BIOGRAPHY

BEN.E.KING / ベン・E.キング


Bioベン・E.キングは、そのたぐいまれな美しいバリトンの声で、ロックの殿堂入りした今も、音楽の風景を華やかに彩っている。そして、成功を求める無数のアーティストたちにとって彼は目指すべき最高の目標である。ハーレムのから、名の知れたソロ・アーティストにいたるまで、ベン・E・キングがポップ・ミュージックに与えた影響は計り知れない。

本名ベンジャミン・アール・ネルソンとして、ノースカロライナ州のヘンダーソンで生まれた後、ベンの一家は、彼が9歳の時にニューヨーク市に引っ越した。中学生の時、彼は、誰にも負けない自らの才能を見つけることとなる。歌の上手い仲間たちとコーラス・グループを結成したのだ。早熟なベンでも、放課後に歌う即興のドゥーワップから、自分のとてつもなく大きな野望が叶い、それから何十年にもわたって、何百万人という世界中の音楽ファンを魅了し続けるというダイナミックな音楽的成功への道が開けるなどとは考えが及ばなかったであろう。だが、ベニーの若い仲間たちのグループは、The Four B’sとして知られるようになり、地元では最も音楽的才能があるグループの一つとの評判を得るようになった。そして、彼らの努力と成功はお墨付きを得ることとなる。ある夜、世界的に有名なアポロ・シアターでライバル・グループたちと競演して、第2位入賞を果たしたのだった。

1958年にベンは、有名なアーティストたちのショーの前座をしていた地元のザ・ファイブ・クラウンズのメンバーとして大成功を収めた。同年には、世界一の人気を誇っていたR&Bグループ、ドリフターズのアポロ・シアターでのコンサートの前座を務める機会を得た。ドリフターズでは、人気だったリード・シンガーがグループを去ってしまったことで、マネージャーのジョージ・トリードウェルは、グループに対して途方もない空虚感と疲労感を感じていたところだった。そこで彼が思いついたのは、ドリフターズを才気あふれるザ・ファイブ・クラウンズとそっくり取り替えてしまうことだった。この大胆な移籍作戦のおかげで、ベンは当時最高のR&Bグループのリード・シンガーとなり、自らの楽曲を発表する道が開けたのである。1959年にレコーディングが行われた最初のシングルは、ベンがジェリー・リーバーとマイク・ストーラーと組んで作ったバラード「There Goes My Baby」で、アトランティック・レコードから発売されると、大ブームを引き起こすヒット曲となった。ドリフターズはこの曲で、メジャーな音楽のレコーディングにおいて弦楽器(ヴァイオリン)を取り入れた最初のポップグループとして注目を浴びた。

その後ベンは、ドリフターズのヒット曲「ダンス・ウィズ・ミー」 や「ディス・マジック・モーメント」、 「ラスト・ダンスは私に」そして、「アイ・カウント・ザ・ティアーズ」などで、リード・シンガーを務めた。ところが、ドリフターズの一員として、ありえないような成功の真っただ中にあった1960年に、ベンは、ずっと思い描いていた夢を実現させて、さらに高い所をめざす決意をした。つまり、ソロ・アーティストとして自らの曲を歌って行くことを選んだのである。それには、ドリフターズ在籍時と区別できるよう、ソロ・アーティストとしての名も必要となった。そこで彼は、本名を短くし、ミドル・ネームをイニシャルにしたところに、さらに名字を変えて、ベン・E.キングという新しい名で人々に知られるようになった。

1961年にリリースしたソロ最初の曲は、ソウルの女王までもがカヴァーした、華麗なラテン・タッチの「スパニッシュ・ハーレム」で、彼は、ベン・E.キングとして世界中から絶大な人気を得ることとなった。心に染み入るヴォーカルが印象的な2枚目のシングル「スタンド・バイ・ミー」で、彼はさらなる偉業を成し遂げた。R&Bチャート1位、全米ヒットチャートのトップ5位入りを果たしたこの曲は、ベン・E.キングとリーバー、ストーラーとの共作で、今も非常に多くのミュージシャンによって歌われ、カヴァーされ続けている。また、ハリウッドの映画監督ロブ・ライナーは、この曲からインスピレーションを受けて、1986年公開の長編映画のタイトルを『スタンド・バイ・ミー』とし、同名のこの曲を主題歌に選んだ。これを機に、「スタンド・バイ・ミー」はシングルとして再発され、全米チャートトップ10まで上昇し、イギリスでは1位を獲得した。

1962年もベン・E.キングは次々とヒット曲をとばした。「ドント・プレイ・ザット・ソング」は、再び商業的な成功をおさめ、「アイ・フー・ハヴ・ナッシング」やラテン調の「アモール」もそれに続いた。

