BIOGRAPHY

ACCEPT / アクセプト


マーク・トーニロ:ヴォーカル/Mark Tornillo - Vocals
ウルフ・ホフマン:ギター/Wolf Hoffmann - Guitars
ヘルマン・フランク:ギター/Herman Frank - Guitars
ピーター・バルテス:ベース/Peter Baltes - Bass
ステファン・シュワルツマン:ドラム/Stefan Schwarzmann - Drums


『Blood Of The Nations』

70年代以前のこと

「すべては一本のギター、1962年にオレが初めて自分で稼いだカネで買ったギターで始まった。オレは13歳で、後にアクセプトとなるバンドでウド・ダークシュナイダーと一緒に最初の音楽的第一歩を踏み出したんだ。バンド名は1970年にリリースされたブリティッシュ・ブルース・バンド、チキン・シャックのアルバムから取ったのさ」(マイケル・ワグナー)

1970年代
それより前、ウドとマイケル、ドラマーのビルケ・ハウは「バンドX」というバンドで「実験」をしていた。しかし、その後ウドとマイケルの二人がドイツの軍隊に徴兵されてしまったため、すべては中断してしまう。

1972年 : 兵役のあと,マイケルはハンブルグのストランプ・オーディオで電気技師として働き始めた。ウドはヴッパータールに戻り、そこで学生でギタリストのゲルハルト・ウォールに出会って、バンド結成を決意する。じきに彼らはギターにハンス・ハイツァー、ドラムにフランク・フリードリッヒ、ベースにディーター・ルバッハを加えた。これはバンド、アクセプトがいちばん初めに形を成した瞬間だった。

1975年 : 16歳のウルフ・ホフマンがハンス・ハイツァーに代わってセカンド・ギタリストとして加わり、バンドのサウンドが大幅に変化する。

1976年 : ディーター・ルバッハがアクセプトを脱退、18歳のベース・プレイヤー、ピーター・バルテスが加えられる。ホフマンとバルテスによってもたらされた音楽的ケミストリーとスタイルが「アクセプト・サウンド」に影響をもたらし始めていた。デュッセルドルフの勝ち抜きバンド・コンテスト『ロック・アム・ライン』でプレイしたアクセプトは、ハンブルグに近いヴィルスターのデルタ・スタジオのオーナーであるマンフレッド・シュンケの注意を引いた。バンドがコンテストで優勝しなかったにもかかわらず、シュンケは彼らにスタジオでアルバムをレコーディングする契約を申し出る。

1977年 : ゲルハルト・ウォールはプロとして音楽のキャリアを追求するつもりがなかったのでバンド脱退を決めた。ヨルグ・フィッシャーが後釜に決定した。

1978年 : 9月/12月、アクセプトは初めてスタジオに入る。フランク・マーティンをプロデューサーに迎え、バンドはデビュー・アルバム『Accept』をレコーディングした。リリースのすぐあと、フランク・フリードリッヒもまたプロの音楽キャリアを追求するつもりがなかったためバンドを脱退することに。後釜は若いドラマーのステファン・カウフマンに決まった。

1979年 : アクセプトの初めてのアルバム『Accept』がドイツのレーベル、ブレイン・レコーズからリリースされる。

ギタリストのウルフ・ホフマンは後にデビュー作を、バンドが形成期にまともな焦点も持たないままに手掛けた歌を集めたもの、とシンプルに振り返っている。「オレたちはずっとプレイしていた歌をただプレイしただけだった。あれは活動を始めた最初の2、3年の間に寄せ集めたマテリアルで、あらゆるもののミクスチャーだった。」興味深いことに、ベースのピーター・バルテスがこのデビュー・アルバムでは「Sound Of War」と「Seawinds」の2曲でシンガーとしてフィーチャーされている。これ以後も彼は歌っているが。
  当時、バンドの誰ひとりちゃんとした英語を話さなかったので、歌詞はなんだか素朴に聞こえる。「スタジオに入る数日前にオレたちは歌に歌詞が全然ついていないことに気づいたんだ。ウドは英語と全然しゃべらなかったから、わけのわからないことを歌っていただけだったのさ。だから、オレたちは辞書を引きながらそいつに意味を持たせようとしたんだ。」
しかし、デビュー作は初めて隣国のベルギーとオランダでプレイするためのドアを開いてくれた重要な初期のステップとなった。
  10月にバンドはヴィルスターのデルタ・スタジオに戻って『I’m A Rebel』というタイトルの2ndアルバムのレコーディングを開始した。ダーク・ステファンスをプロデューサーに迎え、バンドは次の2ヶ月をスタジオで過ごした。同じときAC/DCのアンガス&マルコム・ヤングの兄であるアレックス・ヤングが彼の歌の1曲をプレイするアーティストを捜していた。AC/DCはその曲をハンブルグでデモとしてレコーディングしていた。アクセプトの出版社であるシャハト出版ハンブルグのルディ・ホルツハウアーがたまたまその歌のことを聞き、アレックスをスタジオに招いてアクセプトのためにその歌をかけてもらった。結局「I’m A Rebel」はバンドの初の音楽ビデオになったばかりでなく、タイトル曲にもなったのだった。

