BIOGRAPHY

アンネット・一恵・ストゥルナート Strnadt, Annet Kazue (旧姓:高島一恵)


Annet _strnadt 01壮絶ないじめに耐えた少女時代
1938(昭和13)年、兵庫県西宮市に生まれる。

上海で幼少期を過ごしたのち、岡山県へ。しかし日本人離れした容姿と、日本語がうまく話せなかったことがいじめの対象になる。どもりが激しくなり、次第に誰とも口をきけなくなるが、不思議と歌の発表会では堂々と歌うことができた。

高校生のとき、母の病死がきっかけで一家離散となる。一恵は、亡くなる直前に母が言った「歌をおやりなさい」という言葉を胸に東京へ。定時制の高校に通う傍ら坂本博士氏に師事、声楽の勉強を始めた。

音楽大学を受験するもすべて不合格だったため、合唱団をベースに歌手活動を開始する。「ママレモン」など、企業のCMソングで才能が開花、「彼女が歌うと商品が売れる」と高い評価を受ける一方で、「音大を出ていない」ことが非難の的に。歌に対する思いとはうらはらに、活動の幅が狭まっていく現実を悲観し、自室で睡眠薬を大量に呑んだ。

 

ウイーンへの旅立ち
 1969年、歌える場所を求めてウイーンへ旅立つ。ウイーンの電話帳で最初に見つけた女性講師、ロッテ・バブシカ氏に師事。

 バブシカ氏の指導が功を奏し、ウイーンの代表的な音楽大学である現・ウイーン音楽造形芸術大学に合格。さらにその1年後、開設されて1世紀のあいだ東洋人歌手を入団させたことのないウィーン国立歌劇場団員のオーディションにも合格した。音楽大学を出ていないことで非難された時代を思い出し、「経歴や学歴を問われない世界がこの世にはあるのだ」と実感する。

 しかし、差別はやっぱりあった。東洋人初のオペラ歌手となった彼女を、団員もスタッフも相手にしなかった。食堂では注文した食事が出てこない。衣装部屋に行っても衣装を渡してくれない。差別の下で歌い続けて4年経ったある日、突然世界最高の指揮者カラヤンが彼女を評価。以降、いじめはピタリと止み、真の実力社会での活動をスタートすることとなる。

 

72歳、オペラ座の退団と、日本での新たなスタート

1971年にオペラ座の舞台に立って約40年。歌手活動を続ける傍ら、妻となり(後に離婚)、二人の娘の母親にもなった。オペラ座の演出も様変わりするなか、2010年6月6日の公演を最後にオペラ座を退団。「オペラ座での仕事はやり終えた」と充足感に浸りつつも、純粋な日本人でありながら居場所を見つけられなかった日本に活動の場所を移す。72歳のいま、ひとりの歌手として新たなスタートを切ろうとしている。

 

■♪豆知識♪

アンネット・一恵・ストゥルナートって本名??
旧姓は高島一恵です。文学少女でロマン・ロランの「魅せられし魂」を愛読していた母親からこの小説の主人公である「アンネット」あるいは「アンネ」ちゃん、と幼少の頃から呼ばれており、ウィーンに渡った後にストゥルナート氏と結婚した為、この名前に。

「故郷、日本をうたう」の録音場所ともなった母校、吹屋小学校って どんなところ?
吹屋小学校の校舎は、明治33年(1900年)から同42年にかけて建築され、現役の木造校舎として日本一古いもので、ほぼ一世紀を子供たちとともに生きています。

吹屋はどこに?
岡山県の中心よりも少し北西に位置する吹屋。岡山駅から伯備線に乗ること約50分で備中高梁駅に到着し、そこからバスで山を登った標高550mの山嶺にあ る町、吹屋は、江戸時代から昭和初期にかけて、中国地方第一の銅山町として栄え、江戸時代末期からはベンガラという特産品の生産が重なり、「ベンガラの 町」として全国に知られました。旧街道沿いの町並みには、ベンガラ格子に赤銅色の石州瓦、妻入の切妻型、平入式等が印象的な商家が立ち並んでいます。