60年代初めにはすでに相当な音楽的業績を達成し、ベン・E.キングの活躍はとどまることを知らないように思われた。しかしながら、時代の潮流は変わり始めていた。その頃までずっと、R&Bやアメリカの初期のロックのまねばかりしていたイギリス人アーティストたちが、ついに、自分たちが影響を受けた音楽をその創始者たちのもとへ逆に輸出する勢いに成長してきたのだ。キングは当時こう話している。”イギリス人たちは、これまでにない大々的な公演宣伝活動を繰り出している。俺たちが作った音楽を拝借したものをわざわざ売りつけに来るとはね!”だが、アメリカの偉大なブルースやR&Bやロックのバンドをまねた無数のバンドが次から次へとやって来たものの、彼らの音楽は、気の抜けたコピーばかりで、比類のない才能を持つベン・E.キングのようなアーティストたちは、太平洋の向こうからやって来た嵐にもさほどの影響も受けることはなかった。それに、新たな動きとして、ディスコ・ミュージックの流行が生まれていた。繰り返し単純でアップテンポなリズムを反復するディスコが、アメリカ全土、そして世界中の電波を席巻していた。しかしそれでも、妥協など全く頭にないベン・E.キングは、バラード歌手として、自分の音楽に忠実な姿勢を貫き、彼の熱心なファンに対して誠実であり続けた。

1975年マイアミで公演を行っていた際、アトランティック・レコードの会長であったアーメット・アーティガンが、キングの圧倒的なショーを見て、彼にアトランティックと再契約を結ぶよう持ちかけた。キングは黙って同意し、古巣に戻ることとなった。そうして発売された、ファンク調のアルバム「スーパーナチュラル・シング パート1」は、R&Bチャート1位、そしてポップチャートでも5位に輝いた。アーティガンは、その頃キングについてこう語っている。”ベン・E.キングはロックンロールとリズム・アンド・ブルースの歴史において最も偉大なシンガーの一人だ。彼独特の歌い方とテンポは人々を魅了する。世界中の彼のファンが、彼の新しいアルバムを楽しんでくれることだろう。”この発言がきっかけとなり、ソウルフルなベン・E.キングと進歩的なアヴェレージ・ホワイト・バンドという、70年代で最も興味深いコラボレーションのひとつが誕生した。彼らの共作は、「ベニー・アンド・アス」というくだけたタイトルがつけられて、1977年に発表された。

ベン・E.キングの多才ぶりは、ミルト・ジャクソンと、長年レイ・チャールズのバンド・メンバーだったデヴィッド・ファットヘッド・ニューマンとおこなった1999年のコラボレーションにも見事に発揮されている。「シェーズ・オブ・ブルー」というユニークなプロジェクトがそれである。もちろん、彼はこれら以前にも他のアーティストと競演しており、22歳という若さで伝説の歌姫ラヴァーン・ベイカーとのデュエットを録音している。

キングの今世紀最初のアルバム「パーソン・トゥ・パーソン」は、彼らが愛してやまないジャズやブルースのスタンダードナンバーに対するトリビュート・アルバムであり、彼の編曲の手腕も発揮されている。スタジオで練り上げられたこのアルバムの録音は、ニューヨークの有名なブルーノート・クラブでライヴ録音された。キングは、まもなく新作CDの制作に取りかかり、世界を回ってライヴ公演をおこなう予定である。また、最近彼は、リズム・アンド・ブルースの大御所たち3人と「フォー・キングス」を組んで、ミニツアーを行い、傑出した面々による最高級のヴォーカルと時代を超越した名曲を披露している。

ベン・E.キングには、慈善家としての一面もある。アメリカの若者や恵まれない人々へのいたわりの気持ちから、彼らの困窮を改善しようと慈善団体を設立した。スタンド・バイ・ミー財団は、年1回開催のセレブリティ・ゴルフトーナメントを後援しているほか、精力的に募金活動を行っている。そうして、彼が大切に考えているコミュニティの向上のために再投資をおこなっている。

2005年にヒップホップが画期的な成功を収めるなか、ベン・E.キングは現在も新たな曲を発表し、東京からLAの街まで、世界中のファンを楽しませてくれている。一流のグループやアーティストの中でも、ヴォーカリストとして、ベン・E.キングの豊かで柔らかな声は、我々にとって、まさしく、貴重な宝と言えるだろう。『I’ve Been Around』は、True Life Entertainmentから2006年にリリースされ、翌年の2007年に彼は全国放送のテレビ番組「レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン」に出演した。このアルバムは、メロディアスで繊細さの中に、彼の多彩なヴォーカルが散りばめられた作品に仕上がっている。ベン・E.キングのキャリアを詩的に表現するとこんな風だろうか。”とび色の月が輝き、雄大な太陽が大地を照らすように、ベン・E.キングの珠玉の作品は、時を超えいつの時代も歌い継がれていくであろう。”

http://www.beneking.info/ に掲載のバイオグラフィーより引用/翻訳)