・アウトにしている。
最終的に『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』に伴うツアーは約15ヵ月間続き、ツアー終了時にアルバムは全世界で1800万枚以上のセールスを記録。アルバムからのシングルも次々と大ヒットとなり、各メジャー音楽賞も受賞するという、快挙とも言うべき成功を成し遂げていた。まさに全米がボン・ジョヴィ現象に包まれていたのだ。

 


 

1988年
 '88年に最も期待されていたアルバムは、ボン・ジョヴィの新作だった。彼らは休む間もなく年明けからアルバム制作をスタート。前作と全く同じ方法で制作は進められた。
5月からカナダのヴァンクーヴァーでレコーディングを開始。当初年末のリリースが予測されていた4thアルバム『NEW JERSEY』は、その予測を覆す早さで完成し、9月にリリースされた。
リリース後、10月からワールド・ツアーをスタート。アルバムは瞬く間に全米No.1を獲得し、アルバムからのシングル「バッド・メディシン」もNo.1を獲得。すでにボン・ジョヴィの人気が不動のものであることを証明することになった。
そして12月には、ラットなどと共に行なった年越しライヴ『ヒート・ビート・ライヴ'89』のため来日。'89年の年明けには単独公演も行なっている。また、'88年には2本の日本のCMに出演。これにより、彼らの存在はお茶の間レベルにまで浸透した。

 


 

1989年
 後にメンバーが"死のツアー"と表現した『NEW JERSEY』に伴うツアーは、'89年になっても休むことなく続けられた。
1月の南米ツアーの後、2月からはスキッド・ロウを従えた全米ツアーがスタートする。このツアーでは、アリーナ全体を動き回れるキャットウォーク(花道)を天井から下ろすという演出を展開。どの席でもメンバーの姿が間近に観られる工夫が施された。
全米ツアー中の4月にジョンがラスヴェガスで突然結婚。そして8月には、当時社会主義国であったソビエト(現ロシア)のモスクワにアメリカのバンドが多数集結するという前代未聞のフェスティバル『モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル』が開催され、ボン・ジョヴィがヘッドライナーを務めている。また10月には、バンド・コンテスト審査員としてわずか30時間の来日を果たした。

 


 

1990年
 455日間、全232公演、全世界37ヵ国、地球3周にも及ぶ『NEW JERSEY』に伴うワールド・ツアーを2月に終了。この頃にはアルバムのセールスも全米だけで800万枚を超え、ボン・ジョヴィは世界で最も有名なロック・バンドとなっていた。
その反面、メンバーは肉体的にも精神的にも疲労した状態で、バンドは解散の危機に瀕していた。ボン・ジョヴィはしばらくの間バンド活動を休止し、ソロ活動に専念すると発表。
その後、メンバーの中で最初に動き出したのはジョンで、8月に初ソロ・アルバム『ブレイズ・オブ・グローリー』をリリース。このアルバムは、映画『ヤングガン2』にインスピレーションを得て制作されたもので、豪華ミュージシャンがレコーディングに参加している。
シングル「ブレイズ・オブ・グローリー」は、500万枚以上のセールスを記録し、全米No.1を獲得。皮肉なことに、「リヴィン・オン・ア・プレイヤー」でボン・ジョヴィが打ち立てたシングル・セールス記録を塗り替える形となった。12月にはシンデレラなどと共に行なった年越しライヴ『ファイナル・カウントダウン』のため来日(年明けには単独公演も開催)。久々にボン・ジョヴィとしてのショウを披露した。

 


 

1991年
 1月に行なわれたゴールデン・グローブ賞で、ジョンが「ブレイズ・オブ・グローリー」により受賞。続くアメリカン・ミュージック・アウォーズで"最優秀ポップ/ロック・シングル"を受賞した他、アカデミー賞にもノミネートされた。
この頃ジョンは、新人アーティスト発掘のために設立したレーベル関係の仕事に終始し、プロデューサーやソングライターなどとして多くのアーティストに協力している。
一方、スロウ・ペースでソロ・アルバムを制作してきたリッチーは、9月に初ソロ・アルバム『ストレンジャー・イン・ディス・タウン』をリリース。レコーディングには憧れのエリック・クラプトンを含む、豪華アーティストが多数参加している。11月にリッチーはソロとしての全米ツアーをスタートするが、ジョンがボン・ジョヴィの活動再開を望んだことからわずか11公演で終了。
12月には地元ニュージャージー恒例のクリスマス・チャリティ・コンサートのため、ボン・ジョヴィのメンバーは約1年振りに顔を合わせた。

