BIOGRAPHY

40 Ft. Ringo


40ftringo _bioスティーヴ・ブラウン(Vo .G)
PJファーレイ(B)、
ブライアン・ガブリエル(Ds)
マズ(G)


40Ft. Ringoの前身とも言えるTRIXTERは1983年、ニュージャージー州パラマス(Paramus)にて、スティーヴ・ブラウン(g)とピーター・ ローラン(vo)によって結成。一年ほどベースメントでリハーサルを積む中、ドラマーのマーク"ガス"スコットが加入。ニュージャージー/ニューヨーク地 域のクラブ・シーンに躍り出る。1988年にはベーシストP.J.ファーリーが加わり、いよいよラインナップが決定。積極的なライヴ活動のおかげでファン 層は広がる一方、1989年5月にはMCA傘下のMechanicレコードと契約。

 1989年9月、ハリウッドに向かった彼らは、プロデューサーのビル・レイ(Bill Wray)と共にデビュー・アルバム『TRIXTER』を制作。1990年5月にリリースされたこの作品からは"Line Of Fire"がロック・ラジオ用のファースト・シングルに選ばれ、7月にはZ-ROCKSトップ100のNo.1に輝く。また、"Give It To Me Good"には初のビデオ・クリップも作られた。

 1990年9月、待望のアメリカン・ツアーを決行。しかし2週間後にはSTRYPERからオープニング・アクトのオファーが舞い込み、 ニューヨークからシアトルまで横断。そのハイエナジーなパフォーマンスで多くのファンを魅了する。10月にはドン・ドッケンとアメリカン・ツアー。また、 ちょうどこの頃、MTVが"Give It To Me Good"のビデオを頻繁に流し始め、一週間後には「DIAL MTV」というカウントダウン番組でNo.1の座をゲット。5週間に渡ってとどまる。
 1990年12月、2ndシングル"One In A Million"用のビデオ撮影が、NYのロックランド・カウンティで行われた、ソールド・アウトのライヴ会場にて行われる。また、映画『IF LOOKS COULD KILL』のサウンドトラック用に"One Mo' Time"を提供。ここでは、ロック界の伝説エドガー・ウィンターがサックス奏者としてゲスト参加している。

 1991年1月、デビュー・アルバムは週2万枚の売り上げを記録し、"One In A Million"のビデオ・クリップも3週間に渡ってMTVのNo.1に。アルバムの ビルボード最高位は28位。シングル"Give It To Me Good"はトップ50入りを果たした。
  その後POISONのオープニング・アクトとして、初めてアリーナ・クラスのステージに立つ。そしてその後はドイツの英雄SCORPIONSと共に、約5ヶ月かけてアメリカを回る。その間、"One In A Million"もビルボード・トップ50圏内にエントリー。
  2月、フロリダ州デイトナで行われた「MTV's Spring Break」に参加。その直後、カリフォルニアのアーヴァイン・メドウズの楽屋で、レコード会社からメンバーに素晴らしいニュースが伝えられる。デ ビュー・アルバムのセールスが50万枚を突破し、ゴールドに認定されたのだ!
  4月、地元メドウランズ・アリーナで凱旋コンサート。アフター・ショウ・パーティーではゴールド・ディスクの授与式も行われた。
  5月、3rdシングル"Surrender"のビデオを撮影。6月からはWARRANT、FIREHOUSEと共に「BLOOD, SWEAT & BEERツアー」に出発。また、人気ロック雑誌メタル・エッジが丸ごと一冊をTRIXTERの特集「THE TRIXTER COLOR SPECTACULAR」にあてた。"Surrender"のビデオは再びMTVのチャートを駆け上り、2週連続でNo.1に。またシングルもビルボー ド・トップ50入り。

  1991年9月、「BLOOD, SWEAT & BEERツアー」の模様が収録され、ペイ・パー・ヴューの特集番組となる。そして10月にはついにツアーも終了。デビュー・アルバムに伴う活動は大好評のまま幕を閉じた。
  1991年年末、アルバム・セールスは75万枚を記録。3つのナンバー1ビデオ、3つのトップ50シングル以外にも、ヒット・パレーダー誌の「1991年度ベスト・ニュー・バンド賞」、メタル・エッジ人気投票の「ベスト・ライヴ賞」を受賞。また、映画のサントラ関連でも、"Line Of Fire"が『MARIO BROS....WHITE KNUCKLE SCORIN』で、"One Mo' Time"が『IF LOOKS COULD KILL』で使用された。