1980年 : 『I’m A Rebel』はイギリスのロゴ・レーベル、アメリカのパスポート・レコーズから世界的に発表されたアクセプト初のアルバムとなった。

1980年代
1981年 : これはバンドのキャリアにとって大きなマイルストーンとも言うべき1年だった。
バンドは3rdアルバム『Breaker』のレコーディングのためにヴィルスターに戻った。アルバムはダーク・ステファンスのプロデュース、長年の友人であるマイケル・ワグナーのエンジニアリングだった。『Breaker』は「Starlight」や「Breaker」、「Son Of A Bitch」といった名曲を生んだ。また、その年アクセプトはギャビー・ホークとマネージメント契約を結び、その後彼がバンドをディーター・ダークスの出版およびプロダクション会社であるブリーズ・ミュージックと契約させた。こうしてバンドの世界的なキャリアが創設されたのである。アクセプトはすぐにジューダス・プリーストのヨーロッパ・ツアーをサポートする機会を得、これにより大きな世界的注目を集めた。ギャビーはまた、歌詞を書くのを手伝ってもらうよう、バンドをロバート・スミス・ディーゼルに紹介した。ツアーのあとヨルグ・フィッシャーがバンドを脱退。アクセプトはすぐさまホームタウンのゾリンゲン出身のヤン・コウメットを見つけて来てフィッシャーの後釜に据えた。ヤンは数ヶ月バンドと過ごしたが、結局うまくいかなかった。

1982年 : アクセプトはウルフにすべてのギター・トラックを任せて4thアルバムの制作に取りかかることにした。今回、彼らはドイツのケルン郊外のストンメルンにあるダークスのスタジオに向かった。またもやダーク・ステファンスがプロデュース、マイケル・ワグナーがエンジニアリングを行なった。ヨルグ・フィッシャーの脱退は打撃だったが、アクセプトは3ヶ月間スタジオに閉じこもり、彼らのキャリアを永遠に変えてしまうアルバムを作り上げた。今なお「Fast As A Shark」は初のスピード・メタル・ソングと見なされている。「Princess Of The Dawn」や「Neon Nights」、「Flash Rockin’ Man」、「Restless & Wild」のような他の歌はすぐさまクラシック・ソングの仲間入りをし、世界中の若いギター・プレイヤーやヘヴィ・メタル・バンドに影響を与えた。

1983年 : 『Restless & Wild』はその年の初頭に発表され、アクセプトにとって代表的アルバムとなった。バンドはふたたびツアーの準備を整え、ヨルグ・フィッシャーの後釜にヘルマン・フランクを据えた。
7?8月、バンドはまたしてもスタジオに入ったが、その前にソングライター・チームに新しい人材、DEAFFYが加わった。その正体は数十年後に明らかにされたものの──DEAFFYはギャビー・ホークだったのだ──驚くほど長い間バンドの秘密とされてきた。今回、アクセプトはジューダス・プリーストのエンジニア、ロイス・オースティンを雇って、自分たちでアルバムをプロデュースすることにした。その結果、『Balls To The Wall』はアクセプトのもっとも売れたレコードとなり、アメリカなど世界中でゴールド・ディスクを獲得した。タイトル曲「Balls To The Wall」はアクセプトのトレードマークとも言うべきヒットとなり、そのギター・リフは歴史に残るベスト・メタル・リフのトップ40にランクイン──もちろん、アルバムは80年代を代表するヘヴィ・メタル・アルバムだと多くの人に思われている──、ゲーム『ギター・ヒーロー』のヒットのひとつになり、ミッキー・ローク主演のダーレン・アロノフスキーの映画『レスラー』(2008年)にもフィーチャーされた。

1984年 : アクセプトは『Balls To The Wall』をサポートする大掛かりなワールド・ツアーに乗り出すが、ギターはヘルマン・フランクに代わってまたしてもヨルグ・フィッシャーが担当した。ツアーでバンドは世界中を回り、シメはAC/DC、ヴァン・ヘイレン、オジー・オズボーン、モトリー・クルーらとともに出演したモンスターズ・オブ・ロック・フェスティバルだった。
10月から12月の間、アクセプトはスタジオに戻った。今回はスコーピオンズのプロデューサー、ディーター・ダークスが指揮を執った。『Metal Heart』はクラシックの要素が初めて取り入れられたアルバムだった。アクセプトのメンバーはソングライターとして成長しており、自分たちの音楽的領域を広げる準備ができたと感じていた。「Metal Heart」、「Midnight Mover」、「Up To The Limit」、「Wrong Is Right」、「Living For Tonight」はすぐさま名曲の仲間入りをし、ライブの常連曲となった。