 


 

1992年
 年明けからボン・ジョヴィの5thアルバムの制作をスタート。レコーディングはカナダのヴァンクーヴァーで行なわれた。そしてボン・ジョヴィは、約4年振りとなるアルバム『キープ・ザ・フェイス』を10月にリリース。
"信念を貫く"という意味を持つタイトルはバンドの一体感を表現したもので、ボン・ジョヴィ健在を強くアピールした。
また、このアルバムでは、最新のテクノロジーや新たなアプローチにも挑戦。'90年代のボン・ジョヴィ・サウンドを意識したものだった。このアルバムを機に"初心に返る"ことを目標としたメンバーは、ヨーロッパとアジアでのプロモーション・ツアーを行ない、プロモーション来日も果たしている。

 


 

1993年
 『キープ・ザ・フェイス』に伴う全米ツアーを3月からスタート。しかしこのツアーは、以前に比べ短期間のものとなった。
このツアーでメンバーは、ボン・ジョヴィとしてプレイすることに純粋な喜びを見出したという。ヨーロッパ・ツアーを経て、6月には日本公演を行なったが、直前にジョンの初めての子供が産まれ、初日公演の日程を変更するというハプニングもあった(他の公演日の昼公演に変更し、1日2回のショウを行なった)。
この日本公演はどの会場もソールド・アウトとなり、日本のファンが変わらずボン・ジョヴィを支持し続けていることにメンバーは感動したという。
最終的に、『キープ・ザ・フェイス』に伴うワールド・ツアーでは全182公演を行ない、この間にシングル「ベッド・オブ・ローゼズ」が全米第5位を記録する大ヒットとなっている。

 


 

1994年
 バンドのデビュー10周年に当たるこの年、予定されていたニュー・アルバムはベスト・アルバムの制作に切り替えられた。
この間の5月には、ジョンとリッチーが奈良の東大寺で開催されたイベントに出演するために来日している。そして10月、初のベスト・アルバム『クロス・ロード』をリリース。2曲の新曲を加えたこのアルバムは、日本、アメリカ、ヨーロッパでそれぞれ違う収録曲目でリリースされている。
驚くべきことにこのアルバムは、過去のベスト・アルバムの概念を変えるほどの異例の好セールスを記録。わずか数ヵ月間のうちに、全世界で全世界で1000万枚を超える爆発的なセールスとなっている。
また、同時期にデヴィッドが初ソロ・アルバム『オン・ア・フル・ムーン…』をリリース。
12月には、リッチーが女優のヘザー・ロックリアと結婚。しかし、10年間活動をともにしてきたアレック・ジョン・サッチがバンド脱退を表明する。残りのメンバーは後任ベーシストなしに活動することを決意し、旧友ヒュー・マクドナルドにヘルプを依頼した。

 


 

1995年
  ジョンの自宅スタジオなどでレコーディングされた6thアルバム『ジーズ・デイズ』を6月にリリース。
このアルバムは純粋なロックンロールに焦点を絞った内容で、ボン・ジョヴィらしさが全面に表れた作品となった。特にこのアルバムに対する日本のマーケットの反応は素晴らしく、日本のアーティストを抑え、オリコン総合チャートでNo.1を獲得。リリース直前の5月に行なわれた日本公演の成功がセールスを後押しする形となった。
日本公演後はヨーロッパや南米、南アフリカでもツアーを開催。ベスト・アルバムの成功をきっかけに、ボン・ジョヴィはよりグローバルなバンドへと躍進している。このうち、ロンドンの『ウェンブリー・スタジアム』(約7万人収容)公演は3日間連続ソールド・アウトという快挙。大御所ローリング・ストーンズのツアー・サポートとして全3公演にも出演している。また、本格的に俳優活動をスタートしたジョンの映画デビュー作『ムーンライト&ヴァレンチノ』も公開された(日本公開は'96年10月)。