  1992年に入り、バンドはさっそく2ndアルバムのプリ・プロダクションに取りかかる。同時に、レコード契約はMCAとの直接契約となる。
  ニュー・アルバムのプロデューサーにはRUSHやQUEENSRYCHEなどでお馴染みのジェームズ"ジンボ"バートンを任命。レコーディングは4月 から8月まで行われ、その成果は『HEAR!』と名付けられた。10月のリリース直後から、長年のアイドルKISSのオープニング・アクトとしてアリー ナ・ツアーに出発。アメリカ全土を旅した。しかし巷ではグランジ旋風が吹き荒れ、ラジオもMTVもなかなか1stシングル"Road Of A thousand Dreams"をオンエアしてくれない状況が続く。

  1993年に入り、次のシングル"Rockin' Horse"のビデオを作る一方で、「THE HEAR CLUB FOR MEN TOUR」と銘打ったクラブ・ツアーを敢行。5月にはジャパン・ツアーも実現。『HEAR!』は日本で好調な売り上げを示し、大阪とクラブチッタ川崎で行 われたコンサートも大盛況。6月にはミルウォーキー・サマーフェストに5千人を集め、ツアーの最後を飾った。が、時代の流れには逆らえない。残念ながら MCAは彼らをドロップする決断を下す。

  1994年、スティーヴ・ブラウンの自宅スタジオで『UNDERCOVERS EP』を自主録音。これはカヴァー曲集で、10月にインディ・レーベルBACKSTREET RECORDSからリリース、それに伴う全国ツアーも行なった。彼らはどんな状況下に置かれても挫けなかった。しかし、ポップ・メタルが時代の流れに反していることは誰の目から見ても明らか。いよいよ、次なるステップを踏み出す時が来たのだった。
  それにしても、TRIXTERの残した功績は大きい。1999年にはVH-1の「WHERE ARE THEY NOW」にフィーチャーされ、2000年には同じくVH-1が行なった「TOP 40 HAIR BAND COUNTDOWN」で29位にランクイン。『GLAM ROCK VOL. 2』というコンピレーション・アルバムには"Give It To Me Good"が、『ROCK OF THE 80'S』には"One In A Million"が、『HARD LOVE』には"Surrender"が収録されている。

  1995年、スティーヴとP.J.の二人はTHOWAN ROCKSを結成。5人編成のバンドはBEATLESやレニー・クラヴィッツを彷彿させるサウンドをもち、NY地区でかなりの数のライヴをこなすが、残念 ながらレコード契約には至らず。しかしNYではアリス・クーパーとSCORPIONSの前座を務めたこともあった。

  1997年、ラインナップの変更と共にバンド名もSOAKEDに変更。"Silver King"という楽曲がNYのラジオ局92.3K-ROCKが主催するバンド・コンテストで優勝。オン・エアーも好調だったが、この時もまた、レコード契 約は勝ち取れず。1999年10月にはLAの伝説的ロック・クラブ「WHISKEY A GO-GO」でライヴを行う。

  そして2000年、いよいよ40Ft. Ringoの誕生。ドラマーはオーディションでブライアン・ゲイブリエル(元THE CHEESE、CURBレコードと契約)に決定。8月にはNJ州アトランティック・シティのトランプ・マリーナでFOREIGNERの前座を務める。もち ろん地元NY/NJのクラブは着々と制覇。"Anyway"はNJの105.5WDHAでヘヴィ・ロテーションに加わり、NJ州最大の新聞「THE RECORD」も彼らをフィーチャー。2001年12月にはTESLAとヴィンス・ニールとのライヴも実現。
  2002年5月、ついに悲願のレコード契約をATENZIAレコードと交わし、デビュー・アルバム『FUNNY THING』も完成。2003年3月のリリースを目指す。

40FT. RINGOのストーリーは今、始まったばかり....