1985年 : アクセプトは日本の名古屋における9月19日のコンサートを録音することに決めた。同年の後半、そのショーからのライブ・アルバムが『Kaizoku-Ban』としてリリースされた。アクセプトはその後、10月から新年までをダークスのスタジオで過ごし、次のアルバム『Russian Roulette』をレコーディングした。

1986年 : ニュー・アルバムでアクセプトは初期の頃のより暗く、よりヘヴィなサウンドに戻っており、前作『Metal Heart』のよりコマーシャルなサウンドから距離を置くものになっていた。ウルフ・ホフマンいわく「おそらくオレたちはあのレコードで自分たちの本質に戻ろうとしていたんだ。磨き上げられたアクセプト・サウンドじゃなくてね」。
『Russian Roulette』ツアーのあと、バンド・メンバーにクリエイティブ面のみならずパーソナリティの面でも変化が起こりつつあることが明らかになったので、ウド・ダークシュナイダーとバンドは友好的に袂を分かつことにした。ウドのキャリアを確立するため、彼が途切れることなくずっと活動を続けられるよう、アクセプトのマネージメントによってU.D.O.の名前が生み出された。U.D.O.の1stアルバム『Animal House』はウドのためにバンドが作曲し、最終的にアクセプトのレコード会社であるRCAから1987年にリリースされた。

1988年 : 残るメンバーたちは新しいシンガーを探し始めた。何百本ものデモ・テープを聞くことに何ヶ月もが費やされた。ついに、彼らはイギリスのバンド,ベイビー・タックーの若いシンガー、ロブ・アーミテイジを迎え入れた。バーモントで数週間リハーサルした後、ディーター・ダークスとミーティングして最終的な結論を出すために全員でスタジオに戻った。数日間の討議のあと、ロブは完璧なはまり役ではないという結論が下され、シンガー探しがふたたび始まった。多くのシンガーがテープを送ってきたり、個人的に訪ねてきたりした。中にはケン・テンプリンやマイケル・ホワイトなどのシンガーもいた。最終的にその仕事をゲットしたのはデヴィッド・リースだった。ふたたびクリエイティブになろうとアクセプトは9月にスタジオに入った。彼らはそれから4ヶ月を費やして、ウド・ダークシュナイダー抜きの初のアルバムをレコーディングした。

1989年 : 『Eat The Heat』が2月にリリースされ、ワールド・ツアーが続いた。アクセプトはまたしてもバンドを脱退したヨルグ・フィッシャーの穴を埋めるべくイギリス人ギタリスト、ジム・ステイシーを加えた。ステファン・カウフマンが背中に重傷を負ったためドラミングを断念せざるを得なかったのはこのツアーのときだった。アクセプトはアリス・クーパーのドラマー、ケン・メアリーを起用してツアーを続けた。不幸にしてバンドとデヴィッド・リースの間に大きな意見の相違が持ち上がり、ツアーは短縮されてしまった。ウドに続いて今やデヴィッドもいなくなり、さらにステファンはもうプレイすることができなくなった。ウルフ・ホフマンとピーター・バルテスはもう活動を休止すべきときだと判断した。

1990年代

1990年 : 1985年に日本の大阪で録音されたダブル・アルバム『Staying A Life』がリリースされた。今日に至るまでアクセプトは、録音された曲をひとつとして再録音したり差し替えたりしていないこのライブ・アルバムを彼らの最大の功績のひとつだと考えている。このリリース後、再結成を求める世界中のアクセプト・ファンの要求はどんどん強くなっていった。

1992年 : ドイツを訪ねた際、ウルフとピーターはウドとステファンに会い、もう一度一緒に仕事をすることを決めた。しかし、ウドのバンド、U.D.O.はすでに活動を進めており、バンドの仲間とともにひらめきを探し求めているときもウドは「心ここにあらず」状態だったかもしれない。彼らはスタジオに戻って、『Objection Overruled』に取りかかった。ステファン・カウフマンは──あらゆる困難を乗り越えて──ふたたびプレイができるようになっていたので、アクセプトは全速力で突き進んだ。これまでの他のアクセプトのアルバムと比較して、ウルフ・ホフマンは『Objection Overruled』はレコーディングが容易なアルバムだったと振り返る。「あれは素晴らしかったよ! だって、仲直りして、再結成するっていうのはいつだってある意味素晴らしいものだろ。なにしろ、そういうやる気や新鮮な風がふたたび感じられるわけだから。あれは最高だった!」さらに彼は加える。「オレたちはあのとき大いに楽しんだよ。アルバムはオレたちがそれまでずっと作っていたように作ったんだ。もう実験だのなんだのはやめて、昔のままのやり方を使うべきだと思ったのさ。アクセプトがそれで有名になったことをね。だから、そいつをやったってわけだよ」