 


 

1996年
  1月にジョンはロンドンで、初主演映画『妻の恋人、夫の愛人』の撮影をスタート。これと同時進行で2ndソロ・アルバムの制作も開始する。
ボン・ジョヴィとして'96年の初仕事は5月の日本公演だったが、この来日時にメンバーはバンド活動の休止を宣言。しかし、今回は全員が納得したうえでの休止で、バンド解散はキッパリと否定した。日本公演の後、7月中旬まで続いたヨーロッパ・ツアーで『ジーズ・デイズ』に伴うワールド・ツアーを終了。大きな会場に観客を大量動員して公演回数を押さえ、心身ともにバンドの良好なコンディションを維持するという方法が取られたこのツアーでは、42ヵ国で72公演を行ない、そのほとんどがソールド・アウトとなっている。
ツアー終了後、ジョンは映画『リトルシティ』の撮影を行ないながら、ソロ・アルバムの制作を再開。年末には映画『妻の恋人、夫の愛人』が公開された(日本公開は'97年5月)。またティコは、絵画&彫刻アーティストとしての活動をスタート。美術界から高い評価を受けている。

 


 

1997年
  2月にジョンが映画『ノー・ルッキング・バック』の撮影をスタート。これと同時進行で、ソロ・アルバムのレコーディングを行なう。6月、ジョンが2ndソロ・アルバム『デスティネイション・エニィホエア』をリリース。豪華俳優陣が友情出演したプロモーション用の短編映画も話題になった。
ジョンは7月にわずか1回だけのライヴのため来日。8月以後は不定期にソロとしてのライヴを行なっている。この間、映画『リトルシティ~恋人たちの選択』が公開された(日本公開は'99年3月)。一方、リッチーもソロ・アルバムの制作を開始。9月にシングル「ハード・タイムス・カム・イージー」をリリースし、世界に先駆け12月に2ndソロ・アルバム『アンディスカヴァード・ソウル』をリリースしている。この間、日本のアーティスト反町隆史に「Forever」を提供し、レコーディングにも参加。ドラマとの相乗効果から大ヒット曲となっている。
また、デヴィッドも2ndソロ・アルバムの制作を進めていたが、7月に指に大怪我を負ってしまう。以後彼は約2年間、治療とリハビリのためプレイできず、2ndソロ・アルバム制作も中断したままになってしまった。

 


 

1998年
  ジョンにとっては、ミュージシャンとしての活動よりも、俳優としての活動が多い1年だった。映画『ノー・ルッキング・バック』(日本公開は'00年5月)、『ワイルド・スモーカーズ』(日本公開は'00年1月)、『ストリート・オブ・エンジェル~ニューヨークの天使』(ビデオのみ日本公開'00年12月リリース)と、立て続けに映画を撮影&公開されている。他に、ソロ名義で映画『アルマゲドン』のサウンドトラック用に曲を提供した。
またリッチーは、ソロとしてのワールド・ツアーを開始。ヨーロッパとアメリカを中心に不定期にライヴを行ない、6月にはソロとして初の日本公演も行なっている。しかし、予定よりも早く秋頃にジョンはボン・ジョヴィのニュー・アルバムの計画を公表。'99年から再びバンドとして始動することになった。

 


 

1999年
  ボン・ジョヴィとしての活動再開は、映画『エドTV』のサウンドトラックへの曲提供からスタートした(この曲にはデヴィッド不参加)。そして、ジョンが映画『U-571』の撮影を終えた6月から、ジョンの自宅スタジオでニュー・アルバムのレコーディングを開始。制作当初から、ボン・ジョヴィの持つアップビートな魅力を満載したアルバムにするという意向が伝えられている。このレコーディングの間、ジョンとリッチーは、日本のアイドルがチャリティのために結成しているグループJ-FRIENDSのために「NEXT 100 YEARS」を提供(後にセルフ・カヴァー)。この曲はオリコン総合シングル・チャートでNo.1を獲得し、ボン・ジョヴィが書き上げた曲として日本で初のNo.1シングルとなっている。また、年末には映画『U-571』が公開された(日本公開は'00年9月)。

 


 