1993年 : 『Objection Overruled』が2月1日にリリースされ、続いてワールド・ツアーが行なわれる。これはアクセプト自身がアルバム・ジャケットを制作した初めてのレコードとして注目された。

1994年 : 次のアルバム『Death Row』をレコーディングしている最中にステファン・カウフマンの背中の問題がぶり返した。アクセプトは伝説的人物、カーマイン・アピスをはじめ、多くのドラマーを迎えたが、最終的にステファン・シュワルツマンに落ち着き、アルバムを完成させた。『Death Row』は秋にリリースされ、その後またツアーが続いた。

1995年 : 今回、アクセプトはナッシュビルの16th アベニュー・サウンド・スタジオに向かい、マイケル・ワグナーのプロデュースで次のアルバムをレコーディングした。ダム・ヤンキーズのドラマー、マイケル・カーテロンがこのセッションに迎えられた。しかし、『Predator』を作っている間にウドとアクセプトの間のケミストリーがなくなっていることが非常に明白になって来たため、ウドは彼のバンド、U.D.O.と一緒にいるべきだということにふたたび全員が同意したのである。

1996年 : 『Predator』がリリースされた後、アクセプトとウドは最後のワールド・ツアーに出、アメリカ、ヨーロッパ、アジアを回った。ツアーとアクセプトの活動は’96年7月、日本の東京で終了した。

2000年から2009年まで

2005年 : アクセプトとウドはヨーロッパの夏のフェスティバルでプレイするために短期間再結成。ウド・ダークシュナイダー、ウルフ・ホフマン、ピーター・バルテス、ヘルマン・フランク、そしてステファン・シュワルツマンは、バンドがいずれ永遠に袂を分かつことを知りながらこの夏の間思い切り全力投球し、ステージで大きな成功を収めた。

2009年初頭 : 5月にウルフとピーターが会い、その後二人はマーク、そしてアンディ・スニープに会った。続く数ヶ月間、スニープはプロデューサー以上の存在となった。彼らはステファンとヘルマンに連絡をつけ、アルバム『Blood Of The Nations』をレコーディングし、ビデオを作り、ハンバーガー屋に行き、国中を運転して回り、ナッシュビルに戻り、フランクに会い、犬に餌をやり、新しいセットリストを作り、ツアーをブッキングし、ギャビーをてんてこ舞いさせ、昼も夜もステージの練習をし、素晴らしい音を出し、ニューヨークに行き、ソールドアウトのショーをやり、世界をビックリさせた。

2010-嵐がやってくる!

2009夏 - メディア、ファンそしてレーベルに素晴らしいニュースが届いた。「Acceptが新しいシンガーを加え帰ってきた」。当初の反応はにぶかった。しかし人々は少しずつ話し始めた。新しいシンガーで一体Acceptはどのように機能するのか?!しかしAcceptが活動を再開すると同時に、このニュースは高波のごとく広がっていった。

メッセージは大きくそして素早く広がった!

AcceptがNuclear Blastとワールドワイドなレコード契約を結んだのだ。
Acceptは世界中のツィッターに不具合を生じさせた。国際的メディア機関のCNN、BBCワールド、ザ・インディペンダント、ニューヨーク・タイムズ、スピーゲル・オンライン社などが取り上げたのが”ツイッター不具合”だ。ドイツのあるハードロックバンドがネット史上初めて引き起こしたアクセス集中による不具合だ。
ACCEPT - 新作ビデオ”Teutonic Terror”はMyspaceのオールジャンルとハードロック/メタルのジャンルでビデオ・チャート#1を獲得した。同作品はUK、日本、ニュージーランド、フランス、ドイツ、メキシコ、韓国ほか諸外国の国内ランキングでもトップ5入りを果たした。
Acceptはハードロック・フェスを盛り上げ、シークレット・ヘッドライナーになった。
AcceptはAC/DCのハノーヴァーとシュトゥットガルト(ドイツ)のショーでもメイン・サポートを努めた。
Accept- ブダペストとイスタンブールで開催されたSONISPHEREフェスティバルではヘッドライナーを飾った。同フェスティバルではラムシュタインとメタリカが別の日のヘッドライナーになっている。
結果:Acceptは記録的な勢いで突き進んでいるかもしれない。そして誰もまだこれがクライマックスだとは思っていないし、来月何が起きるのか楽しみにしている。Acceptという名の戦艦は、今まさに外洋から本土に向かっているところだ。要注意!