2000年
  3月にニュー・アルバムのレコーディングを終了。この終了時には、ジョンの自宅からインターネットを通じて、全世界のファンに新曲をライヴで披露するという初の試みも行なわれた。
ジョンの映画『ペイ・フォワード』の撮影終了を待って、5月にはプロモーションのため来日。
7thアルバム『クラッシュ』は、この来日時に世界に先駆け日本でリリースされている。リリース日当日には、メンバーが直接ファンにアルバムを手渡すというイベントも開催された。6月にヨーロッパでのプロモーションを行なった後、7月からワールド・ツアーをスタート。今回のツアーもまた、皮切りは日本公演となった。8月からスタートしたヨーロッパ・ツアーを経て、11月からは全米ツアー開催。各地で大規模なスタジアムを使用したショウが披露されている。年末には、映画『ペイ・フォワード~可能の王国』が公開された(日本公開は'01年1月)。

 


 

2001年
  1月からジョンが映画『Vampires Los Muetos』の撮影をスタート(現時点で公開未定)。ボン・ジョヴィは、オーストラリアを経て行なわれた3月の日本公演から再びワールド・ツアーを再開した。この日本公演に合わせる形で、日本特別編集のベスト・アルバム『TOKYO ROAD~ベスト・オブ・ボン・ジョヴィ』もリリースされている。
そして、4月のヨーロッパ・ツアーを経て行なわれた全米ツアーは7月の地元ニュージャージーの凱旋公演で終了。約7万人を収容する『ジャイアンツ・スタジアム』で華々しく幕を閉じている。この全米ツアー時、元ベーシストのアレック・ジョン・サッチが飛び入りするというハプニングもあった。
また、欧米で5月にリリースされた初のライヴ・アルバム『ワン・ワイルド・ナイト』は、日本で12月にリリースされている。ツアー終了後、9月にアメリカで起きた同時多発テロの影響から、ボン・ジョヴィは各チャリティ活動に参加する。そしてジョンは、アメリカの人気テレビ・ドラマ『アリー・myラブ』の撮影をスタート。同時進行でニュー・アルバムの制作も行ない、10月には早くも『Bounce』というタイトルが発表された。

 


 

2002年
 引き続きジョンがドラマ『アリー・myラブ』の撮影を行なうため、ロサンゼルスに滞在。このドラマはアメリカで1月から放映され、ジョンは全9話に出演している。その間、ボン・ジョヴィはデモ・テープの制作を行なった他、各種イベントに出演。2月には、ソルトレイク・シティで行なわれた冬季オリンピックの閉会式でパフォーマンスも披露している。3月にはニュージャージーに戻り、ジョンの自宅スタジオでレコーディングを開始。この間、5月7日にはジョンに第3子となる男児が誕生した。また、6月2日には地元『ジャイアンツ・スタジアム』で開催されたラジオ局主催のイベント『Zootopia』に出演している。『クラッシュ』の大成功と共に、再びバンドとして最高の状態の中にいるボン・ジョヴィ。身体の中から溢れ出るアップビートな気持ちを抑えきれなかったというメンバーが送り込む通算8枚目のスタジオ・アルバム『Bounce』を日本で9月11日にリリース。この発売日にZEPP TOKYOにてファンのためだけに行われた前代未聞のクラブ・ギグを開催。このライヴは全国他4大都市のZEPP会場(大阪、名古屋、福岡、仙台)にて生中継された。

 


 

2003年
 日本を皮切りに'Bounceワールド・ツアー'を開始。ローリング・ストーン誌の読者投票にてベスト・ツアー・アクトの3位に選ばれる。8月7日、8月8日地元ニュージャージー、ジャイアンツ・スタジアムにて両日各6万人を動員(SOLD OUT)してBounceツアーのグランド・フィナーレを迎える。アルバム『バウンス』は全世界で300万枚のセールスを突破。10月、PAT LEONARD(マドンナ、エルトン・ジョン、ロッド・スチュワートなど)をプロデューサーに起用して制作したベスト・アルバム『ディス・レフト・フィールズ・ライト~バック・アット・ザ・クロスロード』をリリース。

 


 

2006年
4月からスタートする来日公演を前に、リッチーが左腕を骨折。ファンを心配させるも見事なパフォーマンスを披露!来日公演も大成功した。